井上典民さん、当時16歳。広島師範学校 本科1年生だった井上さんは、動員先の金輪島で被爆しました。
8月6日の朝は、早朝の空襲警報が6時前に解除されたため、7時半ごろ、寮から船に乗って金輪島に向かいました。作業前の朝礼が始まる8時15分、突然ピカッと白く光った瞬間、ものすごく熱い空気の波が押し寄せ、4、5メートル吹き飛ばされたと言います。島から戻ると、爆心地からおよそ2キロの所にある下級生の寮が倒壊したとの連絡を受け、救助に向かいました。
市内は、言葉では言い表せないほどの悲惨な光景だったと言います。被爆の体験を皆さんに知ってもらい、語り継いで、平和な世の中を作っていってほしいと語ります。
【当時の暮らし】
現在は福山市ですが、当時の沼隈郡本郷村に住んでいました。父が教員をしていたので、ぜひ教員になれということで、広島師範学校を受験しました。当時の師範学校は全寮制度だったので全員、寮に住んでいました。寮生活では、軍隊のように上級生から厳しく指導が行われていました。
例えば、夜、トイレに行く時に足音をたてると、上級生がすぐにやって来て、殴りつけられるという調子でした。当時、教師になりたいという思いは特にはなく、ただ、父親が教員だったので、父親と同じように、教員になろうという程度でした。
【8月6日】
当日はよく晴れていたと思います。午前6時前だったと思いますが、私たちは空襲警報のサイレンで起こされ、すぐに防空ごうへ入りました。6時過ぎごろになって、警報が解除になり、部屋に帰って着替えと洗面を済ませて食堂で朝食をとっていました。
7時20分ごろに、金輪島に向かう船が迎えにくるので出かけて、師範学校の近くの桟橋まで行きました。いつもは7時半ごろに船が来ます。1組40人で全員いたかどうかは分かりませんが、2組が一緒に作業を行っていたので、大体70人から80人ぐらいではなかったかと思います。
全国各地から送られてきた日用品や食料を、小型船から陸上げして倉庫へ運び入れます。それから、今度は逆に倉庫から運び出して小型船に乗せます。小型船は大型船まで運び、その大型船が暁部隊のいろいろな基地へ運んでいきます。私たちはその荷物を運ぶ作業をしていました。
原爆が投下されたのは、金輪島にいた8時少し過ぎごろだったと思います。その前に空襲警報が鳴ったようでしたが、私たちは全然気がつきませんでした。誰かが「落下傘が落ちてるぞー」と言ってましたが私たちは確認しませんでした。
【8時15分】
いつも8時15分に朝礼が始まることが決まっていました。朝礼前で、広場に整列しているときに、ピカーッと光りました。あっ、何だと思ったら、熱い熱がパッパッパッパ-っと波のように押し寄せてきました。非常に熱いので、反対側のほうに逃げていたのですが、いきなり4、5メートル飛ばされて、地面に転びました。
私たちは爆撃があったときは、目と耳を押さえて地面に伏せることを訓練させられていましたので、目と耳を押さえて、地面に伏せていました。そのときに爆発した音でしょうか、ドンという音が聞えました。1番最初に光が、次に熱がきて、それから爆風、音というふうに、その何秒かの間でした。今ははっきり思い出せませんが、順番はそうでした。
これは大変だということで防空ごうへ入りましたが、上の方から砂や土や石が落ちてきたので、生き埋めになるのではということで外に出ました。そこからは広島市内が一望できて、市内全体には雲が広がり、雲海でおおわれているようでした。その真ん中から白いきのこ雲がぐるぐると立ち上っていました。兵舎の屋根の瓦は全部飛ばされて、窓ガラスは全部割れてひとつも残っていませんでした。休憩所にいた友人たちはガラスの破片でけがをして出てきました。
【被爆直後の金輪島】
時間がきたので朝礼が始まりました。けがした者は医務室へ運ばれて、傷の手当をしました。私たちは朝礼ですぐにチーフの将校から、作業をしろと言われて始めました。あれはなんだろう、なんだろうと言いながら作業をしました。
広島には兵舎がたくさんあり、弾薬庫もたくさんあったようなので、弾薬庫が爆発したんだろうか、ガスタンクが爆発したんじゃないかっというような話をしていたのですが、よく見たら、ガスタンクはありましたので、弾薬庫が爆発したのではないかと話をしながら作業をしていました。1時間ぐらいたった頃に、新型爆弾が落とされ、それが爆発したという情報が入ってきて、ああ、そうだったのかと納得しました。
広島市全体が雲でおおわれているような状態で、その中央からずっともくもくと煙が上がっていました。何分かたった頃にあちらこちらから火の手が上がり、そんな光景を見ながら、なんだろう、なんだろうと言いながら、新型爆弾が落ちてそうなったんだからとみんなで話しながら作業をしていました。
おおよそ1時間半から2時間ぐらいたったのではないかと思うのですが、手足が折れたり、顔などにやけどをして、体の前のほうも、背中も焼けて、服がちぎれているような負傷者が次々と送られてきました。あまりひどいところは見ることはできませんでした。それと同時に私たちは、本科寮に住んでいたのですが、予科寮が皆実町にありました。その予科寮が全倒壊して、行方不明者がいるから、救助に来てほしいと言う情報も入ってきましたが、作業があったので、昼までは金輪島で将校から言われた作業をしていました。それから昼食を早めに食べて救助に行くことになり、船で宇品へ帰りました。
【ブドウ畑で過ごした1週間】
予科寮に着いたときにはもう寮が全部倒れていました。6人ほど行方不明者がいるということで、私たちもすぐ、がれきだとか木片などを片付けて、5人の生存者を発見しましたが、1人だけが柱と柱の間に挟まれて死んでいました。大体150人ぐらいいたようですが、ほとんどの人は脱出していました。
東雲町に学校と寮があり夕方、寮に帰ると、寮が傾いているので危険だと言われて、寮の部屋から毛布などを持ち出して、まわりにあるブドウ畑の木の下に敷いて寝るようになりました。広島が燃えている真っ赤な空を見ながら、大変なことになったと思いながら寝ました。全寮制度なので全員が同じように、毛布などを持って出て、ブドウ畑の木の下で1週間ぐらい寝ました。
【街の惨状】
予科寮へ行くのに、宇品から皆実町の間はもう交通機関がなくて、ずっと歩いて行きましたが、その途中の悲惨な状況は今でも目に浮かびます。1番覚えているのは、死体が家の門の石段の上に重ねられていたり、死んだ赤ん坊を抱いたお母さんが「今まで生きていたのに死んじゃった」と泣き叫んでいる状況でした。
また、「水をくれ、水をくれ」とみんなが言いましたが、私たちは水なんか持っていませんでした。そういう人たちは水を求めて太田川へ飛び込んだりしていました。
折れた手をぶらさげながら歩いている人、血が出て服が真っ赤になって歩いてる人。それから、背中の皮がベロンとめくれたまま歩いてる人とか。家財道具をリヤカーに積んで右往左往している人たちがたくさんいました。ほんとに「助けてくれ、助けてくれ」と言われても、私たちは何もできませんでした。
【仁保国民学校での救護】
次の日に男子部長先生の奥さんが背中じゅうにやけどをしていました。先生が各部屋に看護の割り当てをする中で、私たちがその奥さんの世話をするよう指示されました。みんな作業を分担していましたが、先生から指示がありました。
奥さんの看護を命令されて、仁保国民小学校に救護所が設けられていので、そこへ奥さんを担架で運ぶことになりましたが、そのときに救護所で働いている陸軍でいう看護兵の人数が少なかったため、手が足りず、私たちは男子部長先生の奥さんの治療が済むまで看護を手伝うように言われました。
やけどをしている人たちが「水をくれ、水をくれ」と水を欲しがります。教室の床にむしろを敷き、そのむしろの上にやけどをした人が、座ったり、うつ伏せや上を向いたり、いろんな形で寝ていました。顔にやけどしている人は、やけどの治療薬チンク油を、顔いっぱいにぬられています。
背中をやけどしている人は、背中いっぱいにチンク油をぬられて真っ白になっていました。みんな痛いとか、水をくれとか言って、うめき声をあげていました。看護兵から、どんどん水をやれと言われましたので、私たちは水を持ってきました。水をやると、みんな死ぬんだよとそこで聞きました。
看護兵の人数が少ないので、とび口という消防で使う三角になったもので、亡くなった人を校庭の隅へ引っぱって行って、積み上げて重油をかけて焼いてました。
【被爆後の学生生活】
師範学校は倒壊も焼失もしなかったので、そのままずっと寮に住んでいて、2学期から授業が始まりました。8月12日だったか、先生から、君たちはすぐ軍隊に行って戦争しなければいけないから、家族に別れを告げてこいと言われ田舎に帰されました。15日には必ず戻ってくるようにということで、12日に田舎に帰って、15日には戻ってきました。そして戻ってきたらもう戦争は終わったと伝えられました。
そのあと動員先の金輪島へ行くと、金輪島に住んでいる兵隊たちが、竹やりを持って訓練を行っていました。もう戦争は終わったんだよと言いましたら、ものすごく怒られて、「いや、これからまだ一戦をやるんだ」と言われました。毎日のように校庭の隅だとか、すぐ近くの川土手のあちらこちらで、死体を焼く煙が上がっていて、その臭いがずっとしていました。勉強は2学期からすぐ始まり、昭和23年に卒業しました。卒業してすぐ4月から今の福山市松永町にある松永小学校へ勤務しました。
【平和への願い】
やはり被爆体験のことも、みんな知っていただいて、平和な世の中をぜひみんなで作っていこうという気運を高めていきたいと思います。また、高めていってもらえばありがたいと思います。子どもたちは、本当に一生懸命に話を聞いています。感想文をずっと読んでみると、みんな一様に、やっぱり戦争はいやだ、平和な世の中になってほしいっていうことを願って、書いています。
戦争はダメ、核兵器はダメ、それはもう絶対にダメだという一言に尽きると思います。平和な世界を作ろうということで、世の中が進んでいかなければならないと思います。そのためにはみんな一生懸命、被爆の経験を語り継いで、みんなに分かってもらうことが必要だと思います。
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