据石和さん、当時18歳。爆心地から2キロメートルの南観音町で被爆しました。挺身隊員だった据石さんは、あの日偶然仕事を休み、自宅の前で爆風を受けました。戦後アメリカに渡った据石さんは、原爆投下に心を痛めているアメリカ人も少なくないということを知りました。それ以来、在米被爆者運動の中心的人物として、自らの被爆体験を語り、平和を訴え続けています。
私はちょうど挺身隊に入った年でした。数日前から微熱が出たので医者から自宅で静養していいという許可をもらいました。当時は、お手伝いさんも徴用に出ていたので、朝食の後片付けは私の役目になっていました。
天気がいい日で、庭に水をやるようにと母に言われたので戸を開けると、幼友達のアサちゃんがいたので、おしゃべりをはじめました。アメリカのB29が飛んできましたが、今までほとんど爆弾を落とされたことがなかったので、偵察にきただけだと油断していました。あの日は素晴らしいブルースカイの空で、そこに銀色のB29が飛ぶ様子は、敵国の飛行機だといっても、私には銀色の天使というイメージでした。
その日いつもと違ったのは飛行機が去った後、白い斑点が見えたことでした。ちょうど今の原爆ドームの辺りだったのでしょう。それが、まさか原子爆弾だとは思わず、「今日は変ね。空に何か一つ残っているよ」と指さしていると、2秒ぐらいして強烈な光線を浴びて、無意識に両手で身を守りました。無意識に目と耳を押さえ、地面に伏せ、向かいのうちの軒下のほうへ向かって、飛び込むような状態で意識を失ったらしいです。
気がついて起き上がろうとしたら、何か重みがあって起き上がれませんでした。向かいの軒などが全部私の体にふさがっていましたが、なんとかまた道の真ん中に出ることができました。1分前は、当時の私のイメージを色で表わすと、素晴らしいブルーでした。それが一瞬にして灰色になりました。そして最初は天国のようだったのに、一瞬にして地獄という不気味な状態になりました。
音も何もせず、夢遊病者みたいにショックを受けた状態で立っていました。一番最初に「助けてー」という声が聞こえました。近所の若いお母さんが、小さな赤ちゃんを抱いて道に出ていました。赤ちゃんは血で真っ赤になり、お母さんの顔も真っ赤になって助けを求めていました。
父が「やられた」と言って、血だらけになって走って帰ってきました。ヤケドをしていることには気がつきませんでした。みんなショック状態でした。母も髪をといてまとめていましたが、その髪も今の若者のパンクヘアの様に逆立ち、色もグレーになってお化けのようになっていました。
みな、自分のところに小さな爆弾が落ちたのだと思っていました。父も、まさかたった一発の爆弾で、市全域がやられるとは思ってもいませんでした。家もやられ、父も私も母もケガをしていましたが、痛さを感じませんでした。でもやられているのは間違いなく、緊急ということで、本家に助けを求めに行くように言われました。家もガタガタになっていましたが、かろうじて玄関に下げていた救急袋を取り出し肩にかけて、市内の中心地へ向かいました。
私だけが他の人とは反対方向へ向かっていました。だから私は看護婦さんと間違われ、倒れて動けない人に「看護婦さん、助けてください」と言われました。よく見るとやかんを持って倒れたままの状態でした。貴重品などではなく、やかんや一升瓶のようなものが傍らに置いてありました。「助けてくれ」と言われても、どうしていいやらわからず、ただ、やかんの中の水を口に含み、倒れている人に吹きかけました。すると意識が戻って、手を合わせて「ありがとうございました」と言われました。ただ、水を吹きかけただけです。
小学校の同級生だった人の妹さんが、ほぼ全裸の状態で、胸の下のところが野球の球ぐらいの大きさにえぐり取られていました。血が流れているのではなく、ピンク状態になっていました。その子も夢遊病者のように、ゆっくり歩いていました。「お姉ちゃんたちはどうしてる?」と聞くと、「わからない」と答えました。私が持っていた救急袋を開けてみると、綿と消毒液、三角巾などが入っていました。綿に消毒液を含ませて、その子の手で傷口を抑えて、「このまま押さえて逃げなさい」と言いました。それから先に進もうとしましたが、火が迫ってきて、進めませんでした。
自分のうちに帰りはじめましたが、黒い雨が降ってきました。時間は覚えていません。白っぽいブラウスにグレーがかったしみができました。ガソリンをまいて火をつけるんじゃないかと、みなパニック状態になりました。
そのうち夕方になりました。私たちは寝る場所もありませんでした。父はもう立てない状態になっていました。弟が帰ってきたのですが、学校で被爆したらしく、建物の下敷きになり、友達が連れて帰ってくれました。途中で緊急手当てを受けたらしく、頭はターバンのように巻いてもらい、手をつってもらっていました。長袖のワイシャツが、乾いた血でチョコレート色になっていました。パキスタンかどこかの人の様な感じでした。だけど、そのプロポーションで弟だとわかりました。
彼の近くにいたら、彼の血の臭いで気分が悪くなるほどでした。弟自身もその臭いに耐えられず、香水を持ってきてほしいと言いました。香水をふれば臭いがきえるのではないかと思って・・・。しかし、自宅は完全に入れない状態でした。すると、近くのおじさんが、ワインを1本くださいました。それを弟に振りかけてやったのを覚えています。
日が暮れかけて、向かいの家の軒下に畳を2枚敷いて父を寝かせ、母が付き添いました。私は弟を連れて教室に避難しました。2つの教室が1部屋になって、家族と一緒に病人が寝ていました。そして1人に1枚畳がもらえ、それをもって教室の一番隅に行きました。物置から出てきたキャンプ用の折りたたみのベッドに弟を寝かせましたが、私は寝られませんでした。弟はいつ脈がとまるかわからない状態なので私は眠れず、片手で弟の脈を確認しながら、本棚にあった本を、窓の向こう側の死体を焼いている明かりで読みました。
時計を持っているのは私1人だったので、私は夜に名前を呼ばれ、時間を聞かれました。看護している病人が亡くなっていくからでした。
その後、私は1年ががりでやっと健康になりました。戦後4年目に初めてファッションの勉強をしにアメリカに渡りました。アメリカでは、被爆や原爆ということを聞かないので、自分自身が完全に忘れていました。新しい友達もできて、楽しんでいました。ホームシックにもかかりましたが、違った世界で一生懸命勉強していました。
ある日学校に行く時、すごく紳士な50代の白人の方が、私の2メートル前でぱっと止まり、目の前で「ユー キル メニ ソルジャー アット パールハーバー」と言いました。私は、それがわかっても、答えるだけの英語力はなく、原爆や被爆者という単語も知りませんでした。身振り手振りを交え、あなたを私は憎みませんという気持ちを、なんとか伝えようとしました。それが伝わったかどうかわかりませんが、白人の方は黙って去っていきました。
その晩から原爆が落ちた当時のことが、よみがえってきて寝られず、ノイローゼ状態で体力が弱り、体中あざができました。大きな紫色のあざが出きて、ノースリーブの服を着たくても、長袖を着なくてはならない状態でした。しまいには体中がおできのようにぶつぶつだらけになりました。医者に行きましたが、当時は原爆とか被爆とかいう問題が広まっていないときだから、医者も放射能による病気という認識はありませんでした。だから医者からは、「ホームシックなので日本に帰りなさい」と言われました。実際ホームシックもありましたが、単なるホームシックではないことは素人の私にもわかりました。ホームシックで体にあざやおできが出来たり、体重がどんどん減っていくことはあり得ません。せっかくアメリカまで来たのに、中途半端でホームシックになって帰るのは嫌だと思い、意地で頑張っているうちに、1カ月くらいしたら体力が戻りました。
ファッションの勉強を続けていると、洋服関係の社長のお宅などに招かれるようになりました。そこで出身を聞かれ、「広島です」と言うと、「広島。じゃアトミックボムが落ちたところか」と言われるようになりました。「あのときどうしたのか」と聞かれるので、約2キロメートルのところで被爆したことを話しました。するとおわびの言葉を言われ、こちらが辛くなりました。その人がやったわけじゃないし、私や市民を苦しめたのではないのだから。それから、お食事の前のお祈りの時、あの原爆で苦しい思いをして助かった私のために、今後の健康と、そして二度とそんなことのないように、神様お守りくださいませと祈ってくださいました。それを見て、アメリカの人々は話せばわかってくれると初めて知りました。
今日も平和公園の方へ来ると、5,6年生か中学1年生ぐらいの子どもがたくさん来ていました。他県から来たのか尋ねると、そうだと言っていました。一度でも若い世代の人たちが来て、ここを見て、戦争は嫌だと思ってくれる、それだけでいいのです。
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