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白取 豊一(しらとり とよいち)
性別 男性 被爆時年齢 17歳
収録年月日 2005年10月11日  収録時年齢 77歳 
被爆地 広島(間接被爆) 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 船舶司令部陸軍船舶練習部第10教育隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

白取豊一さん、当時17歳。水上特別攻撃隊員として、日夜訓練に励んでいました。江田島沖の海上で、晴れ渡った夏の空が、一瞬でその色を変えるのを目撃しました。あのきのこ雲と、似島での救護活動中、目にした惨状は、故郷青森に帰ってからも、脳裏から消えることはありません。
 
 
沖縄が全滅し次々と攻められる中、6月、私たちは進軍するための船舶特攻として江田島に集められました。別名、陸軍水上特別攻撃隊です。小さいモーターボートのようなベニヤ板の船の後ろに爆雷を積み何メーターか下の機関部あたりに沈んだころ爆発するように指示されました。今思えば、幼稚な話ですが、その当時は真剣に訓練していました。
 
【8月6日】
8月6日8時15分。そのとき、もちろん軍隊の方は、朝起きてご飯を食べ、点呼をしていました。そういう時間帯です。私はそのとき、たまたまその船で沖へいきました。訓練するために係留しておくのです。そして、整備しなければならないのです。整備するために、朝早く起きる必要がありました。16、7の子どもだから、なおさらこれが非常に面倒くさい作業と感じていました。それでも、当番だったので、何人か一緒になって沖へ出て、船の整備をしました。整備をして帰るとき、原爆が落ちました。
 
そのとき天気がよく、私は上半身が裸でした。そして、手漕ぎボートがつながれている船で集められもっていかれました。ボートを漕ぐ人は漕いで丘に帰りました。私はたまたま広島に背を向けて乗っていましたが、そのときに原子爆弾が落ちました。一瞬、真っ白になり写真のフラッシュのような光景でバァッとたきました。全体が一瞬光り気付いた時、ポッとしたなという感じがしました。広島との距離があるので、熱いっていう感じはしませんでしたが、そのあとに、ものすごい爆音が聞こえました。
 
そして、すぐ陸に着き船が入りました。着いた途端に防空壕へ行き、みんないっせいにもぐり込みました。通常の爆弾だと破裂して破片が飛ぶのですが、はるか上空で破裂するだけなので、破片も落ちて来ず、何もありませんでした。そして、おそるおそる対岸を見ると真っ黒になっていました。それが、原爆が落ちた直後の状況です。
 
【きのこ雲】
最初はスーッいう感じでしたが、すぐ形が崩れました。薄いピンク色に、白色でしたが、きれいだなと、私はそう感じました。そして、雲が初めて揺れるところを見ました。あとでこれが原爆のきのこ雲だと知りました。私はその時、一瞬でもきれいだなと思いました。すぐ命令で、救護活動に動員がかかりました。そこには、約1,800名ぐらいの人がいました。私たちのいる場所は幸ノ浦というところです。
 
【救援活動】
私たちは班になり救護活動に出かけました。市内に行った方もいましたが、人が水槽に首を突っ込んでいるなど悲惨な状態だったそうです。私が救護活動に出かけたのは似島でした。似島へ次々と死体が運ばれてきました。担架で担いで運ばれ、それが朝から晩まで続きました。最初は、穴を掘って焼いたりもしました。しかし、そう簡単に焼けるもんではありませんでした。言葉で言えないようなにおいもするのです。人間の体が焼けたりすると、潰れるのです。だから、子どもを先に探したことを覚えています。最後には、大きいのが残りました。
 
そして、朝から晩まで、2日3日となれば、もう死体が死体という感じがなくなり、今度は物にしか見えなくなってきました。これはもう遺体を捨てる作業です。そういうことをしてきました。似島にも、1万人ぐらいの遺体が運ばれてきたと言われています。そして、動けない状態で生きた人も来るのですが、そういう人たちは建物の中に、毛布を敷いてザーッと並べました。そして、お粥など差し上げるのですが、口が開けられないような状態の人がたくさんいて、起こすにしても痛そうでした。そういう人がたくさんいたのですが、朝になるとみんな全部死んでしまいました。
 
また、子どもでパニック状態になった人がいて、今でも忘れることができません。寝たきりで、気をつけ前に進めと号令をしている子どもです。それから、お父さんやお母さんに2階から布団持ってきてくださいなど声を出す人。自分がそういう状態になると、もう分からないのでしょう。そして、兵隊さん助けくださいと阿鼻叫喚、うめき声も聞こえてきます。それも何百人もいるのです。うー、うーと聞こえてきても、私たちは薬もない状態で何の手当てもできず、どうすることもなく過ごしました。
 
それが毎日続き、昼になるとまたけが人が次々と来ました。30度以上の暑さで3日4日経つと、人間の体は腐りハエが付きウジがわきました。そして、皮膚はこのまま残り体の中にウジ虫が付きます。帽子をかぶっている人は、帽子の下の髪の毛がそったようにきれいになっているのです。私は最初、この人はなぜこうなったのかと思っていました。帽子をかぶり、露出したところの髪だけがきれいに丸くなっているのです。あと、全身が真っ赤に焼けてもうどうしようもない人もいました。それでも、生きているのです。目も口も、動けないような状態でしたが生きています。もちろん、そういう方も間もなく死んでしまいました。お粥などを食べさせようとしても、口も開けられない状態です。そんな人も、広島で収容する所がないので、次々と近辺の島へ運ばれました。
 
私たちはその作業を朝から晩までしていました。中には、身内の人が付いてくる人もいましたが、家もなく収容する所もなく火葬場もありません。全部、似島へ捨てられていくわけです。家族の人が付いてきても桟橋より先に入れるわけにいかないので、着物の裾や髪を切り渡してあげました。広島から来た生きている人には名札が付けられ、住所や名前がありました。その方が亡くなれば、名簿に書き、穴を掘って札を立て埋めました。
 
それから60年経って今になるわけです。遺族の人も私たちも、その状態をすべて記憶しています。似島は今まで何回も掘り返して死体も出しているのですが、去年掘り返したら、50何体分の名札が出てきたそうです。この掘り出された名札で、自分の妹が似島で亡くなったことを59年ぶりに確認した人がいるということをテレビか新聞で見ました。あのとき、私たちが運んで捨てた人が、この人なのかと思いました。やはり、どうにもならないことですが悪いことをしたという罪悪感を感じます。当時の状況で、次々と捨てざるを得ないことでしたが、今は、そう感じています。
 
【帰郷】
戦争が8月15日に終わり、それから兵舎の中の片付けなどの残務整理をしました。そして、私が帰って来たのは9月11日でした。皆、毛布の包みを1個ずつもらい、担いで汽車に乗っていきます。荷物を担いで乗り換えもしました。当時、広島からここへ来るのに3日ぐらいかかりました。駅は空襲で壊され焼けていました。帰るときに、カンパンの袋をもらいましたが、帰路の遠い順番にその数が増えていきます。列車に乗り、それをかじって帰るわけです。
 
【伝えたいこと】
この恐ろしい原爆は、もう二度と使ってはならないし、使うような状態をつくっても駄目です。とにかく、若い人に話をする時には、二度と戦争を起しては駄目だと伝えています。皆さんが学生時代に、実際に被爆した人から話を聞いたのだということを忘れず、次の世代に伝えて欲しいです。2発の原爆で今の日本は戦争をしないということを誓ったつもりですが、最近戦争ができるようにしなければならないという動きがあります。私は、このことについて非常に残念と感じています。悲しいことです。だから、戦争を阻止するような方向で頑張ってもらいたいと感じています。
 
一瞬にして、何十万の人が亡くなり、今も後遺症で苦しんでいる人がたくさんいます。日本だけではなく、放射能で苦しむ人が今でもいます。しかも、原爆は事故ではなく、落とせばどうなるかをみんな知っています。これは戦争です。弾が当たれば死ぬ、爆弾を落とせばけがをする。最初からすべてわかっていることです。事故であれば防げませんが、戦争というのは自分で起こしけがや死に至ることをわかって行うことです。だから、私は絶対してはいけないことと思っていますし、私たちが実際、体験し累々たる光景を見て子々孫々まで伝えていってもらいたいです。将来、世界のどこに落ちても困るわけですから、ずっとこの事実を忘れず残していってもらいたいものです。
 

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