国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
小田中 幸子(おだなか さちこ) 
性別 女性  被爆時年齢 8歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

当時私は小学校二年八才の夏休み八月九日家の庭で近所の友達、姉、弟達とおままごとをしてあそんでいました。その時飛行機の音がして空を見上げた。とたんにピカット光り、昼間なのに稲光り以上のこの世のものとも思えない光りでした。(今でもいな光りと雷は嫌いです)夢中で防空ごうの中に逃げこみましたが直後、避難中、家族の者をさがし求める声、逃げる悲鳴、長崎の街は炎につつまれ自分の家がちょっと高台にあったのでよくみえました。炎の海のようでした。全身火傷をした人達や焼け出された人々が我が家へはいってきてお水をちょうだい。お水を下さいとよわよわしい声で、まるで何が何だか分からない地ごくのような光景でした。

光の後、真黒い雲、気味が悪くておそろしくてはっきりと、光り(ピカッ)と、どすぐろい雲、火の炎忘れられません。

家の中のタンスは動いて、食器戸棚は倒れ、陶器は割れて、窓ガラスも割れ、悪夢のような思いでした。

私のいとこも即死、叔父は全身火傷。

私達家族はしばらく、親戚の家(田舎です)行く。再び家へもどってみると家を焼けだされた見知らぬ人達が沢山いました。落書き先が決まった人達から、去って行き、家だけになり戦地へ行ってた父が帰って来ました。

長崎駅は鉄骨だけ残りアメ状に曲っていましたし、焼野原でペシャンコになっている家がありました。川の色は日数は忘れましたが、きれいな色ではなくよごれた色をしていました。

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針