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富田 哲朗(とみた てつろう)
性別 男性 被爆時年齢 15歳
収録年月日 2013年10月14日  収録時年齢 83歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:2.5km) 
被爆場所 広島市牛田町[現:広島市東区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 崇徳中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

富田哲朗さん、当時15歳。爆心地からおよそ2.5キロの牛田町で被爆。母親は全身にガラスが刺さり、額からは血が噴き出していました。血とほこりで赤黒くなり、指先から皮膚が垂れ下がった人々が避難してきます。街は燃え、川にはたくさんの死体が流れていました。戦争で多くの人が亡くなっている。原爆も水爆もだめだけれど戦争自体を無くさないといけないと語ります。
 
【被爆前の暮らし】
私は1930年に北海道の夕張で生まれました。父親が当時、宮内省の役人でしたので転勤族でした。戦時中、人が足りなくなり、広島へ住宅営団の支社ができるので、引き抜かれて、急に広島に行くことになりました。原爆の1年前に行き、ちょうど1年後に原爆にあいました。当時の家族は父、母、姉と私の4人家族でした。昭和19年8月に、崇徳中学校に入り、2年に編入しました。姉は広島女学院高等女学校に、私より学年が2つ上でしたので、4年生へ編入しました。
 
昭和19年10月頃、崇徳から5、600メートル爆心地に寄った方に水田金剛砥石の工場がありました。2年生のうち57名が勤労奉仕に動員されて、と石の製造をしていました。私は昼間の勤務で、原料になる金剛と石に、のりなどをかくはんして容器に移す仕事をしていました。次の年の2月までは、週のうち1日は学校に通って勉強していました。後はみな工場に行き、製造に携わっていましたが、翌年2月からは通年動員となりました。もう学校に行かないで、工場に真っ直ぐ通うという時代でした。私の姉は向洋の今のマツダ自動車、昔は東洋工業ですが、機関銃など、そういう兵器などを造っていたところに動員されていました。
 
【8月6日】
8月6日は、私の記憶だと、ひと月以上前から雨が降らず非常に乾いた状況だったと思います。私と母は家の中におり、8時過ぎに母が玄関の掃除を始め、私は居間にいました。夏ですから、全部戸は開けてあり外が見えました。私は部屋の中にいました。その時に原爆が落ちました。皆さんはマグネシウムをたいたような光を感じたと言いますが、そんなものではありません。真っ昼間で太陽が照っている時にあれだけの光線は体験したことがありません。気味が悪いせん光でした。不安を感じるような光線でした。

玄関の隣にある廊下の障子が閉まっていましたが、そこにガスみたいなのがきて、きれいな真っ黄色になりました。同時に爆風がきて、家が壊れだしました。当時の壁は竹で編んだものに泥を塗っているのがほとんどでした。西側の壁、爆心地から見ると西側になりますが、その壁が全部落ちてきて、泥が一斉に家の中に入ってきました。爆風がこうきて、家の西側の壁は全部飛ばされて家の中はもうもうとなりました。それと同時に押入れの物がみんな出てきて山のようになりました。柱も3、4本が途中で折れたような状態でした。

何が起きたのか分からず、近くに直撃弾が落ちたと思いました。もうもうとしたのが晴れ、母が助けてくれと言うので行くと、全身にガラスが刺さっていました。額から血が噴き出していました。大きいガラスや小さいガラスが刺さっていました。牛田町は水源地があり、水道は止まりませんでした。母は水をかぶってガラスを落とすと言うので裸になって、水をかけたのですが大きく刺さったガラスは抜かなくてはなりません。
 
わりと薬は持っていました。母の父親が薬剤師でしたので。家の中はぐちゃぐちゃでしたが、薬を探し出しました。包帯が足りないので、シーツを破いて手当てしました。しかし、なかなか血が止まらず、母は顔が白くなってきました。「これはもうだめだな」と思ったのですが、母は気が強かったので、「早くやれー」と言いました。全部のガラスを抜いて、後はやりようがありません。町の医者に連れて行こうとしました。今と違い、車のない時代で、町がしーんとしていました。赤ん坊の泣き声だけが聞こえ、後は何も聞こえません。「こんなにひどくなっているのに、なぜ救援隊が来ないのかな」と、その時は思っていました。
 
私の家族は、父は山陰に出張に行くため朝早く出かけました。公用の切符を買うはずでしたが、空襲警報などのせいで山陰へ行く汽車が出ずに家に帰ってきました。母と私は一緒にいました。姉は東洋工業に行く途中、広島と向洋あたりのトンネルの中で汽車が止まり助かりました。母を医者に連れて行こうと、父と担架に乗せて行こうと思いました。そして初めて街の方を見ました。すると、白島の逓信病院の窓から、もう舌を出したような火が出ていました。近所の人から「どこに行ってもだめ。街が全滅しているようだから」と言われました。なので、庭に掘っていた防空ごうに母を寝かせました。
 
【被災者の列】
原爆が落ちてから1時間以上たってから逃げてきている人が土手にしゃがんでいました。もちろん中には死んでいる人もいたでしょう。そういう状態の時です。それからもっと燃え出しました。それから町全部が燃えてしまい、人はどんどん逃げて来ました。おそらく、爆心地からみんな逃げたのだと思います。広島駅の方へ向かって来た人は、牛田町を通りました。芸備線の方へ抜ける道があり、そちらに行くのと、広島駅のそばにあった東練兵場のあちらに向かって、みんな逃げたわけです。

広島駅に行った人が多く、牛田の方はあまり来ませんでしたが行列して行くような状態です。けが人は走って逃げるわけではありません。のそのそとみんなが言うように幽霊みたいな恰好です。髪はこうなっていて、血は出ているけれど、ほこりをかぶっているので赤ではなく赤黒い状態でした。本当に皮が垂れ下がり、指先から下がっている人もいます。そういう人がどんどん来ましたので、街の中はひどかったと思います。
 
【焼け出された信者】
私の両親はクリスチャンです。流川教会に谷本清という有名な牧師がいました。赤ん坊を抱いた奥さんが、昼過ぎに家に来ました。一緒に焼け出された信者の人が全部で7人くらい来ました。6日の昼ごろ、みんな焼けて逃げるところがなく、牛田にいる信者の所に行こうということで7、8人集まりました。それから福屋百貨店の奥の住宅に住んでいる本川国民学校の先生をしていた女性がいました。この女性は、休みだったので家にいました。家はつぶれましたが逃げ出して助かりました。その人も信者でしたので、私の家に来ました。そして、牛田町の人で家がつぶれ、お父さんが県庁の役人で奥さんと娘2人も一晩私の家に泊まりました。
 
【被爆の翌日】
7日になってから救援がきました。その時は川にたくさんの死体が流れていました。瀬戸内海ですので、川下に流れても上潮の時にまた戻ってくるのです。おびただしい人がいて、船で助けると言っても生きている人か死んでいる人か分からない状態でした。土手には死んでいる人がずーっとこう、数が多いので運びきれなかったと思います。

軍のトラックに積んで、女学生や中学生ばかりでした。牛田町に公園があり、結局そこで死体を焼くわけです。夏だからほっておくことができません。昼も夜も焼いているので臭いがひどかったです。我々が動員に行く時は、例えば「三菱重工」などの名前は入れません。広島の広何千、何百という数字の工場になっています。夏だったのでみんな服を脱いでいたと思います。名前が分かった人は運のいい人だけだと思います。ほとんどの人が誰なのか分からない状態で処理されたと思います。
 
【新型爆弾を知らせるはり紙】
2、3日後、街の方に出た時に、焼け残った電柱に普通の新聞がはってありました。新聞の上に墨で「新型爆弾が落ちた。海水で洗うといい」ということが書いてあり、「宇品港湾司令部」という筆で書いたものが、あちこちにはってありました。しかし、やけどをした人がほとんどですから、塩水で洗うと痛くて大変です。塩水で冷やすと良かったらしいです。その頃は分かりません。新型爆弾でしたので。私が原子爆弾と聞いたのはずっと先です。
 
【罹災証明書の発行】
罹災証明は8月20日付で出ています。その頃に警察がなんとかできるようになったようです。そして、8月6日の罹災証明書が出て、富田良太他3名という表現で書かれています。これは昭和30年頃、私が川崎にいた時に被爆者健康手帳の話があり、その資料として父が送ってくれたコピーです。
 
【仲間の死、そして復学】
私のいた崇徳中学校は正確な数字ではありませんが、学籍簿は燃えてしまってないのですから。1,150名くらいのうち510人の学生が死亡、先生が10から15名死亡という状況です。ほとんどが我々より1つ下の1年生です。1年生は女学校も中学校もみんな建物疎開で亡くなっているはずです。県庁の地下で着替えをしていて助かった人とか汽車通学で汽車が遅れて助かった人とか、そういう人は、本当にわずかな人間だと思います。
 
これは安芸門徒が建てた何かの建物だと思います。戦時中、憲兵隊の事務所があったところのようです。焼けてしまいましたが、内装すれば一番早いのではないか、ということで仮校舎をつくりました。昭和20年の暮れには勉強を始めました。ですが、黒板もチョークもない時代でした。郡部から通っている生徒に集めてくるように言って、みんなでチョークを調達し、壁に書いていたような時代からスタートしています。広島市でも寒いですし、冬には雪が降ります。暖房なしで、そこで勉強しました。1年後に学校の講堂のところに2階建ての校舎を作りました。そこで勉強を始めて、あとは平屋の仮校舎を次々と建てて、みんな勉強した時代でした。
 
【原爆症の恐怖】
昭和28年に川崎にある東京製綱川崎工場に入りました。本社は浅草橋にありました。崇徳中学5年で卒業した時に、一緒に卒業した友達で中国海運局に勤めたナガハラという友達がいました。この友達は26歳の時に原爆症で亡くなったと、奥さんからの手紙で知りました。友達は私と同じように原爆の時には、やけども何もしていませんでした。私が茨城に行った時、日立製作所の日立工場に私の同級生が勤めていました。一度、私の家に遊びに来ました。「ようよう、元気だな」と話をしましたが、32歳の時に原爆症で髪の毛が抜け、亡くなったと後から聞きました。
 
放射線のことは分かりませんが、ミリシーベルトという話は今の話ですから。何もそういう話は聞いていませんが、ただ原爆症はこわいと思いました。そのようにして亡くなった人がたくさんいます。だから不安はずっと続いていました。結婚して原爆症で死ぬのではないか、子どもがおかしくなるのではないかという心配はありました。そういうことだけではないのですが、父親から「もう限界だよ」と言われて、40歳の時に八戸の人と結婚しました。
 
【ヒロシマ・ナガサキの教訓】
昭和6年に満州事変が始まりました。国民学校1年の7月に日中戦争が始まり、太平洋戦争になって、いわゆる第二次世界大戦が始まります。終戦の中学3年生まで戦争と一緒に生きてきました。最後に原子爆弾にあいました。青森市でも昭和20年7月には大空襲があり、1,000人近い人が焼け死んでいます。昭和20年3月10日には東京大空襲がありました。あれで十何万の人が亡くなっています。
 
原爆は高熱と爆風でみんな亡くなっています。死にざまを見るとひどいです。だけど、同じように多くの人が亡くなっているわけです。だから戦争をしてはいけません。広島と長崎の原爆のおかげで、その後は使用されていません。やはりみんな被爆の大変さを知っているわけです。将来、核爆発はだめだと言いますが、戦争がだめなのです。戦争がなければ原爆は出てこなかったわけです。原爆も水爆もだめですが、戦争自体が無ければそういう被害は起きませんでした。
 
しかし、原爆だけでなく艦砲射撃で亡くなった人もたくさんいます。全国で60、70の都市が焼い弾攻撃で燃えたのですから、合わせると何人になるのか知りませんが、相当の人が亡くなっているはずです。だからこういうことは避けなければと願っています。しかし、難しい問題です。
 

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