国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME証言映像をさがす(検索画面へ)証言映像を選ぶ(検索結果一覧へ)/証言映像を見る

証言映像を見る
石川 渉(いしかわ わたる)
性別 男性 被爆時年齢 22歳
収録年月日 2005年10月12日  収録時年齢 82歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:2.0km) 
被爆場所 船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊)(広島市皆実町一丁目[現:広島市南区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

石川渉さん、当時22歳。故郷を離れ、陸軍の見習士官として広島に配属。窓の外が光ったかと思うと、兵舎の将校室に、ものすごい熱風が吹き込んできました。薄暗い部屋に、叫び声が渦巻きました。次々と亡くなっていく戦友たちに、ただ「頑張れ」と励ますしかできなかったことが悔やまれます。
 
 
8月5日、前日から空襲がありました。うちの部隊の警戒区域というのがあって、5人はあそこの屋根へ上がれとか、比治山のほうに10人行けとか、皆それぞれの警戒する区域というのがありました。みんな警戒区域についていました。それが5日から始まっていました。空襲警報なので各自報告があり、変化がなければ心配もしませんでした。
 
6日の朝7時半ごろ空襲警報が解除され、昨晩から全然寝ておらず食べ物も食べていないので、任地からみんな降りろと私が命令を出しました。警戒警報解除だから任務解除させ、全員営庭に並ばせました。朝食を食べて、兵舎へ入って休めと命令をしたのが、8時近かったと思います。私はみんながそれぞれの兵舎へ入ったのを見届けて、2階の将校室へ戻りました。それがちょうど8時ちょっと前でした。次の仕事があったので、早々に2階に上がって自分の将校室へ入り、服を着替えて、その次の仕事の準備ができるのを待っていました。
 
若い人たちがみな戦争へ行ったので農作業する人がお年寄りばかりのため、兵隊の中で農家出身の者、特に長男で健康な者を全部調べました。全国どこへ行っても、お年寄りばかりが農作業をしてるわけです。だから農産物の生産がすごく落ち、お米を作る人もいなくなってきたためです。長男で農家の者を部隊から選び、郷里へ返す仕事をしていました。私が窓から見ていたら、班長さんと一緒に農家の者が兵舎の前に集合しました。まだ時間があると思い、将校室で待ち、銃を立てかける棚の軍刀に手をかけた瞬間、ちょうどそのへんにある窓がものすごく光ったのです。
 
顔も向けられないほど、光ったのです。光ったのと、天井板がはがれて青空がちょっとのぞいたのは覚えています。それからは記憶にありません。何分か何秒かは分かりませんが、自分の意識が戻ったときには、ちょうど3、4メートルほど、私は出口の方まで飛ばされていました。私がいた比治山の部隊があったのは、爆心地から1.8キロぐらい離れたところですので、爆風も強かったです。私は部屋の中にいたから、熱光線は直接受けなかったのですが、倒れてきたはりか柱で足を打ち骨折しました。頭に傷を負い、流血していました。
 
廊下から叫ぶ音がするので廊下へ出ると、2階から兵隊がどんどん人を乗り越え、流血して出てくる状況を見て、これは大変だなと思いました。けがをした人間の上を飛び越え、踏み越え、大勢の兵隊が出てくるのです。私が退避の命令をすると、階段から兵隊が飛び下りていきました。下に遊び場があり、そこまで石畳になっているのですが、降りると救出に入ろうとする者、部屋から出てくる者で身動きが取れないほどでした。兵舎が傾いて屋根から落ちたかわらが積みあがって、土手のようになり外へ出られません。積まれたかわらの上を歩けないのです。そこを1人、2人、出ていくわけです。
 
兵隊で一杯になり、比治山へ退避する指示を出しました。戦友を背負い、手を引いて、抱いて出てくる者、中へ入ろうとする者で混乱状態でした。比治山に誘導し、やけどをしているので山の上の木陰へ行きました。そこで寝かせましたが、誰が命令するのか、命令系統も何もありません。手近の兵隊に指示を出して散らせました。それだけで精一杯でした。
 
私はこうして話していても、悔しくて込み上げてくるのですが、何にも薬がないのです。それからガーゼの1枚もない。できることは、ただあおってあげるだけなのです。「頑張れ、頑張れ」と言うことだけしかできないのです。衛生兵もいませんでしたから。昨日まで懸命に訓練していた若い少年兵が倒れている。声をかけ、うなずいて教官殿と言い返してくれるならまだいいのです。頑張れと励まして。頑張れと励ましていても薬もなく、だんだん声が出せなくなるのです。
 
私も医者の息子で油をつけるとよいことを知っており、銃や革を磨く油を塗ってやりました。医学的な知識はないですが、油を塗ってやったりして、とにかく「頑張れ、頑張れ」と元気づけたけども、そのうちに声が出せなくなりました。若い兵隊たちを見殺しにしたのが、私は今でも一番悔しくて悔やまれるのです。早く衛生兵が来て、治療できれば良かったのですが、死んでいった人間も、たくさんおりました。
 
【その後の状況】
3時ごろ衛生兵もだんだん来るようになり、症状がひどい人から担架に乗せて連れていきましたが、収容先がどこなのかが分かりません。学校なのか、お寺なのか。私の膝元にいる兵隊を元気づけるだけで、精一杯でした。もちろん食料も十分与えてやれません。普段は緊急時の訓練をしていましたが、ある状況を事前に話し、ここはもっと早く走れ、ここでは体を伏せなきゃ駄目だ、といった、一部の人間を対象としたものでした。一度に300人も500人も1,000人もそういう状態が出てきて、どうしようもなく、8月6日から2、3日はずっとそういった状況でした。
 
私が受けたのは本当のやけどです。驚いたのは、外に出て敬礼していた人間は、片方が真っ黒焦げで、肉質まで取れるだけ焼けているのです。皮がはがれて、下にぶら下がってる。で、もう片方はツルツルなのです。肉まで焼ける温度というのは、恐ろしい温度なんだと思いました。電気アイロンでやけどしても赤くなるだけです。私の家は病院なので、そういう患者を診ていますので、これはひどいなぁ、と瞬間的に思いました。敬礼していた人間は、こちら側が焦げ、反対側は普通の肌なので、瞬間の熱光線とはすごい熱だなと思いました。兵隊をあおぐときに気付きました。帽子の中はふさふさで、あるところから髪がなく妙なおかっぱ頭なのです。髪が焼けるすごい温度だと思いました。
 
1週間か10日ほどたち、市内警備に出てくれと私の部隊に命令があったので10人か15人ほど兵隊を連れ、広島の市街に警備に行きました。西練兵場の避難場所をぐるっと一回りすると、真っ黒になった子どもたちが、「水をくれ、食べ物をくれ」と言い、真っ黒い手で立っていました。着るものもなく、もう建物がないから、板やボロ切れを被ったりして、寝ているわけです。寝ている彼らの方へ行き、息づかいが聞こえると安心するのですが、じーっとしていると、みんな、「くの字型」になっているのです。女の人も「くの字型」になって寝ていました。泣いてるのか、苦しいのか、分かりませんが、声もかけれずに見て回りました。
 
焼けたトタンを2つに折って、三角にして、その空間に寝ているのです。そういう状況が舗道一面に見えました。その状況をしげしげと見て、とてもじゃありませんが肩をたたいて元気出せよなどと声をかけられませんでした。来るのではなかったと思いました。食べさせるものが何もなく、水筒は1人の子どもが1杯飲むともう空で、水を入れる場所もない。兵舎へ帰ると、思い出して寝られませんでした。
 
朝から晩まで兵舎の裏のくぼ地で、毎日死体を焼く、そのにおい。トラックが、ウーウー、ウーウーと、山を上がっていきます。死体は抱くと皮がズルッとなるから、両手、両足を分担して持ち、車にドンと、枕木の上に2体か3体を乗せ、油か石油をかけて燃やすのです。クワァーッと何か腐ったような焼却のにおいが、朝から晩まで漂ってくるのです。復員命令をもらって十和田市の家へ帰ったのが、昭和20年10月9日でした。ちょうど60年前です。
 
【伝えたいこと】
広島の原爆が落ちたときに、550メートル上空でさく裂したという話を、あとから聞きました。それで4キロ、5キロまで熱光線がいって、その下で十何万の方が亡くなったという状況を図を描いて話すと、子どもたちも分かるのです。話して教えても、そのひどさというのは分からないから、先日こういう話をしました。子どもたちに手を挙げさせて十数えさせたのです。時間にして10秒間。「みんなで口をそろえて言いましょう」と言いました。その10秒間に、B29という飛行機から原子爆弾が落ちて、10秒でさく裂しましたと。今みんなが10数えている間に、十和田市の人と十和田湖町の人の、倍の10万人が亡くなりました。みんな丸焦げになって、今の国道4号線の大通りへ、みんな、もう真っ黒焦げに焼けて、いっぱいの人が亡くなりました。
 
「みんなでもういっぺん10秒数えてごらん」と言ってまた話しましたよ。そうしたら、もう子どもたちは、すっかり理解しました。子どもたちには、1つの物事の見方を変えて話さなければ、この語り継ぐ会というものは、通じないと思ったのです。私が話したその子どもたちは、もう社会人になっていますが、たまに休みになると私の家へ訪ねて来ます。あのときのその話を思い出します。あのときのその話を思い出し「先生と一緒にしたあの話は絶対に忘れないんだ」と聞くと、効果があったと思います。理解してくれるそんな子どもたちに、本当に感謝します。
 

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの証言映像をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針