伊藤 美代子さん、当時16歳。父親が海軍の軍人だったため、呉市で生まれました。その後、祖母の住む山口へ移り、山口師範学校の女子部へ通います。予科2年生のとき、三菱重工名古屋航空機製作所に動員されましたが、空襲が激しくなり、富山県の工場に移りました。しかし富山でも空襲がひどく、故郷の山口に帰ることになりました。
8月6日の朝、富山を出発し、夕方、大阪で乗り換えるときに、引率の先生から「この列車はどこまで行けるか分からない、広島は一発の新型爆弾で壊滅状態だ」と聞かされました。遠く海まで見渡せる、がれきと化した広島で、原爆の犠牲となった被災者の阿鼻叫喚の中を故郷の山口を目指して帰りました。
長く中学校の教師を勤めた伊藤さんは、「戦争が好き」「面白い」と言う子どもたちがいる今の世の中、いくつになってもできる限り伝えていかなければいけない、と語ります。
【被爆前の暮らし】
父が海軍の軍人だったので、私は呉市で生まれました。地方の町にも、軍人の資格で鉄砲も使うことができる在郷軍人がいました。父は都会より田舎の方が空襲が少ないだろうと在郷軍人になることにしました。私たちは父と一緒に故郷の山口県吉敷郡仁保村に帰りました。家族は、祖父と祖母、父と母、子どもは私がいちばん上で妹が3人の8人でした。
当時は各県にひとつずつ師範学校がありました。山口県の師範学校は光市室積にあり、私は女子部に通いました。予科二年の時、学徒動員があり、名古屋に行くことになりました。名古屋市港区の三菱重工航空機製作所に行きました。そこには寄宿舎も用意してありました。そんな都会は見たことも聞いたこともなかったので私は大喜びでした。しかし行ってみてがっかりしたのは、毎日のように空襲警報が鳴るので、夜眠れないことでした。朝起きて顔を洗っていても空襲警報が鳴ると、すぐに逃げなければなりませんでした。そのうちに、あちこちにあった防空ごうは爆弾を落とされてすべてなくなりました。寄宿舎も焼かれました。
山口師範学校の予科の人たちは名古屋から富山県に移ることになりました。富山県の北陸線に大門という駅があり、駅のすぐ海側にある織り物工場で働くことになりました。ごはんは名古屋にいた時に比べ、ちゃんとしたおにぎりが二つずつ食べられたので、みんな「最高じゃね」と大喜びでした。
あまり広くない織り物工場に飛行機が2機並んでいました。「君たちはここで組み立ての仕事をやるんだ」と言われました。みんな大喜びで、休憩の時には遊び半分で、生まれて初めて飛行機の操縦桿(かん)を握ったりしました。私たちの仕事は飛行機の胴体に翼を取り付ける作業の手伝いでした。胴体と翼の間に薄いジュラルミンの板を挟み、それを熟練工の人が接合します。熟練工の人は朝鮮半島の人でした。私たちはエアハンマーで打つ鋲(びょう)を出したり、部品を押さえたりして働きました。
しかし2、3ヵ月たつと富山県も空襲が始まりました。一晩のうちに町がすべて壊されました。富山も危険になりました。ある日「お前たちは先生になるために師範学校に入ったんだから、戦争に左右されず帰って勉強をしろ」と言われました。私は家に帰りたくて仕方がなかったので内心大喜びでした。帰ったらもっとお腹いっぱい食べられると思いました。多くの人の中から、山口の師範学校から来た私たち40人だけが故郷に帰ることになりました。
【8月6日】
8月6日の朝、私たちは富山県の大門駅にいました。広島のことはまだ何も知りませんでした。大門駅から私たちは山口を目指しました。大阪に着いたのは6日の夜でした。大阪で引率の先生から「この列車はどこまで行けるか分からない、広島は一発の新型爆弾で壊滅状態だ」と聞かされました。爆弾は何度も体験していたので「そんなことはないじゃろう。一発の爆弾でそんなことがあるはずない」と思いました。
【広島へ】
自分の故郷の方へ向っていることがうれしくて、胸を踊らせていました。「早く着けばいい」とばかり思っていました。明け方に降りた駅は、海田市という広島駅の手前の駅でした。私の記憶では海田市駅は小高いところにありました。そこから見える広島市内は何もありませんでした。
海田市の駅にみんなが降ろされたのは明け方で、まだ薄暗い時でした。私たち40人は駅のホームから待合室の方へ移動しました。待合室の入り口で先頭の人は戸を開けた瞬間に「あっ」と言って、出した足を引っ込めました。みんなは「なになに」と言いました。するとそこには、生きているのか死んでいるか分からないような人たちがいました。血を流している人もいました。ひどいやけどで顔も分からないような人がうめき声をあげていました。たくさんの死体が山のようにありました。私たちはびっくりして、待合室には入れませんでした。
駅員に広島の様子を聞きましたが、昨日新型爆弾が落ちたことしか分からないようでした。今日は通れるようにと思っていたが、とてもそういう状況ではないということでした。駅員はたった一人しかいませんでした。
【被爆の惨状】
とにかく広島駅を目指そうということになり、小高いところから斜めに降りました。しばらくして広島の町が見える道を歩いていると、化学の先生が「ああ」と言って涙をこぼしました。なんだろうと思うと、先生は「海が見える」と言いました。広島は海の近くなのに、なぜ海が見えて泣くのだろうと思いました。先生は広島の高等師範学校で学んだ人でした。当時は家がいっぱい建っていて、海は見えなかったそうです。先生は山が好きで、広島市周辺の山をたくさん歩いていたそうです。私たちはまだ倒れた家を直接に見ていなかったので、広島の状況がよく分かりませんでした。先生は一発の新型爆弾の威力の大きさを感じていたのだと思います。後になってその時のことを先生に聞くと、やはりそうだったようです。
私たちは広島駅を目指していましたが、どう行けばいいのか分かりませんでした。下に降りるにつれて、すごい臭いがしてきました。生ゴムの焼ける臭いに似ていましたが、何だか分かりませんでした。今までに臭ったことのないものでした。何だろうと思いました。線路だけは分かったので、広島駅を目指して線路伝いに歩きました。線路には建物の看板が落ちていたり、人が亡くなっていました。
一番ショックだったのは、連結した客車が倒れていたことでした。それを見て私たちは「あっ」と言って、みんな真っ青な顔になりました。私たちがもっと早い列車でここを通っていたら、同じことになっていたんだと思いました。
途中には、たくさんの鉄橋がありました。下の川を見ると死体がいっぱい流れていました。道にもだんだんと死体が増えてきました。広島の鉄橋は川から高い位置にあるので、落ちると危険でした。鉄橋はあまりゆがんでいなかったので、渡ることができました。私たちは腹ばいになって、何度か鉄橋を渡りました。だんだん陽が昇ってくると線路が熱くなってきました。線路の鉄に手をふれるとやけどをしそうでした。しかし両手を離せば川に落ちます。鉄橋は高く、川までの距離はかなりありました。私は今でもその時のことがトラウマになっています。熱が出たりすると、あの線路を必死で渡っている恐い夢を今でも時々見ることがあります。
とにかく進んで行くと、壊れた建物が多い中に学校が残っていました。今日はみんなここで休もうということになり、教室には鍵がかかっていなかったので扉を開けると、そこは赤ちゃんばかりの死体が並べてありました。他にも年齢別や男女別に死体が並べてある所がたくさんありました。初めのうちは並べてある死体をかわいそうな思いで見ていましたが、次第に見たくなくなりました。お腹も空いていました。動物が死んでいたり、線路の上におじいさんが死んでいたり、さまざまなものを見ました。
学校があると、半壊でも水が出たので助かりました。水は本当に大事だと思いました。当時はほとんどが木造だったので、倒れかけの家がいつまた倒れるか分かりませんでした。そんな危ない中をかき分けて水を探したりもしました。
できるだけ線路から離れないよう歩いているうちに、広島駅を過ぎて己斐という駅に着きました。己斐駅に着いて一番喜んだのは引率の先生でした。「ああ、良かった。ここからは列車が動いているぞ」と言い、みんなも「わー、うれしい」と喜びました。8月7日はずっと歩いて己斐まで行きました。己斐に着いたのは夜でした。
【山口への帰還】
小郡駅に着いたのは夜明け前でした。まだ夜が明けきらない薄明かりでした。そこからは石炭列車へ乗せてもらいました。早朝で客車はありませんでした。小郡駅で止まるか、石炭列車で行くしかありませんでした。湯田か山口かどちらかの駅で降りればいいと思いました。山口駅に着くまでに、友だちの多くは降りて行きました。山口駅からは歩きました。仁保路の方を通ったらいいと言われたので、誰も通らないような山あいの道を歩きました。
わが家に着いたのは5時半ぐらいでした。そのころは団体が動くことは絶対にどこにも知らせてはいけませんでした。だからみんな、自分が家に帰ることは知らせることはできませんでした。うちの家族も、私がまさか富山から帰ってくるとは思っていなかったようです。「美代子よ」と言って、雨戸をたたきました。父も母も、家族もだんだんと目を覚まして、みんなが玄関に出てきました。
後から聞くと父は「一番先にお前の足を見た」と言いました。富山にいるはずだからここにいる訳がない。明け方だし、私の幽霊かと思ったそうです。足はあったし、妹たちが泣き出して私も泣いたので、「美代子だ」ということになりました。「よう帰った、元気で良かった」とみんなが言ってくれました。祖母がすぐに連絡したようで、近所の人もだんだん集まってくれました。私は家に帰り、生きていることが一番うれしかったです。
【学校に戻る】
学校には早めに戻りました。山口に戻って3日目くらいには学校から呼び出しがありました。その時に先生が最初に言われたのは「君たちが広島で体験したことをあまり人に言うな」ということでした。広島に落とされた新型爆弾の話は禁止されていました。学校での生活にも少し慣れたある日、授業中に「今から天皇陛下のお言葉があるから体育館に集まれ」と言われました。
敗戦を知り、先生はみんなに言いました。「戦争に負けて、これからどうなるかは私たちにもまったく分からない」「このまま室積の学校に君たちを置いていていいのかも分からない」「君たちに大変な思いをさせたらいけないから、連絡があるまで、みんな家に帰りなさい」女性ばかりの学校に占領軍が入ってきたときのことを心配されたんだろうと思います。
私は家に帰るまで、先生に「学校はどうなるんですか?」と何回も何回も聞きました。「僕はもう一度、みんながこの学校で勉強ができればいいと思います。しかしそれは僕たちの力ではどうにもならない。だから先のことは分からない」と先生は答えました。
みんなが使っていた教科書には、鬼畜米英など必ずアメリカの悪口が書いてありました。鬼か畜生のようにアメリカとイギリスを扱う言葉をいつも使っていました。「教科書は自分がいけないと思ったら、焼くか、どこかに隠すか、墨で塗りつぶしなさい」と先生は言いました。私たちは部屋に戻って、修身の本は大事に取っておこう。これはアメリカの悪口が書いてあるから危ないので天井裏に隠しておこう。みんなは2日くらいかけて教科書の始末をやりました。私は天井に上がるのも大変だし、面倒くさいので焼こうと思いました。しかし焼き場がいっぱいだったので、惜しくなって、結局、家に持って帰りました。
【戦後の生活】
戦争中にはたくさんの規制がありました。今は昼でも夜でも自由に電気をつけることができます。しかし戦時中は夜に電気を使う時にはカバーをかけて、光が外にもれないようにして、早く消すように言われていました。そういう規制から解放されたのが本当に分かったのは、終戦から1年くらいたってからです。なにもかも自由になり、うれしかったです。湯田まで行きたいと思えば、行けるようになりました。隣の人と何の話をしようと自由でした。
【差別への恐れ】
無事に山口に帰ったみんなで、すぐに同窓会を開きました。学徒動員での様々な思い出を語り合いました。その時、誰かが「今は元気で集まっているけど、広島ではみんな頭から放射線を浴びたのよね」と言いました。「被爆の影響が不安だ」という声がみんなにだんだん広がりました。「もう集まるのはやめよう」という意見が出ました。
今好きな人がいる人も、もうすぐ結婚する人も、被爆していることが分かれば、ものすごいマイナス条件になる。だからこの同窓会はやめようということでした。私は「記録に残しておこうよ」と言いました。「記録に残すのは反対」という意見が出ました。みんなが言い争いのようになりました。結局、同窓会はしばらくやめることになりました。
【結婚への影響】
被爆者には結婚差別がありました。男性が結婚したいと思っても、女性が被爆者だと反対されました。面倒なので、私は結婚はしなくてもいいと思っていました。父が一番心配したのは、私が生んだ子どもに被爆の影響が出ることでした。婿養子をもらって結婚しても、私や子どもの面倒はみても、その子を家の跡継ぎにはしないと言いました。私はそんなことはどうでもいいと思っていました。家の跡を継ぐことも考えていませんでした。
【伝える使命感を持って】
私は戦争の体験や被爆したことを伝えなければいけないと思います。このままでは地球も宇宙も壊れるんじゃないかと心配です。
今の小さい子どもたちは戦争が好きです。面白いと言います。私はそれが一番心配です。バーン、ドカーン、ダーンという大きな音とともに、赤や黒色の火や土や血のようなものが激しく舞い上がる映像。あれが面白いと言います。機関銃みたいなもので打つとバタバタとみんなが倒れていくのが面白いと言います。
原爆ではないけど、よく行く幼稚園で子どもたちに「私は戦争反対よ」と話しました。すると子どもが「ちくしょう」と言いました。理由を聞くと「ぼくは戦争が大好きだから、反対してはいけない」と言いました。戦争が好きな子どもが多いのは、親の影響ではないかととても心配です。
私が語ることは、小さなともし火かも知れません。しかしその灯りを広げていかなければならないと思います。だから私はいくつになっても、できる限り語り、伝え続けようと思っています。
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