濱住 治郎さん、 当時妊娠3か月の胎児でした。爆心地からおよそ4キロ。母親は矢賀町の自宅で被爆し父親を捜すため、広島市の中心部に向かいました。原爆投下後、濱住さんの家に次々と親戚などが押し寄せ、家族はけがの手当に奔走したと言います。
爆心地近くの会社にいた父親の亡きがらは、遂に見つけることはできませんでした。戦後生まれの濱住さんに被爆の記憶はなく、きょうだいからの手紙で当時の状況を知りました。
「核兵器も戦争もない青い空」を世界の子供たちに届けたい…。被爆者の一人として訴え続けていきたいと濱住さんは語ります。
【戦時中の暮らしと6人きょうだい】
父親は、中国配電という電力会社に勤めていました。父の収入で一家を養っていたようです。農地があって、そこで、お米もいくらか作ってもらっていたとは聞いています。私が49歳になったときに、きょうだいに「8月6日」は、どのようなことをしていたのかということを手紙で聞いて、私に返してくれました。2番目の姉は、もう学校に行かないで、兵器支廠や被服支廠、缶詰を作る糧秣支廠で働いて、農家の手伝いにも行ったそうです。そういう仕事で、もうくたくたになっていたと書いてきました。私の母も、国民義勇隊で作業に出ることもあったようで、やはり、もう家族ごと戦争に向けて、みんなが進んでいた時代だと認識できるのではないかと思っています。(長男の)信男と(三女の)正江のふたりは、小学校6年生と4年生だったと思いますが、広島近郊の河内村にある光乗寺というお寺に学童疎開に行っていたと記してくれました。
【それぞれの8月6日】
一番上の姉は、(当時)16歳で、川内村にある被服支廠の工場へ出て、シャツのボタンの穴かがりの作業をしていました。6日も朝早くから出て、作業に取り掛かったそうです。朝礼があって、その最中にピカドン(原爆投下)。朝礼は公会堂で行われていて、ピカッと光ってガラスが壊れて、けが人が出たと手紙に書いてあります。それから、2番目の姉は、吉島本町にあった倉敷航空機の製作所へ早くから出ていっていました。ピカッときた瞬間に(建物内に)閉じ込められてしまったようです。外に出て、防空壕に入れられて、午後から少しずつ行動に移っていったようです。
そして、学童疎開をしていた兄も校庭で朝礼があって、元の場所へ戻ろうとしたときにピカッときた感じだったようです。いつも早い時間に出社する父でしたが、前日に(五女で)一番下の4歳の女の子が、はしかのような症状で発熱したので、スーパーのような家業を営んでいた大手町にある母の実家へ氷を買いに行ったそうです。そして、仕事に出るか休もうか、迷っていたらしいのですが、(会社の)鍵当番だったので、出社しなければいけないため、当日の朝も、いつもどおりに出社したと聞いています。
(家には)母親と、7歳と4歳の姉2人、そして祖母がいました。ガラスや土壁などは壊れたようですが、倒壊は免れて、家そのものは残りました。祖母、母親、姉たちも無事だったということです。30分くらいすると、(広島市内から)避難する人たちの動きがいろいろと出てきたようです。
父親のきょうだいが、みんな市内に住んでいましたので、一軒一軒家族ごとわが家に避難をしてきて、30人くらいの人で埋まってきたと聞いています。一番上の姉は時間はわかりませんが、2番目(の姉)は、午後になって、外に出られるような状況になって、家に帰ろうとしたのですが、母の実家(大手町)の方は、ものすごく燃えていて、近寄れないので、宇品の方から、家に帰ってきたようです。
母親のいとこが、重症の兵隊さんを(家へ)連れてきたそうです。大やけどをしていますが、赤チンやジャガイモを塗ることくらいしかできず、しばらくして、息を引き取ります。それから、20歳くらいのいとこも、わが家で亡くなりました。あと3歳の男の子がいたのですが、彼は傷も無いのですが、突然、20日くらいして亡くなっています。2番目の姉は、(男の子を)おんぶしながら、一緒に遊んでいたので、やはり、大きなショックを受けていたようです。
もう1つですが、母親が当日は国民義勇隊で作業に出る日でした。しかし、一緒に納屋に住んでいたおじさんが、代わりに行ってあげるよと言ってくれたそうです。70歳になるおじさんでしたが、鶴見橋へ作業に出て「こんなふうになっちゃったよ」とつぶやきながら帰ってきたそうです。そのおじさんも3日後に亡くなりました。一緒に(作業に)出た人たちも、みんな亡くなっていったそうです。
【父の行方】
8月6日に父は帰ってきませんでした。翌7日に、母と姉たちが捜しに(市内)中心部に入ったのですが、まだ熱くて入れないので7日は引き返しています。そして、8日にもう一度、母たちが行って、そこで、会社の人と出会って、父がいたらしい場所が確認できました。父の遺骨ではなく、父の遺品がありました。着ていた衣服にくるんで持ち帰りました。それが、この3つのものです。お墓にこんな状態で入っていまして、これを取り出したのがこちらの写真です。残されたものがあるということを聞いていたのですが、私が父の遺品を見たのは、これが初めてです。10年前、父に初めて出遭ったという感じです。父親の会社(中国配電(株)広島)は、モルタル造りだったようです。だから、自然発火ですべて焼かれたようです。犠牲者88人と書いてあるのですが、もう(誰も)知る由もなしということです。(父親を)見分けるには、やはりベルトとか、何かで死骸を見分ける以外になかったと(記録に)書かれてあるのですが、父はもう、ほとんど白骨化していたと書かれています。そういうことを聞くと、とても大変だったのだろうと思います。
【戦後の暮らし】
父親の勤務先が中国配電だった関係かもしれませんが、私が物心ついたときは、母が月の3分の1くらいは、電気の集金を仕事にして、生活していました。兄は銀行員になって、一家を支えてくれました。姉(長女)はもう16歳でしたから、結婚をして、(家を)出ていきました。そして、嫁ぎ先の仕事をまた、次の姉たちも手伝っていました。そういう支援もあったのかもしれません。
少し田畑があったので、生活の足しにし、現金的なものは、母親と兄の収入でした。それでも(家計が)やり切れなくて、税金が払えなくて、差し押さえが来るよという記憶が、私の中には残っています。(家に)座敷の間があって、そこに写真が掛けてありました。この写真です。鴨居に掛けてあって、小さいときから「これが亡くなった父だよ」と言われて、ずっと見ながら生きてきました。
小学校から高校まで、私は(広島に)いましたその間は、ずっと兄が父親代わりで育ててくれました。親戚もよくしてくれました。盆や正月には、みんなが、お墓参りでわが家に来てくれて、よくしてくれたそうです。私は(昭和)21年2月、一番大変なときに生まれてきています。自分はどういう存在だったのだろうなとよく考えるのですが、大変な中で生まれてきて、1つは父親の代わりのような存在。母親にとっては、かけがえのない存在で、新しい命ができたというふうに捉えてくれている。しかし、みんなが食べていく上で、また1人増えて、どういう存在だったんだろうと思います。きょうだいも多いですから、一番下で、よくしてもらっていたけれども、やはり、心の中では、複雑なものを抱えながら、自分自身は来たなというふうに思っています。
【胎内被爆の不安】
胎内で被爆したということで、ABCCに検査に来ないかと言われました。大きな車で連れていかれると感じです。中学時代に、何か自分でも体の調子があまりよくなくて、診てもらいたいと思って(ABCCへ)行きました。検査はするのだけれど、治療はしないというところでした。そういうところに自分なりの反発心のような思いがありました。中学、高校のころ、ちょっと血圧が高く、あまり調子がよくありませんでした。大学に入ってからも、万全という感じではなかったと思います。
私は、37歳のときに胃潰瘍になりました。仕事をしていても、どうも調子が悪いということで診てもらいましたら、潰瘍でした。そこで、友達の紹介で病院をほかの病院に変えました。
(治療に)精神的なカウンセリングを加えました。何をやるにしても、不安なので、そこを自分自身、クリアしていきたいという思いからです。問い詰めていく、突き詰めていく感じです。それが37歳からです。最初は、毎週あったのですが、だんだん間隔が空きました。しかし、仕事をずっと続ける間の60歳くらいまでは、つながりを欠かせませんでした。精神的な面を、どう自分自身が見つめ直していくのか。そこが一番大きな転機でした。父のこと、兄や母のこと、それぞれを自分で問い詰めていくということが、仕事をしながら、ずっとやってきたことです。(原爆に関しては)すべて知らないことなので、それなりに知ることができて、ありがたいなというものでした。
【被爆体験の継承】
2003年、市の職員だったときに東友会の働き掛けで、稲城市に被爆者の会がないので、作りませんかという呼び掛けがありました。近隣の調布、多摩市の方たちが応援に来てくれて、立ち上げました。そのときに、私も関りたかったので、事務局を一緒にやりました。被団協が結成されて60年の年でしたので、60年事業で何をやるのかとなり、いろいろと取り組むわけですが、まず「ヒバクシャ国際署名に取り組みましょう」ということで、取り組み始めました。2019年に国連へ行って、準備委員会で発言をさせてもらいましたが、併せて、署名を議長に提出しました。それが、自分の中では、力になっているように思っています。いろんなかたちで、自分の血となり、肉となってきているような気がしています。
私は父親を亡くしているので、忘れることはないのです。76年前ではなく、昨日のような感じがしています。ですから、まだ戦争は続いているのです。やはり、ゼロにはならない。核(兵器)がなくなったことにはならないし、核兵器の問題は解決できない。胎内被爆というのは、お母さんのおなかにいて、守られて、核兵器、放射能から逃れられるのではないかと思われるかもしれません。そうではなく、若い細胞だからこそ、影響があるのです。核兵器禁止条約も、母体や胎児に影響があると前文に載せています。そういう意味でも、私は胎内被爆者として、訴えていかなければいけないものがあると思います。生まれてくる子が、すでにお腹の中で被爆者です。残酷なことです。
兵器を、いつまでも認めている社会は、とても許せません。原爆とは、一体何なのか。調査も含めて、はっきりと被団協としての見解を出してきたことが、やはり、核兵器禁止条約につながってきていると思っています。原爆は、反人間的な絶対悪です。人間として、死ぬことも生きることも許されない。それは、あの年だけで21万人が亡くなって、一人一人の人生すら振り返ることもできません。原爆が、人間に対してもたらしたものとは何か、あの日から今でも続いているのです。終わってはいないです。
どうすれば、そのことが今、世界に認識してもらえるのか。そこが私たち、被爆者の役割であり、世界の人々に訴えていくときの大きな手掛かりとなると思います。これからの子どもたちが、核のない、戦争のない世界で、本当の青い空の下、自分の思いを遂げていけるようにしていくことが、私たち(被爆者の)使命ではないか、と訴えてきました。今からもそういう思いで訴えていきたいと思います。
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