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長崎で被爆し、広島に住む 
沖西 素子(おきにし もとこ) 
性別 女性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 長崎市上小島町[現:長崎市] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 小島国民学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活

私の実家は元々、五島列島の出身ですが、私は中国の大連(だいれん)で生まれました。父は大連で書店の経営を行っていました。私は1歳の時に母親を亡くし、父の姉である伯母の犬塚ミツが私を実の子どものように育ててくれました。

小島国民学校4年生の時に、ミツ伯母と二人で、大連から長崎に移り、長崎市上小島上ノ切(かみこしまかみのきり)の高台に住んでいました。当時、ミツ伯母、いとこの高村忠三、M、正子、いとこたちの伯母の戸田カヨの6人で同居していましたが、伯父(忠三たちの父でカヨの弟)の家は、五島列島の奈良尾(ならお)で漁業会社を経営していました。奈良尾には、中学校や女学校がないので、いとこたちは、上小島上ノ切から長崎市内の学校に通っていました。生活に特に苦労した記憶はなく、学校に白いご飯のお弁当を持って行くと、同級生から「お前のところは闇屋か」と言われていじめにあったことを覚えています。

●8月8日~8月9日

原爆投下の前日、8月8日は、伯父とその長女が、五島から米や魚、野菜などの食料を持って来てくれたところでした。私は当時、国民学校5年生になっていました。

8月9日当日、五島から来た伯父の長女は親戚の見舞いのために、田上の国立療養所に、忠三は学徒動員に出かけており、家には6人が残っていました。

空襲警報が鳴り、子どもだけでも防空ごうに入るように言われ、お隣の男の子と二人で入りました。警報が解除され、家に戻り、昼ごはんの支度のために井戸端で七輪に火をおこしてやかんをかけていたところ、裏山から飛行機の音が聞こえてきて、慌てて家の中に入りました。居間になぜか、畳が三角に立ててあり、ミツ伯母が引っ張って、私をその中に入れてくれました。

家に逃げ込むと同時に、青白い光がピカッと光ってドーンと大きな音がしたので、すぐ近くに爆弾が落ちたのだと思いました。しばらくして庭に出ると、温室のガラスが全部割れており、数軒下の家の小屋も潰れていました。七輪にかけていたやかんもどこかに飛ばされたのかなくなっていました。

爆弾が近くに落ちたはずなのに火の手が上がっておらず、変だなと思っていました。町の方を見ると、新興善(しんこうぜん)の辺りだと思いますが、あちらこちらが燃えているところでした。

夕方、暗くなる前に、お隣の家の男の子とまた防空ごうに入りました。大人は家に残りましたが、私たち子どもは防空ごうに泊まりました。夜になると、山と山の間をたくさんの火の玉がシュッ、シュッと音を立てて速いスピードで横切っていました。子ども2人で「ひとつ、ふたつ」と数えていましたが、あまりの数の多さに途中で数えるのを止めました。

●8月10日~11日

同居していた、いとこの忠三は当時、長崎工業経営専門学校1年生で、8月1日から学徒動員で、爆心地近くの茂里町(もりまち)の三菱重工業株式会社長崎兵器製作所茂里町工場に行っていたので、伯父が8月10日に捜しに行きました。伯父は陶器の壺を持って捜しに行きましたので、ある程度の覚悟をしていたのだと思います。工場は鉄骨の骨組みだけが残り、瓦礫の山になっていたそうです。忠三を見つけることはできず、結局、工場の灰をその壺に入れて持って帰ってきました。帰宅した伯父と自宅にいた6人は仏壇の前で1人1人に壺を渡しながら泣きました。伯父の姉の戸田カヨはこんなに大きな声が出るのかと思うぐらいの大声で泣いていました。その時の姿が忘れられません。

その日、五島出身の女学生が5,6人、伯父を頼って、上小島の家に訪ねてきました。私は見たことのない人ばかりでしたが、長崎市内に下宿していたのではないかと思います。おそらく、五島に帰ろうと思って、大波止(おおはと)あたりの港に行き、伯父の漁船が停泊しているのを見て、すがるような思いで訪ねてこられたのでしょう。その時、女学生が言った「泳いででも五島の家に帰りたい」という言葉が子ども心にも残っています。当時は船で4時間もかかる距離でしたから、もちろん泳いで帰るのは無理ですけれども、それでも帰りたいと思われたのでしょう。一晩、家に泊まって食事をして、漁船に乗って帰って行かれました。私のいとこたち、そして忠三が働いていた長崎製鋼所の焼け跡の灰を入れた壺も一緒でした。家には、私とミツ伯母の2人きりになってしまいました。

その後、その女学生のうち、何人かが亡くなったことを知りました。もう何年も経って私が大人になってからですが、その一人の親御さんから、「あの時は娘がお世話になりました。娘は髪が抜けて原爆症で亡くなりました。それでも、おかげさまで最期をみとることができました」と感謝されました。

●姉を捜して

私と7つ違いの姉は当時、銭座町(ぜんざまち)あたりにいました。それで心配してミツ伯母と一緒に、姉を捜して銭座町に行きました。日にちは定かではないのですが、終戦前だったと思います。市内中心部はもう大変な状態でした。臭いもひどく、あちこちで死体を焼いていました。途中でにわか雨が激しく降って、磨屋(とぎや)国民学校で雨宿りをしている時に、目の前で死体を焼いているのを見ました。「足が落ちたから足を拾わんばー」と女の人が叫んでいた声が、今も耳に残っています。あまりにも雨がひどいので、諦めて家に帰りました。その後、姉は自力で帰ってきて喜び合いました。

●原爆症を恐れて

岩川町に住んでいた遠縁の一家4人が新興善国民学校の救護所にいると聞き、ミツ伯母が訪ねると、皆、お腹がパンパンにはれ上がっており、「もう長くはないだろう」と思ったそうです。数日後に、一家4人全員が亡くなったと聞きました。放射線の影響だろうと思います。

私と伯母は、柿の葉が原爆症の予防になると聞き、庭の柿の葉を煎じて毎日、飲んでいました。今にして思えば、無知で怖いことだったと思います。

●戦後の暮らし

8月15日に玉音放送をミツ伯母と二人で聞きました。終戦だと聞いたのですが、あまりよくわかっていなかったので、その後も、正午のサイレンが鳴ると空襲警報かと思い、ドキッとしてしばらくは怖かったです。

昭和21年に、家族7人が大連から引き揚げてきて、急に賑やかになりました。昭和24年に進駐軍の将校の宿舎にするとのことで、住んでいた上小島の家を県庁が買い上げることになりました。私たち一家9人は、広島県の三次にいた母の弟を頼って、広島市内に引っ越しました。

その後再び、長崎県の五島列島の奈良尾に、ミツ伯母と2人で移り住み、ずっと伯母が母代りに私を育ててくれました。

その後、結婚して下関に移り住み、昭和37年に伯母を引き取って一緒に暮らしました。伯母はその年の8月に肺がんで70歳の時に亡くなりました。

その後は、主人の仕事の関係で転勤が多く、他県に移り住み、今は広島に落ち着いていて30年になります。

●被爆者として、また、被爆2世の娘について

私には娘と息子がいます。私は、今までに、心筋梗塞、卵巣嚢腫(のうしゅ)などの病気をしました。

原爆のせいかどうかはわかりませんが、悲しいことに娘の慶子が、平成20年に甲状腺がんにかかりました。主治医は、被爆2世であることと無関係ではないだろうと言われました。10時間もかかる大手術をし、翌年も再発して再手術をしました。幸い、息子は元気でおります。

そういうこともあって、娘は今、被爆体験伝承者になるための研修を受けています。この世から、原爆や戦争がなくなるように娘が勉強をしていることを嬉しく思います。原爆のような悲惨なことはもう2度とあってほしくありません。

私が今回、被爆体験を書き残してもらおうと思ったのも、娘の活動に触発されてのことです。私の体験が少しでも皆さんのお役にたてればと思います。

 

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