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松重 美人(まつしげ よしと)
性別 男性 被爆時年齢 32歳
収録年月日 1986年8月1日  収録時年齢 73歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:2.7km) 
被爆場所 広島市翠町[現:広島市南区翠四丁目] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 中国新聞社 
所蔵館 広島平和記念資料館 

松重美人さん、当時32歳。中国新聞のカメラマンだった松重さんは、爆心地から2.7kmの翠町の自宅で被爆しました。被爆直後、市内を歩き、貴重な資料となる5枚の写真を撮影しました。広島原爆被災撮影者の会の代表です。
 
 
真夜中の12時半頃、空襲警報のサイレンが鳴りました。私は自転車で司令部へ行きましたが、司令部へ着くと警報は解除になりました。報道部の部屋で少し仮眠をとり、目が覚めたときにはもう太陽は高く上っていました。6日の朝は、戦争中だろうかと思われるほど、おだやかで平和な朝でした。その朝たまたま家に帰ったことが、私の生死を分けました。
 
帰宅して、朝食をとってから、新聞社へ出勤する準備をしていました。その時、外から家の中に通している電線の根元に、ものすごい光が走りました。まるで、目の前で雷が落ちたのかと思うほどの光でした。音は聞いていないんですが、マグネシウムを目の前で発火したような真っ白い光に覆われて、何も見えなくなりました。
 
そして間髪いれずに爆風がきました。上半身裸でいたのですが、体に数百本の針を突き立てられたような、強烈な爆風でした。私は後ろの壁に跳ね飛ばされ、家内は「爆弾が落ちた!」と言って走り寄ってきました。家内の手を引いて、メチャクチャになった家の中をどう走り抜けたのか、気付いたら家から20m離れた芋畑にいました。
 
その芋畑にもぐりこんでいる間、視界は真っ黒でした。夜の暗さとは違って、茶褐色とも灰色ともつかない霧のような感じです。地上のほこりが舞い上がるのと、上から降ってくる灰とが入り混じっていました。その霧が太陽からの光をさえぎって、真っ暗でした。すぐそばにいる妻の顔も見えないほど真っ暗でしたが、妻が私の手を握っていました。その手のぬくもりで、自分も家内も死なずに済んだのだと思いました。
 
その霧がだいぶ上昇してから、恐る恐る家の中に入ってみました。爆風が来たほうの壁は、1階も2階も大きな穴が開いていて、壁土は座敷に盛り上がっていました。その中からカメラと服を引っ張り出して、身支度をして家を出ました。
 
爆弾が落ちて、40分ほど経っていたと思います。新聞社か司令部へ行こうと思いました。広島市役所の前にあった西消防署のあたりまで行くと、もう火災が発生して火の海になっていました。鷹野橋の辺りは、火傷をした人や怪我をした人たちで、ごった返していました。
 
市内の中心部へは入れず、この川沿いに御幸橋まで引き返しました。ちょうどこの道です。その先まで行ったんですよ。するとそこでも火災が発生していて、真っ赤なドラム缶が坂道を転げ落ちるように、火の玉が道を這ってきました。そこには誰もいなくて、私一人でした。
 
この御幸橋の西側まで戻ると、何百人という負傷者が群がっていました。御幸橋の西詰めには警察の派出所があって、二人の警官が、火傷した人に食用油を塗っていました。他に薬は何もないので、ただそれだけの応急処置のために、ずいぶんたくさんの人が集まっていました。
 
その中には、もう死んでいるお母さんの体にすがりついている赤ちゃんもいました。また、若いお母さんが小さい子どもを抱いて「目を開けてちょうだい」と言いながら走り回っていました。本当に地獄でした。
 
そこにいる人のほとんどが、中学1年生、2年生の子ども達なのです。広島女子商業や広島第一中学の生徒が多く、彼らは建物疎開中に外でまともに熱線を受けたのです。体のいたるところ、背中、顔、方、腕にボールのような火ぶくれが出来ていました。それが破れて、皮膚がボロ布のようにぶら下がっていました。中には、裸足で火の上を走ったのでしょう、足の裏まで焼けている子もいました。
 
それを見て、写真を撮ろうと思いカメラを構えました。が、なかなかシャッターをきることができませんでした。あまりにかわいそうでした。同じ原爆にあっても、私はガラスの破片で怪我をした程度で済んでいます。けれどその子達は、今にも死んでいこうとしているのです。なかなかシャッターをきれませんでした。20分ほど躊躇しましたが、ようやく1枚写して、4〜5メートル近づいて2枚目を撮りました。今でもはっきり、あの地獄を覚えています。
 
私を兵隊と間違えて「兵隊さん、水を下さい。助けてください」と言った子がいましたが、どうしてあげることもできませんでした。「すぐに救援隊が来るからがんばってください」と言い残して、帰宅しましたが、後ろ髪を引かれる思いでした。
 
-シャッターをきるまで、ずいぶん時間がかかりましたよね。その時はどんなお気持ちでしたか?-
 
そこにいる人たちの視線が、全部自分に集中しているような気がしました。助けもせずに写真を撮っている、と思われている気がしたんです。それでも心を鬼にして、ようやく2枚の写真を撮ったんです。その人たちの目には、ずいぶん無慈悲に見えたのではないでしょうか。
 
午後2時頃、もう一度新聞社か司令部へ行こうと思い、また家を出ました。紙屋町の角に、焼け焦げた電車が一台ありました。中に人がいたので、ステップに足をかけて覗きました。すると電車の前の方で、15〜6人が折り重なって、亡くなっていました。紙屋町は爆心地から至近距離ですから、爆風で一瞬に即死されたんでしょう。そのまま火災が起こったので、服はみんな焼けていました。みんな素っ裸でした。それを見たときに、恐ろしくて、髪の毛が逆立つような戦慄を覚えました。そして写真を撮ろうと思って、やはりカメラに手をかけました。ですが、そうして裸で亡くなっている人の写真を撮るのはあまりに気の毒で、かわいそうでした。あの一番ひどい町中を3時間近く歩き回りましたが、とうとう中心部での写真は1枚も撮れませんでした。
 
これは、私の家の前にあった木造4階建ての消防署が、潰れてしまった様子を写したものです。ここは2.7km離れていますが、積み木を崩すように一瞬で崩れてしまったんです。それを、あの日にこの理髪店の窓から写したものです。ここには監視員が1人いました。後でわかったことですが、この上にいた監視員は閃光を受けた側の顔の皮膚がズルッとむけていました。そして、下で事務をとっていた人は、崩れ落ちた木材の下敷きになって、大怪我をされていました。
 
そして御幸まで3時間くらいかけて帰ってきました。陸軍船舶隊というのが宇品にあったのですが、そこからトラックを持って来て動けない人たちをどんどん宇品へ運んだのです。その時の、これが5枚目の写真です。夕方、宇品警察(今の南警察)の人が、この橋の向こうへ机を置いて、罹災証明を発行していました。私も罹災証明書をもらい、救援食料の乾パンを一袋もらって帰りました。その日の夕食は乾パンでした。
 
-カメラマンとして、5枚の写真を撮ってその日を終えたことをどう思っていますか?-
 
そうですね。他にもカメラマンはいたと思います。中国新聞にもいました。ですが誰も写真を撮っていないということは、あまりにかわいそうで、撮れなかったのだと思います。たった5枚でも撮れたのは、せめてもの慰めだと思っています。
 
-集団疎開していた子ども達の写真を撮られたそうですね。-
 
はい。8,500人の生徒達が4月頃、県内の田舎の方へ集団疎開していきました。この写真は、庄原の七塚という所に疎開した大手町の子ども達だったと思います。その時、私は取材でついて行って、一緒に記念撮影したものがこれです。
 
終戦後、この子ども達が広島駅に帰ってきたとき、やはり取材に行ったんです。子ども達は3回にわかれて帰ってきましたが、お父さんやお母さんが出迎えてくれる子はよかったんです。しかし、誰にも出迎えてもらえない子どもの方がはるかに多く、何百人もいました。先生が、迎えがいなかった子と迎えがいた子を分けました。それを写真に撮ろうとしたときには、8月6日の時とは違う感情になりました。哀れさと、悲しみと、戦争さえなければこの悲劇はなかったのに、という思いでした。何とも言えなくて、涙が出ました。
 
-カメラマンという仕事をされてきて、そして被爆の有様を見られて、若い世代にどんなことを訴えたいですか?-
 
あの日、私が家を出てから半日、カメラマンでありながら5枚の写真しか撮る事が出来なかった。そのような惨状が、もう二度と起こってはならないということを、次の世代に継承しなくてはなりません。これは生き残った私の使命でもあり、ファインダーを通して8月6日を見たカメラマンとしての私の使命でもあります。そういう気持ちで、私はいたる所でこの話をしていきます。
 
戦前の平和だった時代、毎晩空襲で起こされた戦時中、終戦後の食糧難の時代。この3つの時代を知っている私達は、自分の子供や孫、次の世代の人達にそういう苦しみを味わって欲しくないのです。それが私の願いです。そのためには、今の若い人達に、私達の気持ちをわかってもらい、正しい平和への道を歩んでいってもらいたいです。
 

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