国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME証言映像をさがす(検索画面へ)証言映像を選ぶ(検索結果一覧へ)/証言映像を見る

証言映像を見る
平野 泉(ひらの いずみ)
性別 男性 被爆時年齢 16歳
収録年月日 2018年11月6日  収録時年齢 89歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:2.1km) 
被爆場所 広島市千田町三丁目[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校 一年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

平野泉さん。当時16歳。爆心地からおよそ2.1キロ離れた千田町三丁目の広島工業専門学校の教室で被爆しました。授業中、突然、大雨が降ってきたような音と火が渦を巻いてすーっと降りてくるのを見ました。けがを負いながらも倒壊した教室から脱出し、必死にみんなで級友を助け出しました。
 
家では、母と弟は無事でしたが、父はガラスが体に突き刺さり死亡。自宅の敷地に急ごしらえの小屋を作り、戦後しばらく過ごしました。父方の伯父を頼ってハワイへ渡り、様々な仕事を経験しながら高校を卒業しました。
 
平野さんは言います。「核爆弾」をもし使用することがあれば、「人は生きるか、死ぬか」どちらかしかない。そのことを認識すべきだと。
 
【被爆前の暮らし】
ハワイに親父が来る前は本家は牛田にありました。父は次男だったのでチャンスがないからハワイに来て一旗あげようという気分で来たのだと思います。初めは1人で来て、それから少しだけお金がたまった頃に日本に帰って結婚し、それから再びハワイに帰ってきて、その後僕たちが生まれました。
 
ハワイでも本当に田舎で、サトウキビ畑の中に10軒ぐらい家があり、それが一区画になっているくらいの敷地でした。初めは相当きつい暮らしだったようです。私たちが生まれる頃にようやく普通の家に住めるようになりました。でも水道はありませんでした。私が覚えているのは、トイレも共同トイレで、各家庭にはありませんでした。だから子どもがいる家は、便器に用を足してそれを捨てに行っていました。水道がないので、大きな樽(たる)に雨水をためていましたが、そのままにしておけば、虫が湧いたりするので、その樽の中でコイを飼っていました。相当大きな樽でした。その樽から水道のようにして出てくるようにしていました。ですから、今から考えると本当に考えられない状態でした。
 
一応は成功したから広島に帰ったと父は言うのですが、母は、ホームシックにかかって、もう帰らなくちゃいけないという理由で、帰ってきたのだと言っていました。父と母と弟と私の4人で暮らしていました。姉はもう結婚して白島の方に行っていました。日本に帰った時は牛田の二重土手の近くに1年ぐらい住んでいて、その後、三篠へ家を建てて移りました。三篠に家を建て移った時には隣組は他に、家が1軒だけあって、あとは全て畑でした。うちの家の裏側に鶏を2000羽ぐらい飼っていました。そして畑を借りて、ないものはないぐらいに野菜を作ってました。
 
広島第一中学校に行きました。中学の3年の時に私たちの2つの組は消防署に動員されて、西消防署に1年ぐらい動員されました。その後、今度は東洋工業でほかのクラスの人たちと一緒に働きました。ですから中学の3年、4年からは、ほとんど勉強はしていませんでした。
 
7月の終わりごろまで東洋工業に行っていて、1週間ぐらい前に動員を解除されました。そして全員寮に入り、寮から学校に電車通学をしていました。広島駅から電車に乗り、広島電鉄本社の前に工業専門学校があったので、そこで降りて行きました。その頃はもう、土曜、日曜はなく、勉強でした。本当ならば4月から新学期ですが、7月の終わりまで東洋工業で働いて、8月1日から動員を解除されて機械科の100人ほどだけが学校に戻りました。全寮制で、広島駅の近くの寮に入って、工業専門学校に通っていました。
 
【8月6日】
警戒警報が解除されて、比治山の方から電車で回り、それから学校に行って、ようやく学校の始業時間に間に合いました。教室でちょっと15分ぐらいした時に原爆に遭ったわけです。当時、みんなでピカドンと、原爆のことを話していましたが、そのピカもなくドンもありませんでした。大雨が降るような音がして、北側の窓を見ると火が渦を巻いて、カーテンがすーっと降りてくるように見えました。当時、海軍の研究班が学校の校舎の一部を借りて何か実験をしていました。だからその時は、それを見た瞬間に、実験していて何か失敗をして、その火が出たのだろうと思いました。
 
教室から出るために机から立ったことは覚えています。次に覚えていることは教壇の所に倒れていたことです。四方は全然見えませんでした。真っ白でした。天井の方を見ると、上から梁(はり)や屋根などが落ちてくるのを見て、もし頭に当たっていたら、自分はどうなるんだろうか、痛いだろうか、死ぬんじゃないか、もしここで死んだら、家族が自分を見つけることができるだろうかというもことが、走馬灯のように走りました。その瞬間というものは、ほんのわずかだったと思います。
 
一応、そういったものが落ちるのが止まった瞬間に飛び起きて、2階から階段を降りて外へ出ました。階段を降りる時に、顔に生ぬるいものが流れてくるのが分かって、どこかけがをしたのだと思いました。痛くもなんともなく、ただ生ぬるいものが、顔を伝って降りてきました。
 
校舎から1番近い門から外に出て、そして塀を伝って運動場の方に戻ってきました。そこには生徒が15、6人ぐらいほどいました。校舎から出て集まった者は100人中の15、6人しかいませんでした。その後、校舎に入って行ってみんなを助け出しました。その前に、私も血が流れていたので、みんながどこをけがしているのかを見ながら、自分の手ぬぐい1つでこう縛りました。まだ血が出るので、今度は友達の手ぬぐいをもらって、鉢巻きのようにして縛りました。痛くもなんともありませんでした。確か級友を助けるために中に入って助けたと思いますが。次に気がついた時には、校庭の中の木陰に座って、みんなが助けているところを見ていました。死んだ生徒はいませんでした。けがをした生徒は相当いました。
 
電車道に出て、広島の中心地の方を見てびっくりしました。というのは、家はほとんど崩れてなくなり、本当に遠くの方まで見えました。家が焼けた形跡もなく、ただ、火がちょろちょろ見えるぐらいで、全て平らの状態になっていました。その道を被爆した人が両腕を肩の方まで上げて歩いて、ゆっくりゆっくり歩いて来ていました。それを見てまたびっくりしたことは、頭の髪は全部焼けて顔は真っ黒。そして裸で、ほとんど服などはなくなっていました。腕には薄いプラスチックのようなものが下がっていました。何だろうかと思ってよく見ると、焼けただれた皮膚がこの腕に絡まって、それをぶら下げているのです。どうして手を前に上げて、みんな歩いているのだろうかと思いました。後で分かりましたが、この位置が一番痛みが少ないのだそうです。それをしばらく見ていると、私の前を被爆者が通って、疲れたと言って、歩道の方へ座りました。次に見るともうそこで死んでいました。座ったままで死んでいるのです。
 
私の家は中心地を挟んで反対側の三篠にありました。だから反対側へ回って帰ろうと思い、御幸橋の方へ歩いて行きました。橋の真ん中頃まで来た時に、軍隊のトラックが僕の横に止まって、荷台に乗れと言いました。どこに行くのか尋ねると、広島第一陸軍病院へ行くと言いました。陸軍病院は三篠橋のたもとにあったので、家に帰るにはすぐ近くなので、これは好都合だと思いました。
 
どうして私のところに止まって、トラックに乗れと言われたのか、分かりませんでした。どうしてそういうことを言ったのか。後で考えてみると、2つの手ぬぐいが真っ赤に染まり、相当の重症に見えたからでした。そしてそのトラックに乗りました。すると女の子が下から自分だけでは上がれないから、助けてと言いました。何気なしに腕を持って上げようとしたら、やけどした肌がずるっと剥げて、どうにもなりませんでした。やけどしていないところはどこなのか少し考えて、脇の下は大丈夫だろうと思いトラックから降りて、後ろから脇の下へ手を入れて、そしてその子を上に上げてあげました。
 
そして街の中心地が通れないので、今度は皆実町の方まで行って、比治山の方へ向かって行きました。そしたら、比治山の入り口辺りで両方の家がぼんぼん燃えていたので、そこでトラックが方向を変えました。どこに行くのか尋ねると、また宇品に帰ると言うのです。あーこれではいけないと思ってトラックから飛び降りて、比治山の後ろ側を通って広島駅の方へ出ました。その間にほとんど人はおらず、出会いませんでした。もうみんなどこかに避難したのでしょう。初めて人を見たのは、広島駅の今の新幹線の駅の前にあった東練兵場で、そこを通って中山の方へ行きました。母の里が上深川でしたので、そこへ行くともう決めて行きました。中山の峠の上の方で、そこの民家で炊き出しのむすびを食べさせてもらい、休ませてもらいました。上深川に着いたのは夕方の5時ごろでした。その頃、もし被害にあった場合には第一集合場所、第二集合場所、そして最後が上深川に避難することに家族で決めていました。そして、ひと晩上深川にいましたが、家族が誰も来ないので、明くる日、また広島へ歩いて出てました。
 
紙屋町左官町の間で電車が焼けていたところを通りました。そして馬車馬が死んでいて、体がものすごく膨らんでいました。まだ馬車がついたままで死んでいました。母親が赤ん坊を抱いて死んでいるのも見ました。友達の家が近くにあったので、路地に入ってみると、頭だけが道の真ん中に転がっていました。それはもう焼けてしまっていて、外から見ると本当に作った骸骨のようでしたが、中はまだ真っ赤な火で燃えていて、目の穴や耳、そして口を見ると火が見えましたがほんとに、作った頭骸骨のようでした。どうして頭だけがそこにあったのかは分かりませんが、本当にもう、なんと言ったらよいのか、本当にショックでした。
 
【家族との再会】
家の焼け跡に帰りました。そこにちょうど近所の人がいたので、うちの家族はどうだったのか聞いてみても、何も言いませんでした。その瞬間にもう、誰かが死んでるなと思いました。ですが、その人が言うには竹やぶの中の方にいるということなので、そこに行って、すぐ捜しました。そうすると、弟と母の姿は見えましたが、父は見当たりませんでした。母が「もうお父さんは死んでしまったけど、きれいな顔のままだから」と言いました。みんなやけどして全然面影がないということではなく、ほんとにきれいな顔で死んでいました。
 
父は病気で、病院に行くには時間がまだ早いからというので座敷で寝ていました。ピカッと光った瞬間に、本人は防空ごうに行きましたが、家族が出て来ないので、また家の中に戻りました。みんなが家の中で集まって、父が「みんな大丈夫か」と言って倒れたらしいのです。その時に母が父を見ると、胸から血がどくどく出ていて、もう泡が出ていたと言います。ガラスが肺に入って相当切ったようです。3日目に、大芝公園で弟と母が2人で父を火葬しました。私だけが家の焼け跡に残って、掘っ立て小屋を作りました。そして4日目にはそのお骨を墓に入れるために、紙屋町の銀行の裏側にあるお寺に持っていって墓の中に入れました。
 
普通に立って入れるような家を作った時に、初めて気が抜けて、何をする気もなくなりました。でもどうしてもしなくてはいけないことはやりました。母は生きていても女性なので、家を建てるにしてもなにをするにしても自分が1人でやらなくてはいけませんでした。16歳の少年がよくやったと今では思っています。
 
【被爆の影響】
弟は、もう1週間もしないうちに、広島第一中学校の焼け跡に手伝いに行っていました。弟の中学校の1年生が全員焼け死んでいるのです。その骨を捜すときは名簿を見ながら捜しました。当時、座っていた位置が全て分かったので、座っていた位置でその骨が誰なのか名前を全て捜して記録したそうです。
 
8月の終わりごろに、みんなが下痢をしました。そして、うちは母も私も下痢をしませんでしたが、弟が下痢をしました。その後、今度は髪の毛がたくさん抜けました。たくさんの人の髪の毛が抜け始めました。そうなると、毎朝起きて、1番初めに何するかというと、鏡を見て髪を引っ張ってみるのです。髪が抜けなかったら、今日も大丈夫だと毎日確認して、1日1日が大丈夫であるか、明日が最期かも分からないと心配するのです。
 
しばらくすると今度は、皮膚に赤い斑点が出てきます。その斑点が出てくるのは、白血病の症状で、もう生きられるチャンスはないわけです。もう死ぬ覚悟をしなくてはいけませんでした。
 
1年か2年ほどたって、朝、顔を洗っていると何かが顔に引っかかりました。その頃は18歳ぐらいだったのでニキビができたのだと思っていましたが、よく見るとそうではなくて、ガラスの破片が飛び出していたのです。それを抜こうとすると中の方が大きくて、抜けませんでした。だから用心して顔を洗って、自然に出てくるまで待たなくてはいけませんでした。それが1年から2年ぐらい続きました。
 
【戦後、ハワイへ】
父が以前いた、ハワイのヒロという所に父の友達がいて、女手で2人の男の子を育てると言ったら大変だから、もし働く気があったら、来ないかと言ってくれました。その頃、工業専門学校の卒業が間近だったので、これは良いチャンスだと思いました。ハワイといったら天国だとみんな思っていましたから。
 
船だと1週間かかりました。それで、叔父の家に住まわせてもらいました。そうすると、空洞があるほどの肺病が分かりました。ハワイでは、そういった肺病の者は全員、病院で治療を受けさせられました。費用は全て無料でもう強制的に入院させられました。私が入院した時には、ちょうどストレプトマイシン(抗生物質)という新しい薬が出ていて、それを4か月打つと、その空洞も何もなくなり、医者もびっくりするほど早く治りました。
 
その頃に朝鮮戦争がありました。私は肺病をしたので徴兵されませんでした。その頃はちょうど、米軍が朝鮮半島からほどんど追い出されるような状況で、一番負けている頃だったのです。ですからもしその時に徴兵されていたら、私は死んでいたかも分かりません。
 
そして母がいつハワイに来られるのか分からないので、今度は姉の子どもも大きくなるから早く来させようと言って、男の子と女の子の2人を呼びました。そうするとその年の暮れに、母の入国許可が下りたので、姉と姉の子2人そして母と弟の5人が一緒に住んでいました。
 
【日系人社会―ハワイ】
日本人はマイノリティ(社会的少数者)ではありません。少数民族ではなく、どっちかというと多数民族の方に入っていますから、みんな遠慮します。原爆のことを言うと、今度は向こうがパールハーバーはどうしてやったかということを反ばくしてきます。それでもいろいろな議論をして、差別などはありません。米本土の方では、医療保険、生命保険、といったものに全然入れてくれないのだそうです。ハワイですとそういうことは全然ありません。
 
原爆展もお寺や教会などで結構開催しています。そして、結構議論します。どちらかというと恵まれていて、日本のように難しくはありません。肺病なんかも強制的に病院に入れられるし、それで出てきたら、学校に行きなさいとか、それからどうしなさいといってお世話してくれます。働けるようになったら、職も世話してくれました。
 
【ヒロシマ・ナガサキの責務】
核爆弾は恐ろしいと思っています。というのは、今の核は広島の何倍も威力があります。もしハワイに核爆弾を落とした場合には、ここは全滅すると思います。その時に死ぬか、生き残って放射能に汚染されるのかの選択は2つしかありません。原爆の使用をやめるか、やめないか、自分たちが生きるか死ぬかのどちらかを選びなさいと。
 
日本がリーダーシップをとってやらなくてはダメだと思います。というのは原爆の被害をこうむった広島と長崎が主になってやらないといけません。ほかの所は体験がないのですから運動していかなくてはいけないと思います。どういうチャンスがあるかも分かりません。今後、平和な考えの持ち主が現れてくるかも分からない。ただそれを望むだけです。

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの証言映像をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針