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田中 正司(たなか しょうじ)
性別 男性 被爆時年齢 18歳
収録年月日 2005年10月11日  収録時年齢 78歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:2.0km) 
被爆場所 皆実国民学校 船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊)(広島市皆実町二丁目[現:広島市南区皆実町一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

田中正司さん、当時18歳。船舶通信隊補充隊に入隊、比治山に防空ごうを掘る徹夜の作業を終え、運命の朝を迎えました。その後、1カ月ほどの救護活動を終え、ようやく帰り着いた故郷、青森も空襲によって焼け野原と化していました。
 
 
広島で入隊したのは、暁16710部隊です。船舶通信隊補充隊ともいいます。本隊が広島市の比治山の下にある部隊でした。ところが、兵隊をかき集めたために、本隊だけでは間に合わなくなりました。それで、皆実町にある皆実国民学校が私の営舎になりました。比治山のそばにある小学校で木造の校舎です。私は、そこに入隊しました。8月5日、比治山でも空襲がよく来るような状態になっていました。そこで、横穴防空ごうを掘ることになりました。一晩かけ防空ごうを掘ったので、仮眠を取りなさいということで翌日の6日は営舎で休みました。それが結果的に私にとって運を呼んだのでしょう。例の8時15分、私はその営舎の中で寝ていました。
 
営舎は木造の校舎でコの字型にできていました。そのコの字型の一番はずれの2階に寝ていましたが、大音響とともに吹っ飛ばされました。私は、半分寝ていたものですから、何が起きたのかわかりませんでした。熟睡中に放り投げられたようなものです。約10メートル廊下のほうに吹っ飛ばされました。何事が起きたんだろうと、自分でもパニック状態でした。それで気がついてみると、周りは薄暗くなっていました。これはほこりのせいか、原爆のせいか、今もよくわかりません。
 
皆さんの回顧録を読むと、やはり暗くなったのは事実でした。私は、その時2階で寝ていましたが、すぐ出ようと思いました。しかし、暗かったので少し時間がたつのを待っていると、すぐそばにはりの下になっている戦友がいました。はりの下になってる戦友を引きずり出している間に、だんだんと明るくなりました。気が付くと、私の体はあちらこちらから血が出ていました。ガラスの破片が刺さっていました。しかし、出血はしていましたが、突き刺さるほどではなく、傷の程度でした。
 
校舎は、そのコの字の6分の1の部分、私がいたところだけ残っていました。あとの6分の5はペチャンコでした。なぜ残ったかというとそれは、校舎を増築した部分だったからでした。校舎の中で熟睡していたので、私はピカドンのいわゆるピカにあいませんでした。ピカにあっていたら、もう大変だったと思います。それから私は、比治山を目指して行ったのですが、このピカにあった人たちが大変でした。髪の毛が抜けていたり、唇が腫れていたり、皮膚はただれていたり。まるで、被爆者の展覧会にある絵のような状態の人がたくさんいました。「兵隊さん熱いよ」、「兵隊さんお水ください」とそういう人ばかりいました。そして、私は比治山の本隊までたどり着きました。
 
みんなが山に上がってくるもので、いる場所がだんだんと無くなりました。そこで、比治山を下がり、別のほうへ行くこととなりました。行った先は、仁保という場所で広島の南の方です。行く途中は、黒い雨は降るし、火事の煙は上がっていました。ともかくみんなの背中を見ながら、仁保っていう場所を目指して行った記憶があります。ところが、その仁保という学校も続々と傷病兵が送られていました。それで、たくさんの毛布やござを敷いたようなところへ転がされていました。「熱いよ、痛いよ」と叫んでいました。そこで、私たちも毎日のように看病していましたが、亡くなっていく人が多かったです。
 
【におい】
校庭では、毎日のように木材が積まれ死体が焼かれていました。焼かれる人のにおいは、ものすごくひどく、今でもそのにおいを思い出します。終戦後、「ひろしま」という原爆の映画を見たときに、私はそのにおいのことを思い出しました。途中で、その映画を見ないで、外へ出た経験があります。人間の体から出る脂と思いますが、本当にあのにおいは大変なにおいでした。それが毎日です。私は、そこに10日ぐらいいた記憶があります。
 
8月15日、終戦の玉音放送がありました。天皇陛下からの重大発表があるということで近くの神社に集められラジオを聞いたことを覚えています。はっきりと聞きとれなかったのですが、これで戦争が終わったんだなと安心した反面、ガッカリしたことを思い出します。私自身、だんだんと体のほうも傷も少しずつは治ってきました。そして私はもう一度、広島市内に戻ることになりました。元の隊に戻ったのかどうか、今でも記憶がはっきりしません。
 
そして、このくらいの段階で落とされた爆弾が原爆なんだということわかってきました。当時は、新型爆弾と呼ばれていました。その時の私の印象は、日本が原子爆弾を落とされた事実を世間には知って欲しくないというものです。でも、原子爆弾だということが段々と分かり、広島に75年間草木が生えない、歯茎から血が出る、毛が抜けるという話を聞くようになりました。だから、いつそういう状態になるのかという心配はありました。
 
【帰郷】
広島の駅に集まり、青森に帰郷する際、私は実年齢18歳で陸軍少尉でした。軍隊ではこのくらいが、非常に重要視されていて、弘前師団の範囲内で青森に帰る人を数名連れて帰った記憶があります。ところが、列車は線路が見える穴がボコボコあいてるような貨物列車で、それに乗って、3日ぐらいかかって青森にたどり着きました。ところが、青森でも広島と同じように全部が焼け野原でした。着いた途端、実家を探しましたが見つかりません。そこで、親戚の家へ行くと立て札があって親戚の避難先はわかりました。青森市外でしたがそこまで行きました。
 
親戚で母、兄弟は市外に避難していることがわかりました。その日のうちに、家にたどり着きましたが、本当の家ではなく、農家の納屋を借りて住んでいました。7月28日、青森空襲がありました。その時、兄弟は散り散りばらばらに逃げました。ともかく、無事でよかったです。私は広島にいる間、家に連絡していませんでした。広島の船舶通信隊の宇品にいたおじさんは私より先に復員していました。私は田中正司という名前なので、ショウちゃんと呼ばれていましたが、ショウちゃんは、きっと駄目だよと言われていました。
 
【結婚】
被爆したことは相手の人にも伝えていました。しかし、それほどの心配はされませんでした。相手さんや相手側の親御さんにもです。ピカドンを受けたことをあまり心配されていなかったので、本当に助かりました。私は昭和27年くらいに結婚しました。しかし、1年たっても、2年たっても、3年たっても、子どもが生まれませんでした。これは、ピカドンのせいかと思っていました。そのとき、湯治に行ったらどうだろうと思い、湯治に行きました。そして、次の年に子どもが生まれました。娘でしたが、原爆を受けたことは心配無用だったんだと思い安心しました。そういうわけで、たった1人ですが、娘に恵まれました。今は、孫も大阪にいます。そのへんの心配がなく、よかったなと思っています。
 
【伝えたいこと】
自分は広島で原爆を受けたのだと若い人によく言いますが、そうですかと簡単に受け止められると、原爆のむごさを受け取ってくれないと感じてしまいます。しかし、そんな簡単なことではないと真剣に受け止めてもらって、人ごとのように思わないでほしいです。私は、今日本のこの平和があるのは、広島・長崎の人、沖縄の人、それからシベリアで亡くなった人たち、全部のおかげだと思っています。だから、本当に今の若い人たちがこういう世代の踏んできた経験をおろそかにしないで、次の時代に伝えてほしいと思っています。特に今、北朝鮮やパキスタンで核の問題が言われていますが、大変なことと本当に受け止めてほしいと思っています。
 

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