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被爆体験について 
相原 悦子(あいはら えつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 大橋工場(長崎市大橋町[現:長崎市文教町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 三菱重工業㈱長崎兵器製作所大橋工場 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
長崎市大橋町三菱兵器製作所工作設計課勤務中当時住所長崎市岩川町あの日意識不明のまま気が付いた時血まみれて諫早高女に収容されて居りました。収容所には八月九日と二泊したと思います。軍医さんや各町村から召集された先生方が治療に当って居られました。頭部に切り傷足には大きな切り傷大きな口があいて居りました。附帯の部分を鋏で切り取られ全身やけただれて居た人々もイタイイタイの声一ツ出さずもはや声を出す力さえ残って居なかったのでしょう。

異様な臭の中でかすかに命をとりとめて居る人々まさに地獄とは此の有様だと思いました。生涯忘れる事はないでしょう。忘れよう忘れようと思う反面忘れられません。国防婦人会のタスキをかけた御婦人の方々は窓から見る人ばかり。手を差しのべてくれる人は居ませんでした。あまりにもヒドイ有様なので多分恐かったのでしょう。森山(地名)警官の奥さんとおっしゃる方が私に声をかけてくれました。敏活な奥様でした。島原の生家に連絡して下さって父が迎いに来てくれました。

其の夜、旅館に引き上げ翌日島原の生家に帰りました。歩けない為叔母と母に腕をとられ通院。其処元長崎医大に勤務中の姉が即死灰色の骨になって帰宅。惨酷ですよ。此の言葉以外表現の言葉がありません。私は抜け毛が始まりつかんだだけ抜け頭の繃帯を取り替える毎に髪毛が抜けとうとう丸ボーズになりました。驚きと悲しみで一杯でした。九月七日目眩がして倒れそれから寝たきりの毎日でした。四〇度の高熱が続き全身に斑点が出、歯ぐきから出血が続き歯が全部がユラユラして全身が痛くだるく全身から骨がなくなったんぢゃないかしらと思った位です。苦しかった。一層あの時になんて思いました。四〇度の高熱が二〇日余りも続くと口のなかはとけて仕舞いそうになりましたね。毎日先生が往診して下さっても高熱はいっこうに下らず其のうち熱も一分二分と下がり斑点も少しづつ消え室内だけハイハイで歩行出来る様になり抜けた髪毛も少しづつ生え始めました。やっと一人歩きが出来る様になり翌年五月末頃、多くの人々が亡くなった場所に冥福を祈る為行った所偶然にも同じ職場の上司に逢いました。焼野ケ原で奇蹟だ生きてたのよかったよかった血まみれで下敷きになってたの引き出して置いた。まだ居残ってる者は居ないかと探しに行った。避難列車まで誰かが運んでくれたんでせうとの事でした。あの日の事あの時の自分の状態を初めて知る事が出来ました。命があった事が不思議な位です。家族は勿論の事周囲の人々も昼夜を問わず看病して下さったお蔭だと感謝して居ります。其の後も何時も不安が付きまとう人生でした。世界から核をなくし世界中が平和であります様に願って居ります。 

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