当時私は小学校二年八才の夏休み八月九日家の庭で近所の友達、姉、弟達とおままごとをしてあそんでいました。その時飛行機の音がして空を見上げた。とたんにピカット光り、昼間なのに稲光り以上のこの世のものとも思えない光りでした。(今でもいな光りと雷は嫌いです)夢中で防空ごうの中に逃げこみましたが直後、避難中、家族の者をさがし求める声、逃げる悲鳴、長崎の街は炎につつまれ自分の家がちょっと高台にあったのでよくみえました。炎の海のようでした。全身火傷をした人達や焼け出された人々が我が家へはいってきてお水をちょうだい。お水を下さいとよわよわしい声で、まるで何が何だか分からない地ごくのような光景でした。
光の後、真黒い雲、気味が悪くておそろしくてはっきりと、光り(ピカッ)と、どすぐろい雲、火の炎忘れられません。
家の中のタンスは動いて、食器戸棚は倒れ、陶器は割れて、窓ガラスも割れ、悪夢のような思いでした。
私のいとこも即死、叔父は全身火傷。
私達家族はしばらく、親戚の家(田舎です)行く。再び家へもどってみると家を焼けだされた見知らぬ人達が沢山いました。落書き先が決まった人達から、去って行き、家だけになり戦地へ行ってた父が帰って来ました。
長崎駅は鉄骨だけ残りアメ状に曲っていましたし、焼野原でペシャンコになっている家がありました。川の色は日数は忘れましたが、きれいな色ではなくよごれた色をしていました。
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