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福井 絹代(ふくい きぬよ)
性別 女性 被爆時年齢 14歳
収録年月日 2023年10月8日  収録時年齢 93歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:1.8km) , 長崎(入市被爆) 
被爆場所 広島:広島市(千田町)
長崎:入市被爆 
被爆時職業  
被爆時所属 不明 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

福井 絹代さん、当時14歳。
長崎市に生まれ育った福井さんですが、父親の仕事の関係で昭和19年の夏、広島市で暮らし始め、20年8月6日、爆心地からおよそ1.8キロ離れた千田町の自宅で被爆しました。そのころ、父親は出征しており、弟との2人暮らしでした。近所の人や親の知人に連れられ、比治山や似島へ避難しますが、最後は弟と2人きりに…。3日間は無料で汽車に乗れることを知り、親戚のいる長崎へ戻ることにしました。
9日、長崎に入ると、皆、道ノ尾駅で降ろされました。親戚宅へ向け線路沿いに歩くと、そこは被爆した長崎のまち。死体を跨いだり、踏んだりしながら、歩いたと言います。
今の子ども達には理解も想像もできない経験でしょう。それでも、悲惨だということだけは伝わると思います。福井さんは、自らの経験を振り返り、そう語ります。
 
【被爆前の暮らし】
弟と私と父親の3人だけです。隣に、広島に行った伯父さん家族が住んでいました。
父親は相川義次、弟は國義、私が絹代です。父親のお休みの時には、映画館へ連れていってもらいました。昔は着物を着ていましたから、冬は父のマントの中へ弟と2人で入り、活水女学校の横の道路を歩いて、大波止まで行きました。うちの父親はお酒もたばこもたしなみませんでした。映画が好きだったので、よく連れていってもらいました。母親がいませんから、隣家に入り浸っていました。父親が三菱に行く時、枕元にお金とおめざ(子どもが目をさました時に与える菓子の類)を置いてくれていました。
父親の一番上のお兄さんが広島の造船所に勤めており、来ないかということで、私たち親子3人、広島に行き、千田町二丁目で暮らしていました。6月に父親へ召集令状が来ました。一度は、前に肋膜(炎)をやっていたので外されたのですが、次にまた来て、2か月間だけ行きました。父親の友達の矢次さんという方に下宿をするように言ったのですが、うちには寄り付かず、きょうだい2人で暮らしていました。昔の入れ物にお米をいっぱい買いだめしていました。広島は、お金を出せばなんでも食べられたのです。カキフライでもなんでも食堂で食べられました。雑炊なども食べていました。父親が畳を上げて、新聞を敷いて、その上にお金をべたべたと置いて、また新聞をかぶせて畳を敷いていました。子どもが銀行だの、郵便局へ行けば、おかしいと思われるからと、そこまで気を使ってくれました。
学校のことは、ぽこっと(記憶が)抜けてしまってわかりません。ただ、勤労奉仕で機械をガッチャンガッチャンやったのだけは覚えているのですが、学校へ行った記憶はありません。
 
【8月6日広島で被爆】
朝、空襲警報が解除になったので、洗濯をしようと思い、父親が置いていったお米を炊いて、のりをこしらえたのですが、起きてきた弟が洗面器ののりを捨てちゃって、けんかになったのです。ところが、けんかをしないで中庭に入っていたら、私は生きていません。結局、弟とけんかをしたおかげです。もう洗濯を諦めて、流しの敷居へ一歩、足を踏み入れると、飛行機が3台来たのです。「あれ? 敵機が来たねえ」なんて言っていたらピカッと光り、もうみんな壊れて下敷きになりました。そして、私の手だけが見えたので、弟が助けてくれました。うちは2階建てだったのですが、ぺちゃんこになって、壁土で左の目が見えなくなってしまいました。その時、木綿針が入ったのでしょう。歩けなくなったので病院へ行くと、針が1本、入っていますよと言われて気が付きました。何年もたってからのことです。耳もやられたのでしょう。その時は一生懸命でしたから、気が付きませんでした。とにかく弟と必死になって、手をつないで歩きました。弟は怖がりですから、もうしがみ付いて、しっかり手を握って離れませんでした。
家がぺちゃんこになって、何を履いて出たのか、私はどうしても思い出せないのです。ちゃんと靴を履いたのか、それとも、洗濯物を干そうと思ったからサンダルを履いたのか、そこの記憶も全然ありません。ほかの方は全員、亡くなりました。隣のおばちゃんや近所の人、6人だけが生き残り、最初は御幸橋の方に行ったのですが、いっぱいでした。
その時、左の目はもうつぶれて、見えなくなっていました。弟が御幸橋を下りて、死体が浮いている川で布を冷やして、目に当ててくれました。あの大きな川に死体がいっぱいで、いかだみたいにずっと隙間なく浮いていました。目も当てられませんでした。御幸橋は今のように大きくなかったのですが、どういうわけか、みんな行ってしまったのです。   
それから、比治山に行ったみたいです。最初はぼろきれだと思ったのです。ところが、背中の皮膚が全部むけて、それを踏まないように、泣きながら、つま先で歩いている人を何人も見ました。それはかわいそうでした。そして、「お水ちょうだい、お水ちょうだい」と言うので、お水を少しあげると、もうすぐ亡くなります。比治山の上へ行くと、白い粉を頭が真っ白になるぐらい振りかけられて、顔は赤と黄色で、とにかく傷だらけなので、ヨードチンキをおばけみたいに塗られました。ところが、みんながそうだから、何もおかしくなくて、そのまま比治山から下りてきました。
それで(文理科)大学のプールのほうへ行きました。みんな近所の人たちは、親戚を頼って行くというので、きょうだい2人だけになりました。寝るところを探さなければと思って、あちこち探しました。学校の空き地が方々にあるのですが、プールのそばは多くの人がいました。蚊帳まで持って出た人もいて、木と木のあいだに蚊帳をつっていました。その横を通って、誰もいないところを2人で探して寝ました。私は疲れているので寝たのですが、弟は少し起きていたみたいです。プールのそばへ行く時、黒い雨が降りました。それも少しだけですね。ザアザア降りではありませんでした。
 
【翌日、似島へ】   
矢次さんが捜してくれて、似島に連れていかれたのです。よく見つけてくれたと思いました。小さい船ですから、子どもでも容赦なく、もう大人たちがみんなつついて、船に乗るまでも大変でした。
似島では、矢次さんの親戚のうちに連れていかれて、学校か講堂かわからないのですが、そこへ行きました。憲兵さんですか、軍服を着た人が、割り箸と牛乳瓶を一人ずつに渡していました。そこへ被爆した方たちが担架で運ばれてきて、私は牛乳瓶と割り箸を持たされて、うちの弟はスプーンと重湯みたいなものを持たされました。どこが鼻だか口だかわからないのに、どこから入れてやるのかと、べそをかいたのです。私はもう1匹ずつ、牛乳瓶の中へウジ虫を入れていきました。もう一皮むけているから、化膿(かのう)して真っ黄色なのです。そこからウジが湧くのが怖くて、怖くて、やっとこ取っていたのですが、あれはいまだに嫌です。ウジというものは、どうして次から次に湧いてくるのでしょう。人間の体は不思議ですね。そんな黄色くなったのに、ウジがぐじゃぐじゃと湧いてくるのです。取っても、取っても、牛乳瓶の中へ入れても、入れても、切りがなく、べそをかきながらやりました。
矢次さんは私たちを置いたまま、また友達を捜しに行きましたから、全然、そのあとは会っていません。
 
【広島から長崎へ】 
あなたたちは、もうここへは置いておけないから、出ていってくださいと言われて、広島に戻りました。そこにいても、南観音町の伯父さんとも会えないから、ちょうど汽車が3日間無料だというので、罹災証明をもらって長崎へ帰りました。
南観音町の伯父さんのうちは、道もわかりませんでした。伯父さんたちが千田町まで捜しに来てくれたと、あとで聞きました。そこへ小さな骨がいくつもあったので、私と弟は死んだものだと思ったそうです。そのころは、みんな鉄かぶとをかぶっていましたから、その中にお骨を入れて持って帰ったと、もうずっとあとになってから聞きました。生きているとは思わなかったのでしょう。(爆心地近くの)千田町でしたから。
汽車の中はもう満員でした。座るところがないので、立ちっぱなしです。不思議なのです。トイレにも行けない状態なのですが、飲み食いしていませんから、トイレに行きたくもないのです。立ちっぱなしで、あの小さな体で、よく2人で長崎へ帰れたと思います。
門司だか、下関だか、はっきり記憶はないのですが、そこでいったん休憩だということで、全員、降ろされたのです。知らないおばさんにどこから来たのと聞かれ、広島でこうなったと言うと、ちょっと待っていなさいと言って、娘さんが買い出しに行ったのでしょうが、私と弟に桃を1つずつ、手渡してくれたのです。それがうれしくて、なんにも食べていないものですから、泣きながら食べました。
下関から乗り換えて、いったん鳥栖で止まり、それから、汽車で行けるところまで行こうとすると、また長崎でも空襲警報というので車掌さんが走ってくるのです。大人はみんな山へ逃げたのですが、もう私は疲れ切ってしまって、弟と一緒に汽車と線路の隙間へ潜り込んで、夕方までいたと思います。時計がないから、何時とは言えませんが。
 
【被爆した長崎の街を抜けて】  
道ノ尾駅からは、結局、歩きました。誰もいないところを線路伝いに2人で歩いたのです。被爆した人たちが汽車に乗ろうと思って、次から次に来るのでしょうが、そこで息絶えて、線路伝いに死体が随分ありました。もう見られないくらいです。広島で死んだ人は大きい川へ飛び込んだので、道の両側で死んでいる人は少なかったのですが、長崎はもうほとんど道の両側で亡くなっていました。それを越えなければ、目的地の大浦まで行けないのです。馬が膨れ上がっている上、死体の上を仕方なく、ごめんなさいと言って、またいだり、踏んだりしました。そして、土手まで上がって休みました。川の橋がもうみんな壊れてしまっているので、どうにもならなくて、死体の上を歩かなければなりませんでした。何年たっても覚えているほど、足の裏の感触はすごかったです。
新地まで行くと、焼けていないのです。これなら大浦のほうは大丈夫だというので、石段を上がって、活水女学校の横の道路を上がって、伯父さんの家に行きました。伯父さんの家に着くと、誰もいなくて真っ暗でしたが、私たちきょうだいは疲れていたので、上がり込んで寝てしまったのです。おばさんたちは、みんな防空壕の中へ避難していました。おばさんが何か取りに来た時、「誰ね?」と言われたので、絹代と國義ですと言うと、「おまえたち、生きていたのか」と言って、おばさんに連れられて、防空壕に行ったのです。防空壕に行くと、大きくはないのですが、中には何十人もいました。満杯で入れなかったので、座ったまま、おばさんたちが持っていった布団に寄り掛かって寝たのを覚えています。
 
【母の実家の黒崎へ】 
朝、おばさんたちが、ここにいても空襲でいつどうなるかわからないから、別れた母親のいる田舎に行きなさいと。私はそのころ、黒崎まで40キロもあると思ったのですが、夏の暑い日でしょう。弟が言うことを聞かないで、しゃがみ込んで動かないのです。私たちが何も食べていないというので、おばさんが缶詰め工場に行って、小さな缶詰めを拾ってきてくれたのです。もう上は真っ黒になっていましたが、クジラ肉とタケノコの缶詰めが、底のほうは食べられたので、木の枝を折って箸がわりにして食べました。お水を飲むにしても、田んぼは油が浮いてどうしようもなかったのですが、我慢できなくて、その油水を飲みました。あの暑いところを歩くのですから。そのころはまだ舗装していませんから、砂利道でしょう。弟をたたいたり、なだめたりして、やっと黒崎までたどり着きました。朝早く出ても、夜遅くまでかかりました。
着いた先では、幽霊だと思われました。死んだと思っていた者が、2人で生きていたのですから。別れた母親も長崎から疎開して、何時間か前に着いたそうです。祖母の声を聞いた時は、ほっとしました。仕方がありません、いくら嫌な母親だったとしても、子どもたちもいたのでしょうから、父親が迎えに来るまで黒崎で過ごしました。
 
【家族3人で関東へ】
うちの父親は、前に肋膜(炎)をやって、それが再発したから、結局、戦地には行かなかったそうです。最初に行ったおばさんのうちで、子どもたちは黒崎に行ったと聞いて、病気を治してから迎えに来ました。迎えに来る前に仕事を見つけなければなりません。もう広島の三菱造船所には戻れませんから。そして、東京で仕事を見つけたから、東京へ行くということで、弟だけ先に行きました。東京都は人数制限があって入れなかったので、私はいったん埼玉の寄居に入り、あとから行きました。
 
【青森出身の男性と結婚】
健康診断書をもらって、結婚しました。やはり自分の体が、いつどうなるかわかりませんから、相手に失礼でしょう。だから、ちゃんと診断書を見せました。主人だけです。被爆者だということになれば、さげすんだような感じを受けたので、主人の父親にも、初めは何も言いませんでした。ただ主人だけが覚えていればいいと思いました。
うちの父親が、川崎で事故に遭って亡くなりました。主人のお兄さんも2人とも亡くなり、青森に帰ってこいということになりました。父親も亡くなり、誰も頼る人がいませんから、主人に付いていくしかないと思って青森に来ました。
被爆したということは、みんなには言わず、主人だけに言っていました。何年かたって言うと、「ああ、ピカドンか」と言われたことがあったので、ただ言葉を濁していました。結局、皆さん、出身地を聞くのです。長崎だと言えば、もうみんな変な顔をするので、参ってしまったのです。
子どもは2人とも東京で生まれました。青森へ来てから、隠すわけではありませんが、出身地はどこと聞かれない限り、自分からは言いませんでした。
 
【被爆の影響】
30歳をすぎたころから、いろいろな病気が出てきました。個人病院だけで、大きい病院には行かなかったのですが、原因がわからないというのです。全然、歩けなくて、入退院を繰り返したのです。お薬をもらっても眠れず、注射を打っても眠れず、原因がわからないのです。先生も困っていました。何を言っても理解できていなかったのではないでしょうか。先生にも被爆者だということは言いませんでした。だから、先生も原因がわからなかったのでしょう。耳はだんだん悪くなってくるし、左の耳はもう全然、聞こえなくなりました。市民病院の先生からは、右もだんだん悪くなって、聞こえなくなると言われました。あまりにも入退院がひどかったので、50歳まで生きられないのではないかと思いました。その時、主人には随分、迷惑を掛けました。何年か前はもう歩けなくて、這って歩いたこともあるのですが、今のほうが丈夫になりました。
子どもたちが大きくなって、長崎へ遊びに来いというので行きました。被爆者健康手帳を持っていると、雲仙が無料になるから、行こうというのです。私は、被爆者健康手帳といってもピンとこないから、「なんなの?」と聞くと、こういうものだと見せられました。それから、いとこに証明してもらって、青森に帰って被爆者健康手帳をもらったので、やはり40歳をすぎてからではないでしょうか。市民病院に申請して、それから被爆者健康手帳をもらうように、手続きがあるからということでした。ほかの方に聞くと、ずっと前から被爆者健康手帳をやっていたというのです。私は随分あとになって知りました。それでも助かりました。あちらこちらが悪いと、そのおかげで今も助かっています。
 
【今、思うこと】
まあ、理解できないでしょうから、息子には全然、言っていません。娘には少し話をしましたが、どういうものかというのはわからないでしょうから、詳しくは話をしていません。言っても想像もつかないでしょう。
小さい時の記憶だけですが、長崎と広島へ行って資料館を見ましたが、あんなものではありません。もっともっとすごいのです。写真で見ると「あら、きれいね」とうっかり言ってしまって、そばにいた人はびっくりしていました。人も馬も、もう足の踏み場もないのです。あの道幅の広いところが全部そうなのです。戦争中だったからでしょうが、今思えば、14歳と12歳の子どもが、よく大浦までたどり着いたと思います。その時は気を張っていたのでしょうね。今の子どもたちには想像もつかないでしょう。私たちの年代は被爆の話がわかるでしょうが、ずっと下の人たちは経験がないから、どういうふうに伝わっていくかはわかりません。まあ、悲惨だということだけは伝わると思いますけれども。

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