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川上 千津子(かわかみ ちづこ)
性別 女性 被爆時年齢 12歳
収録年月日 2005年10月12日  収録時年齢 73歳 
被爆地 広島(間接被爆) 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 口田国民学校 高等科2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

川上千津子さん、当時12歳。勤労奉仕のため、妹や友達と校庭に集まっていました。視界がせん光でふさがれ、しばらくして、不思議な雲を見ました。目の前で、人が次々と亡くなっていく。その光景は、思春期を迎えたばかりの少女には、あまりにもむごいものでした。
 
 
学校といっても、夏休みもなければ勉強どころではありません。草を刈って、それを肥料にするために、私たち学生が毎日勤労奉仕の連続でした。カタヤマ先生という方が、時々ノートなど広げたりすれば、指導してくださいました。おじいちゃん先生でしたが、今でも覚えています。教科書も、みんなに渡らないのです。何人かで1冊の教科書を見るのです。それで書き写したり、そういう学校生活でした。
 
起きるのは大抵6時ごろでした。父親が起きて、流しでコトコトと音がするので目が覚めるのです。起きるのは割と早かったです。学校まで30分もかかるので、妹を連れ2人で家を早く出ます。部落別に並ぶのです。シモダはシモダの人たちと集まって、学校へ行くのです。その中で私は年長になるので、みんな一緒にして学校へ行きます。原爆当日、下級生たちはそんなに学校へは来ておらず、上級生だけが行ってました。前日はやはり勤労奉仕で、かごを背負って学校へ行き、草刈りをして、1カ所に草を積んで、お昼で終わって帰りました。自分の家から、鎌を背負って行くのです。そして、教室へ入らずにそのまま校庭に集まったのです。光ったのはそのときでした。
 
【その瞬間】
あっ、B29が2機飛んでるなぁ、と空を見上げた瞬間、ピカッと光ったと思うと砂煙で全然見えなくなり、慌てて渡り廊下のわらが積んであった所に伏せました。それから先生の合図でみんな部落別に並び、うちへ帰りました。帰ると、うちの中も天井やガラスは吹き飛ばされていました。妹もちょうどその日、体の具合が悪く学校を休んでいました。うちは線路のすぐそばでしたので、それから30分くらいして、線路づたいに、自転車を担ぐ人や、小さい子どもを連れ歩く人がいました。線路を歩くので足が痛いから、「わら草履ちょうだい」とか「お水ちょうだい」と言って家に立ち寄るのです。でもみんな焼けただれているのです。
 
【きのこ雲】
今までは呉などに爆弾が落ちるのなら、焼い弾でした。あの雲は爆弾というより、何の雲だか、子ども心に見当がつきませんでした。あのきのこ雲は何の爆弾の雲か、とにかく爆弾が落ちたということだけで、まさか焼い弾とか、そういうものだとは思いませんでした。その原子爆弾というのはこんなに怖いものだと、ずいぶんあとになって知らされた記憶があります。焼け野原の、電車の焼け焦げた中やバラックで生活している方なども、あとから行って目の当たりにしました。
 
【救護活動】
次の日学校へ行けば、被災した人が大勢いました。看護するため学校に行く日々になりました。しかし行くとお昼をごちそうになれるのです。麦は少々入っていましたが、おにぎりなどが出ました。それが一番楽しみでした。しかし夏なので、とても臭くて。包帯なども無いので、浴衣などを各自が持ち寄って、それを巻きました。お薬などは無く、油を塗ったり天花粉を塗ったりでした。包帯を取ると小さいウジが湧いており、それがにおうんだなぁ、と思いながらそういうウジを、取ってあげたりしました。「兵隊さん、ここどうですか」と言うと、「終戦になればもう僕たちは兵隊さんではないから、おじちゃんと呼んでいいよ」と言われました。
 
毎日行く度に、教室の表に亡くなった方の名前が出ます。何百人もおられました。学校の裏が少し築山のようになった山で、そこで遺体をまとめて焼くのです。するとまた臭いがします。父も行きましたが、あとからお骨を拾いに行っても、本当にその人のお骨だったかどうか分からないと思います。1人ずつ区別するわけではありませんから。毎日行けば、本当に何人もの方が亡くなっていました。4つの教室が満杯でしたから。新校舎のほうは使われませんでした。旧校舎の運動場の脇に大きな堤があるのですが、その運動場の方にある校舎は全て、被災者でした。
 
私たち高等科の人たちだけが救護活動をしていたので、3歳年下の妹は、その頃は家におりました。当時あったラジオ体操などには、時々出ていたと思います。9月初めまでそういう状態が続き、町内から街に出た人や、同級生でも上の学校へ行った人などが行方不明でした。父親たちは毎日捜しに出ていきました。とにかくあの悲惨な状況は、何て言葉で言っていいか、思い当たりません。
 
【終戦】
それまで電気がつけられませんでしたので、「今晩から電気をつけて寝られる、うれしいね」それが第一声でした。父が達筆な人でしたので、村の大事な書き物などがあれば書いて、いくらかお米をもらったりしました。そのころ、生活扶助ももらっていましたが、そうして細々と暮らしていました。私も高等科を終わると、すぐ勤めました。
 
【父の死】
22年ごろ、父親の足の親指が凍傷にかかったように紫になって腫れ、歩けなくなりました。今考えると原爆病の一種だったのでは、と思います。だんだん先が腐っていき、感覚がなくなっていきました。1年ちょっと寝たきりでしたが、手の先の方までずっと紫に腫れました。戸坂の水源地の向かいの橋を渡った所にツキヤマ先生という方がおられて、その先生が往診に来てくれましたが、今のようにいろいろ抗生物質があるわけでもなく、さっぱりよくなりませんでした。
 
寝たきりの状態で父は、最期に「お姉ちゃん、おかゆ、食べたいな」と言いました。私が「食べないでしょ」と言ったら、「そう言わないで今だけ炊いてくれ。食べればいいけど食べなければ終わりだから」と言うので、私は雪平鍋で少しおかゆを炊いていました。すると父が「トイレに行く」と言うので、腕に抱いて用を足させようと思ったら、ガタンときて、とうとうおかゆも食べないまま、亡くなりました。快く煮てやればよかったなぁ、と思いました。私のことを「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と呼んでいましたので。父は再婚もせずに、私たちをよく育ててくれました。本当に、ひもじい思いをしたことが一番心に残っています。
 
【伝えたいこと】
あの原爆だけは、二度とあってはならないし、またこの平和のありがたさ、尊さ、これは伝えていきたいですね。本当に、悲惨な状況でした。体験した人でないと、100分の1も表せないのではないでしょうか。食べる物もない、着る物もない、本当に。軍事物資などを、私たちの村にもお百姓さんの小屋に預けたものがありました。お塩とか。お塩といっても真っ黒い岩塩です。そのお塩を抜き取ってまでして食べた思いがあります。そこまでするくらいの食べ物のない時代を過ごしました。お金さえ出せば何でも買える、豊かな現在からはとても想像もつかないでしょう。この時代は私だけでたくさんだと思います。青森県むつ市で核廃絶を訴えているヨシダ先生と交流していますが、核兵器だけは絶対なくしてほしいです。
 

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