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更科 洵爾(さらしな じゅんじ)
性別 男性 被爆時年齢 16歳
収録年月日 2017年11月6日  収録時年齢 88歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:3.5km) 
被爆場所 広島市南観音町[現:広島市西区南観音町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

更科洵爾さん。当時16歳。爆心地からおよそ3.5キロの南観音町で被爆。ハワイ州で生まれた更科さんは、日本の教育を受けるため、母親と帰国しました。通っていた県立広島第一中学校の動員先だった旭兵器の工場にいた時、爆風で地面にたたきつけられました。学校の様子を確かめるため、戻る途中に鷹野橋の近くで見た「全身にやけどをしたお母さんが、子どもを一生懸命に抱いて死んでいった姿」は今もなお、忘れられません。
 
戦後、ふるさとのハワイ州へ帰国しました。朝鮮戦争に従軍した後、カリフォルニア州に渡り、航空機を作る会社に勤めながら、アメリカに在住する被爆者の団体に参加して、被爆者手帳の取得や健康診断などの支援活動に従事してきました。
 
【被爆前の暮らし】
ハワイのマウイ島で生まれました。父、真理(しんり)、母、敏子、そして一番上の姉が萬里子、その次が、長男莞爾(かんじ)、次男の卓爾(たくじ)、そして私の上の姉が哲子、そして洵爾です。
 
私の父は、京都の西本願寺の浄土真宗本派本願寺の僧侶でした。1916年にハワイへの赴任を命じられ、1933年にハワイのマウイ島で、ラハイナ本願寺を作りました。日本からの移民がたくさんハワイに行き、サトウキビやパイナップルの農業の仕事が多かった時代です。その当時、みんなでラハイナ本願寺を作り、日曜日になると、そこに住んでいる日本人がみんな集まり、400人、500人と週末には人数が増えていた時代でした。
 
1936年、父はホノルル本願寺のお寺の副輪番として転勤になって、ホノルルに残り、私たちだけ1937年に、母と一緒に広島に帰ってきました。その時14歳か16歳だった私の兄、莞爾が、広島県高田郡の明楽寺を継ぐこととなり、そのためには日本語を習わなくてはいけないということが主な目的でした。私たちみんな一緒に、水主町の中島小学校の前で家を借りて住むようになりました。その時私は7歳、小学校2年生でした。私たちの生活のほとんどは英語でしたから、学校に行っても、はじめは難しかったです。
 
戦争が始まりしばらくすると、私の母と二人の姉は、高田郡の明楽寺に疎開しました。私は中学2年生の頃から、翠町にある県立広島第一中学校(一中)の寄宿舎に入っていました。寄宿舎から学校に通い、同時に南観音町にある旭兵器の工場へ動員学徒として高射砲の弾を作っていました。16歳ぐらいの子どもでしたが、旋盤工として、学徒動員されていました。
 
【日本と米国のはざまで】
父が時々、ハワイから広島に帰ってきました。その時によく聞かされたことは、アメリカでは、どの家庭も自動車を持っているし、ブルドーザーなど大きな作業ができるたいへん大きな機械があるということ、そして、非常に事業が発達しており、開発にスピードがあるということでした。ですから、1941年に戦争が始まった時は「これは大変なことになったな」と思いました。「自分の生まれた国と戦いが始まった。私たちはどうなるのかしら」と思いました。しかしながら、私たちはすでに小学校の時から、軍隊や国家の教育、訓練など、軍人としての生き方を教えられていましたので、ある程度、覚悟はしていました。「これは大変なこと、やるべきではない戦いではないのか」という感じをもっていました。
 
父は、真珠湾攻撃が始まった日、ホノルルの本願寺で日本学校をやっており、そこへアメリカのFBIが来て逮捕されました。お坊さんたちは敵国人とみなされており、アメリカに来ている日本人のスパイではないかとその日の朝、逮捕されたわけです。真珠湾近くの移民を取り扱う移民局に連れて行かれ、それからアメリカ本土へ渡り、戦争中はウイスコンシン、ワイオミング、ルイジアナやニューメキシコなどの収容所を転々と移されました。危険人物として、戦争が終わるまで強制収容所に入っていました。
 
【8月6日】
忘れることのできない日です。寄宿舎生4、5人と広島の街を歩いて南観音町の旭兵器の工場に朝の8時に着きました。向こう岸に江波山が見えるところにあるその工場の中に入り、その後、工場の建物を出た時に、ものすごいオレンジ色の光を感じました。それと同時に爆風により、完全に地面にたたきつけられました。
 
建物は壊れ、ごみは飛び立ち、ガラスは飛んできましたが、不思議なことに私は爆音を聞きませんでした。爆音は聞いていないのに、たたきのめされたことは覚えており、その材木の中から立ち上がって「ああこれは直撃弾だな」と思いました。まず、第一に行かなければならないと思ったのが、医務室でした。
 
医務室は窓ガラスの多い建物でその中に白い服を着た看護婦さんが、ガラスだらけで真っ赤に染まり、「あわーわーわー」と口を指しているので、見ると3センチ、4センチぐらいのガラスが、彼女の舌に引っかかっていて、恐る恐るそれを引っ張り出したのを覚えています。別に私ができることはないので、包帯を渡したり、ガーゼを渡したり、それだけしかすることができませんでした。
 
自分の働いている工場の建物に入った時、先生が「おっ解散。みんな帰ってもいい」と言われたので、私たち4人、5人の寄宿舎生が広島の街へ向って橋を渡って行こうとしました。けが人、死人が橋をいっぱいに埋めて、歩くこともできないぐらい死人がたくさんおりました。川の中には5、600人の生きてる人や死んでる人が流れていったり、砂場に横たわっている人がたくさんいました。
 
広島の街は、火の海、煙の海で、とうてい街の中には入れる状態ではありませんでしたので、また工場に戻って、そこで一晩を過ごしました。おむすびをいただいてありがたかったです。お腹がすいていましたから。
 
【立ち寄った広島第一中学校の惨状】 
8月7日の朝、みんなおむすびを一つずついただいて、それから広島市に入っていきました。どの橋を渡っていったかよく覚えていないのですが、住吉橋に出たことは覚えています。住吉橋から鷹野橋の方に向って行くと、そこには、けが人、やけどをした人、死体、そして平らになってしまった広島市を見ました。振り返って見ると、鷹野橋の近くから瀬戸内海が見えたので、びっくりしたのを思い出します。「こんなに近くに海があったのかな」と思ったのを覚えています。
 
今、一番印象に残ってるのは、鷹野橋に着く少し前に見た黒く焼けた丸い塊です。けがをして、やけどをしたお母さんが、子どもを抱いて死んでいた姿です。お母さんが、この子のためと思って、一生懸命に抱いて、一緒に死んでいった姿です。72年たちますが、忘れられません。
 
その後、寄宿舎の友達と「一中に帰ってみよう」といって、雑魚場町にある学校の方へ向って行きました。歩いていきながら捜しますが、学校が見つかりません。全てが平らになっていたのですから。その辺をうろちょろしてる時にプールが見つかり「ああ、これはおれたちの学校のプールだ」と。水は汚れて、たくさんは入っていませんでした。下級生が4、5人、水の中にいました。「おっ、上がるか」と声をかけたら、「うん、上がる」と言うので、彼の腕を握って引っ張り上げたのですが、ずるっと、上がったのは彼の皮膚だけでした。やけどしていました。無理をして、プールから出してやりましたが、しばらくすると、彼はまたプールの中へ帰っていきました。一中の校舎のまわりは、建物の基礎だけが残っており、たくさんのけが人、死人がいました。
 
そこから翠町の寄宿舎へ帰る途中に、広島赤十字病院(日赤)に立ち寄りました。庭にあった大きなシュロの木のまわりには、歩く場所のないぐらい、踏み場所のないぐらい、たくさんのけが人や死人がいて、「薬でもあれば」と思い、半壊の建物に入ると、けがをしている看護婦や医者でいっぱいで、びっくりしました。薬は使い果て、何もありませんでした。また庭に戻ると、一中の下級生4人、5人いて「水いるか」と声をかけると、彼らも「水、水」と言いました。壊れかけた缶を探して、水をやりました。「ありがとう」と、彼らの一人が言ったのを今でも覚えています。彼らはみんな死んでいきました。名前を聞いていたのですが、今は彼らの名前も覚えていません。
 
日赤を出て御幸橋を渡り、翠町の寄宿舎の方に向って行きました。寄宿舎には、10人、20人の生徒が帰ってきたと思います。その日の夜、何を食べたかよく覚えていませんが、かぼちゃかさつまいもを生のままかじったのを覚えています。
 
次の日に寄宿舎の先生に「手伝いに来い」と言われ、死体を焼いている川の近くまで行きました。「学生たちは材木だけ集めて来い。木だけ探して来い」と言われ、木を集めて、その死体焼き場に持っていったのを覚えています。
 
その夜、比治山の電車通りの比治山線を通って広島駅まで行き、広島駅から戸坂までは歩き、通っていた列車に乗りました。運賃は払う必要はなくて、高田郡の吉田口で降り、明楽寺に帰り着きました。母が私を見て無言で長い間、抱きついて泣いていたのを今でも思い出します。母に抱かれた時から、はじめて元の人間に帰ってきたような気がします。
 
【被爆の影響】
帰ってから3日か4日は、ものすごい下痢をして、母たちも心配しました。このような症状の人がたくさんいましたので。そして私も「これは危ないな」と一時は思いましたが、母、そして二人の姉が、いろいろ漢方薬を作り飲ませてくれました。他に薬は何もありませんでしたから、いろいろなものも食べさせてくれて、少しずつ元気になって、歩けるようになりました。
 
【終戦】
玉音放送を聴いて感じたことは、原爆を経験した私としては、「ああ戦争が終わってよかったな」と。ひどいことを見ているので「これでよかったな。けど、負けてしまったのは悲しいな」「どうなるのかな」「お父さん、どうなるのかな」ということを感じました。と同時に、母たちは「お兄ちゃんたちはどうしてるか」と話していました。ですからその時に感じたことは、父に対する気持ち、兄たちに対する気持ちとして、「戦争は終わってよかったな」ということを感じました。けれど泣きました。なぜ泣いたか知りませんけど、涙が出ました。
 
そして、父が帰ってきたのが、終戦後の11月、サンフランシスコから船で横浜に帰ってきました。
 
【米国へ帰国】
どちらにしても、私はアメリカ人です。二重国籍でしたので、いずれアメリカの方へ帰るつもりでした。それで、父に世話をしてもらいハワイのマウイ島ラハイナに帰りました。私たちの住んでいた、私の生まれたところです。ラハイナ・ルナという学校に3学期ぐらいいました。すると、ホノルルの日本語の放送局がアナウンサーを探しているというので、「まあとにかく志願してみようかな」と思って、ホノルルに移りました。
 
朝鮮戦争が始まるとハワイの若い人たちが招集され、たくさん行きました。私も「情報課の一員になるために日本語学校で習いなさい」と言われ、カリフォルニアのモントレーというところで習いました。日本語の分からない人にいろいろ教えて、英語と日本語の通訳をやるというような訓練で、実際に彼らと話をして、いろいろ教えておりました。
 
軍隊を終え、ハワイではなく、ロサンゼルスに住もうと思いました。航空機会社から電気会社、武器を造る会社などがロサンゼルスに固まっていたわけです。私は、ノースロップ・コーポレーションという会社で働きました。B2 bomber(ビーツ―ボンバー)という、一番新しい羽根型の爆撃機を造る会社で、そこで30年間働きました。
 
「言わざる、聞かざる」です。一緒に遊んでいる友達や会社で働いてる友達からも、原爆について聞かれたことはありませんでした。一部のほんとに親しい友達は知ってましたが、私から「被爆者だ」と言ったことはないです。別に聞かれたこともなかったです。なぜかというと、アメリカの人たちは、そういうことはあまり知らなかったんじゃないかと思うのです。
 
知らないことを聞くこともなく、ただ原爆が落とされたということは知っているけれど、アメリカのここに住んでる男が被爆者だということは、夢にも思っていなかったのではないのでしょうか。そして、心の奥深くで、用心していたのかも分かりません。
 
【米国在住被爆者の支援】 
1967年ごろ、コミッティ・オブ・アトミックボム・サバイバース、CABS。原爆被爆者協会を作りました。岡井巴(ともえ)さんが第1回の会長で、その時は50人ぐらいの集まりでした。彼女たちは「広島に行って、広島市長に医者を送ってくれるように頼んだ」と言っていました。
 
1977年に、初めて日本から医者が来て、ロサンゼルスにおいて、健康診断が行われるようになり、それがロサンゼルスの町の中のシティビューホスピタルというところで開かれました。第1回の1977年から始まり、1年おきに実施され、2017年に21回目がありました。
 
そして2017年10月に、広島、長崎から医師団が11人、広島県医師会から来てくれました。原爆症、原爆に関連する白血病やがんなど、そういった病気になっていない人も「私は被爆者であるから」ということが頭にあるので、精神的に不安な気持ちがあり、現在でも、健診を受けている人がたくさんいます。心配していることを広島から来た医者、被爆者をたくさん診てきた医者に聞くと、正しい情報やよい情報、多くの情報が私に伝わってくるわけです。
 
この健診は、精神的にもよく、専門の医者に会うことにより、正しい情報を日本語で聞くことができるというのが、多くの健診者の願いではないかと思います。そういった病気がやはり、一番心配なのですから。原爆関係のことは、アメリカの医者ではできません。しかも英語ですから、聞いている方も分からないこともありますし、日本語でしゃべってもアメリカの医者は分からないため、日本語は必要です。
 
1992年ごろ、南カリフォルニアのロサンゼルス地区の人たちとハワイの人たちがサンフランシスコのグループから分かれました。その時のロサンゼルスとハワイの会員の合計が385人、400人近くいて、南カリフォルニアに支部を作って独立し、ASA、米国広島・長崎原爆被爆者協会を作って被爆者を取り扱うようになりました。
 
2003年ごろから、私が会計秘書という仕事でほとんどの事務を取り扱っておりました。健診は一番大きなASAとしての仕事で、その他に被爆者手帳の取得手続きです。こちらには、たくさんの被爆者がいますが、手帳申請に書く書類に日本語や英語で書いたりすることが、おっくうで困ったりすることがあり、文書の書き方の相談などをよくやりました。そして、約30年前から、8月6日前後の日曜日に、ロサンゼルスの西本願寺か、リトル東京の高野山米国別院で、長崎と広島の原爆犠牲者の法要を行っています。
 
【そして、平和運動】
被爆体験を聴きたいといという学校、大学、コミュニティセンター、また小学校などへ、ASAの私たちが行き、被爆体験を証言し、核兵器のない世界のために講演をしています。
 
【伝えたいこと】
原爆がいかに無残で、赤ちゃんまで殺してしまう、実に無残なる兵器であるということを、被爆体験者として伝えることができるわけです。将来のある若い人たちに、特に問い掛けたいのです。「水爆、原爆を落とされた場合に、あなたたちはどうしますか」「もし自分の子どもが帰ってこなかった場合にどうしますか」親として、どんなことがあっても子どもを捜したい。そして、自分を犠牲にしてまで、親を捜したい、兄弟を捜したいと、人間は自分の愛する人たちを捜すに違いありません。互いに自分のこととして、将来起こるかも分からない自分たちの孫たちのこととして、私は話しているのです。「核兵器がいかに無残な兵器であるか」ということを、今、皆様にお伝えし、将来、このような兵器は使わないように、世界の平和のために大切なことですから、「今からやらなければ、あなたたちの孫、ひ孫はどうなるのですか」ということを私はお伝えしたいのです。
 
実に今は、難しい立場にあり、日本に住んでる日本人たち、アメリカに住んでいるアメリカ国民も、原爆、水爆というものを身近に感じるようになりました。国の防御のために、こういう兵器は必要なのかも知れません。その結果、いかに悪影響を及ぼすかということを言えるのは、被爆を経験した者が言えることだと思います。アメリカにしろ、日本にしろ、難しい立場にあることは、よくよく私も理解しています。けれども願わくば、核兵器なき世界を被爆者として望んでいます。
 

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