金子 廣子さん。当時5歳。爆心地から およそ3キロ離れた宇品町の自宅で被爆しました。いつもと変わらない夏の朝。突然屋根が崩れ、ガラスの破片が飛び散りました。学校で朝礼中に背中に被爆し、大やけどを負った三女の姉が亡くなった姿は、今も目に焼きついています。
戦後、父の故郷・秋田へ移りますが父親も亡くなり、姉家族が住んでいた北海道へ移住。子どもを抱え、生活に追われる日々の中、こぼした母親の愚痴のひと言が胸に刺さりました。二度と同じことを繰り返さないために核の廃絶と戦争の愚かさを若い人たちに語り継いでいます。
【被爆前の暮らし】
一男五女の6人きょうだいと、父と母の8人家族でした。父は秋田の士族の長男として育ちました。秋田県庁に勤めて、日本統治下の台湾に派遣されました。「戦争が段々ひどくなってくるから日本に帰ってきたら」という親戚の勧めもあり、広島に来ました。まさか広島に原爆が落とされるとは思っていませんでした。父は日本発送電株式会社(日発)という会社に就職して勤めていました。今は北海道電力など、電力会社は別れていますが、その当時、日発は国の電力会社で、父は設計担当でした。
父は床の間に両ひじをついて、1人だけご飯は別に食べていました。私たちは台所に近い場所のちゃぶ台で食べていました。父は子どもがご飯を食べるのをずーっとにらみつけていました。末っ子でまだ小さかった私がひじをついて食べると、バーンと物が飛んで来ました。そんな記憶があります。
家族の仲は良かったと思います。ただあまり記憶がありません。私はいつも父と母のそばから離れませんでした。きょうだいがいたのは分かりましたが、一緒に育った記憶はありません。
【8月6日】
8月6日の朝のことは覚えています。朝起きた時に長女の姉は台所にいました。次女の姉は茶の間にいました。私は「廣子、早く服を着なさい」と言われました。父が起きて姉に、「母さんは」と聞きました。姉は「今日は向こう三軒両隣で、母さんはとっくに家を出ている」と言いました。「学校に行く時間だから、行きなさい」と言われた三女の姉が、「今日はすごく暑くていやだな」と言いました。長女の姉に、「暑いからって学校を休んだらダメ。行きなさい」と言われ、三女の姉は家を出ました。
「そろそろ父さんにご飯を食べさせないといけない」と言った時、父は白いYシャツを着て縁側に立っていました。私の家は丸い形で、真ん中に陽が当たっていました。父はそこで盆栽を育て、ガラスを張っていました。父が「今日は暑い日だな」と言った時に、ドーンと原爆が落ちました。盆栽用のガラスが割れ、みんな腕に刺さりました。ご飯の支度をしていたテーブルにも血が飛び散りました。長女の姉がびっくりして父を負ぶって家を出ました。
家は角だったので壁が落ちました。外を見ると真っ黒い煙が立ち上っていました。しばらくすると荷札みたいなものが落ちてきました。誰かが「アメリカが何かをばらまいた」と言っていました。私は何であるか分からず、ただおもしろがって外に出て、それを拾った覚えがあります。
母が間もなく帰ってきて「貴美子は、貴美子は」と三女の姉のことを聞きました。「貴美子は」と聞かれても、私には分かりませんでした。母は次女の姉と、三女の姉を捜しに行くことになりました。私は親と離れたくなくて泣いていました。「あんたは足手まといだから家にいなさい」と言われ、私は家にいました。
三女の姉が御幸橋あたりで伝い歩きをしていたのを見つけて、連れて帰ってきました。すぐに収容所へ連れていきました。私は見ていません。聞いた話です。それが8月6日の朝の様子です。姉は病院で「助からないからダメだ」と言われましたが、「血だけは止めてください」とお願いして、包帯をグルグル巻いて姉が帰ってきたことはなんとなく覚えています。市電の線路に電車が止まっていて、やけどをした人が手すりを持っていたのはなんとなく見ています。電車に亡くなっている人がいたのもなんとなく覚えています。それぐらいしか記憶がありません。
被爆で直接亡くなったのは三女の姉だけです。原爆が落とされる前の姉のことは分かりませんが。姉は原爆で背中を焼かれて帰ってきました。学校ではなく、公民館みたいな所でむしろに寝かされていました。体にウジ虫がたくさん湧いていた光景はなんとなく覚えています。1週間ぐらいたって姉が亡くなりました。兵隊さんが来て「廣子ちゃん、馬に乗んなさい」と言いました。私が行った時はおそらく姉が亡くなってすぐだったと思います。母は姉のそばについて泣きながら、一生懸命に姉の両手を持って組ませていました。その光景は5歳の子どもの目にも焼き付いています。
寝たままワンワン泣く人もいれば、「水を下さい」と言う人もいました。兵隊さんに抱っこをされていた私は、いつもより高い目線から寝かされている被爆者の人たちを見ました。「薬」とか「水」とかいう声が飛び交っていました。世話をする兵隊さんが動き回っていたことを覚えています。
【戦後の苦労】
広島で小学校1年生になった年の秋に秋田に転校しました。広島を引き上げて、秋田の生保内に父と母と行きました。秋田ならまだ食べるものがあるだろうと思って行ったようです。父は私が4年生の時に亡くなりました。長女の姉は、北見紋別の人と結婚して、広島から北見に来ていました。父が亡くなり、母は誰も頼る人がいなくなったので長女を頼りました。長女は生保内にいても父もいないから、北海道に来るように誘ってくれました。それで北海道に引っ越しました。
それから私は段々と自分の身を考えるようになりました。母は私を育てるために札幌に出て働きました。4年生だった私は「母ちゃん、母ちゃん」と泣いたそうです。末っ子で母から離れたことなかったからだと思います。姉が「廣子が泣くから連れて行ってくれ」と母に言い、5年生の時に私も札幌へ来ました。札幌に来たのですが、私は預けられて、母とは暮らせませんでした。どこに行っても自分の居場所がないことを子ども心にずっと感じていました。親と一緒に暮らせず預けられた時の辛さが一番記憶に残っています。姉がいるのに、姉の所でも暮らせるわけではありませんでした。
札幌から2つ目の駅の琴似に東芝の寮があり、母はその寮で若い人のための賄いの食事を作って出す仕事を見つけました。そこに一部屋もらえることになり、私はようやく母と一緒に暮らせるようなりました。札幌に出て2年後でした。
私が預けられている間、母は預けた家にお金を渡さなくてはならず、大変な思いをしていたようです。母は私を憎くて言ったのではないと分かるのですが、「あんたさえいなきゃね」と私に言いました。その時は子どもだったのでどうしようもできないし、胸にずっとしまってきました。
きょうだいはみんな、上の学校にいかせてもらいました。兄が高校に入る年と私の進学が重なりました。兄は骨髄炎だったので、普通の昼の高校は行けませんでした。田舎の病院で何回手術をしてもダメでした。母は私を育て、兄の入院費も送っていたと思います。兄を田舎から札幌の医大に連れてきて、母は医者に何とかしてやってほしいとに泣きついたと思います。明治生まれの親なので一人息子の兄をかわいがっていました。医者は「最善のことをしましょう。それでダメだったら切断しましょう」と言いました。話を決め、兄を連れてきて手術をして一応は成功しました。
私も育てなくてはならなかったので、母は大変だったと思います。兄の足は治りましたが、結局、普通の昼の高校には行けなくて、夜間高校に行きました。私の進学と年が重なり、中学卒業後に働くか、高校に進学するか2つの選択肢がありましたが私は働く方を選び、就職しました。
私はやはりきょうだいで育った覚えがありません。長女の姉は原爆が落ちた時、父を背負ってはだしで広島赤十字病院に行きました。放射能をまともに浴びています。若い時は元気だったのですが、42歳の若さで5人の子どもを残して亡くなりました。姉は右ひざ近くの内もも辺りにたくさん斑点ができていました。今思えば被爆の後障害が続いていたのだと思います。5人も子どもを産んでいるし、生活に追われて大変だったと思います。
義兄は戦争の犠牲者だったので、北見紋別に来ても、順調な生活ではなかったようです。義兄は酒におぼれて、アルコール中毒みたいな状況になって亡くなっています。姉はそのような夫と一緒になり、子育ても大変だったために、年を重ねるうちに体の調子も悪くなったのだと思います。病名は心筋梗塞でしたが、被爆の後障害で亡くなったのだと思います。
【体調の変化と不安】
私は結婚して2人目の子どもを産んだ後、産後の肥立ちが悪く、言葉では表現できない状態だったので、すぐに内科医院に行きました。それまで私は被爆したことを封印していました。誰に言っても分かってもらえないので、話したことはありませんでした。
病院の先生ならば、なんでも知っていると思って話しました。若い先生でした。私が35歳ぐらいの時です。先生に「被爆ってなんだ?」と言われ、ショックで次の言葉がすぐに出ませんでした。この先生に被爆のことを話しても分かってもらえないなら仕方がないと思いました。
私は学校に行きたいという気持ちはうせませんでした。いつか機会があったらと思っていました。68、69、70歳の3年間、札幌にある夜間中学の遠友塾に入って勉強しました。小学校1年生からの勉強を3年通って基礎から学び、卒業証書ももらいました。札幌にある有朋高校を受け、4月からは高校生だと思っているとき、3月の卒業も終わって間もなく、朝、台所に立つと、持っていたお皿を落としました。左手に持った物が、どうしても落ちてしまいました。
58歳の時には、腰を手術していました。脊髄の手術なので不安もあり、ギリギリまで我慢しました。そのためか、手術後に回復するまで、5年間も杖が手離せませんでした。今回も長くなったら困ると思い、すぐに病院へ行きました。先生から「金子さん、今度は左の方の神経と骨がやられているよ」と言われ、すぐ手術しました。腰の手術をしたのは、私が今78歳だから20年前です。2年前には手の手術をしました。最近、口の中の口内炎の手術をしました。5歳の時に被爆した放射能の影響が少しずつ体に出てきているのだと思います。私の場合は神経と骨に出ています。だからいつも爆弾を抱えているような気持ちです。
【二度と繰り返さぬために】
東日本大震災の後、7年半前に北海道被爆者協会から電話がありました。段々とお年の方が亡くなり、被爆体験を話す人がいないので、手伝ってほしいということでした。何かで恩返しするのなら、今しかないなと心が動きました。
東日本大震災で、私と同じ症状の人がいると、被災地のお母さんたちが言っているのを聞きました。私の母の時代は、被爆の知識はないけど、今のお母さんたちは知識があるから心配だろうと思いました。私を支援してくれた人のためにも、恩返しするのは今だと心が動きました。「自分が話すのは絶対に嫌だったけれど、支援してもらっているので、頑張ってやってみようと思うの、やってもいいか」と夫に聞きました。夫に「お前が話してもよくなったのなら、行きなさい」と言われ、北海道被爆者協会に来るようになりました。
先日、中学校に行った時に、「原爆の被爆者なのに結婚して、子どもを産むことは恐ろしくありませんでしたか」という質問を受けました。私はそんな質問をされるとは思わないのでビックリして「今日、中学でこんな質問をされたよ」と夫に話しました。夫は「実はお前が被爆者だと聞いた時、俺は病院に行ったんだ」と言いました。「好きで結婚するのはいいけど、子どもを産むのだけはやめなさい」と医者に止められたそうです。私の娘は今、東京にいますが、私と同じ甲状腺機能の病気を持っています。医者が夫にそう話したということは、やはり遺伝はあるのだと思います。「先生が言った意味も分かるけど、俺はお前に子ども産むなとは言えなかった」と夫は話しました。
核を使ったら、もういっぺんに地球は姿も形もなくなると思います。私はまだいい方です。まだまだひどい人がたくさんいます。みんなは朝起きたらお母さんがつくったご飯を食べて、学校行く時間になれば、早く行きなさいと言われ、食べるものも、お金さえ出せば豊富に買える平和で豊かな時代ですが、核が落ちると、私が経験した以上にもっとひどいことになります。だから、核は絶対にダメ。勉強してねと、小学生に話しています。やはり、二度と戦争は嫌です。
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