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宮川 千惠子(みやがわ ちえこ)
性別 女性 被爆時年齢 11歳
収録年月日 2019年10月2日  収録時年齢 85歳 
被爆地 広島(入市被爆) 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 八幡国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

宮川千惠子さん。当時11歳。
舟入国民学校5年生だった宮川さんは1945年、疎開先の八幡国民学校に転校しました。8月6日は、学校のみんなで山へ木を切りに行く日でした。宮川さんは膝にけがをしていたため同級生と2人が教室に残り、読書をしていました。
 
8時15分、B29が頭上を通り過ぎた瞬間、ピカッと光りました。翼に太陽が反射した光かなと思いましたが、その後、「ドーン」というもの凄い音と共にガラスが割れ、友達と2人で運動場の向こうにある防空ごうに避難しました。
 
会社員だった父は、己斐駅で電車を待っている時に被爆しました。その後、さまざまな症状に悩まされ、3年後に亡くなりました。世界のリーダーが広島・長崎を訪れて核兵器廃絶への理解を深めてほしいと語ります。
 
【当時の暮らし】
私は舟入国民学校の5年生でした。昭和20年から3年生以上は学童疎開をするようになりました。私はみんなよりひと月ぐらい遅れて、五日市の奥の八幡村の八幡国民学校へ転校しました。
 
父は会社員で体格のいい人でした。母は若いときからお嬢さん育ちだったので体が弱かったです。父と母は11歳も離れていたので、父は母を大事にしていました。母と私の2人が八幡村へ疎開しました。長男の兄は大学生で北海道にいました。
 
3月ごろ、まだ私が疎開する前に急に家に帰って来て、いいなずけの女性と結婚式を挙げました。1週間ぐらい広島にいて、慌ただしく出征して行きました。自宅の2階に親戚だけが集まり、電球には黒い傘をかぶせて、結婚式をしたのを覚えています。
 
私のすぐ上の兄は16歳で、舟入幸町の自宅に父と住んでいました。私と母は疎開先の農家の納屋の端に6畳ぐらいの畳を敷いた部屋で暮らしていました。たんす1本と、鍋、釜、茶わんなどを家から持って行きました。6畳ぐらいなので、父や兄が来て泊まると部屋がいっぱいになりました。私は田舎が物珍しくて、あまり悲壮感はなかったです。
 
【8月6日】
8月6日は天気のいい朝でした。その朝、父と兄は広島に帰って行きました。一晩だったのか、何日か泊まったのかはよく覚えていません。当時は自宅を留守にすることは違反でした。焼夷(い)弾が落ちたときにすぐ消火するため、留守にしてはいけなかったようです。だから内緒で日曜日だけ来ていたのだと思います。あとから聞くと、8月5日は日曜日でした。
 
私は田舎の八幡国民学校に通っていました。夏休みはありませんでした。朝学校へ行くと5、6年生は山や畑で作業することになっていました。私は5年生だったので行かなくてはいけなかったのですが、膝の傷が化膿(のう)していたので作業を休みました。もう一人休んだ女の子と2人で教室に残って、一番窓際で本を読んでいました。
 
8時15分に原爆を落としたB29が八幡村の上空を通って行きました。ピカッと光り、飛行機の音を感じていました。田舎で何もないはずなのに、鏡で太陽光をキラキラさせていたずらをするように、ピカッと光りました。もう1人の女の子が「何」と聞いたので、「飛行機の翼が太陽の光を反射して、当たったのよ」と私は答えました。
 
今思えば、ちょっと考えられない話ですが、そう言った途端に、「ドーン」と音がしました。ガラスがめちゃめちゃに割れて机の上に飛び散りました。気付くと2人は教室の後ろにいました。まだ廊下のガラスがガチャガチャと割れ落ちていました。危ないと思って、私はその子を抱きしめていました。
 
静かになってから、2人は慌てて運動場の向こうの防空ごうへ走って行きました。私たちの前にガラスが落ちていなかったので、窓が開いているところに座っていたのだと思います。教室で音楽の授業をしていた1、2年生は、割れたガラスでけがをしている子もいました。
 
上級生の5、6年生は作業に出ていたので、防空ごうの中は、けがをした1、2年生と、私と友達の2人でした。その時、その友達がどうしていたかは覚えていません。いつも子どもはみんな、ハンカチ、ちり紙、名札を持たされていました。私は持っているもので血を拭いてあげたり、泣いている子をよしよしとなでたりしました。
 
後から聞くと、先生がけがをした子だけをお医者さんに連れて行ったそうです。しばらくして家に帰ろうと校門を出たところで、迎えに来た母に出会いました。原爆が落ちたとき、母は友達と外で立って話していたそうです。だから母は、初めに核分裂するギロギロの7色の火の塊と、それが膨れ上がって、きのこ雲になって上っていくのを見たそうです。帰り道に母はそのことを私に一気に話してくれました。
 
母が家に帰ると電球の傘が吹っ飛んでいました。障子紙がぶわっと破れて、障子の骨まで折れていました。外に立て掛けていたすだれが家の中に飛び込んでいました。相当な爆風が来たのだと思います。家がそんなことになっていたので、母はびっくりしました。
 
そのうちに学校の子どもたちが大変だという話を聞いて、私のことを思い出して、慌てて私を迎えに来たらしいです。黒い雨に遭っています。時間は覚えていませんが、家に帰ると雨が降りました。それが黒い雨だと思います。黒い空からごみがパラパラ、パラパラと落ちて来ました。ほこりやかなり大きなノートの切れ端みたいなものが飛んで来ました。
 
父と兄が広島に行っていたのが心配で、そのごみを畑の中を走り回って拾い集めました。住所か何か書いてあれば、広島のどこがやられたのか分かると思いました。それを母に見せました。結局、どこがやられたのか分からないままでした。そのうち村の誰かが広島の近くまで行ったらしく、「広島は一歩も入れない」と聞いてすごく心配しながら、私はとにかくごみを拾っていました。
 
【父と兄の被爆】
夕方になって父が帰って来ました。父は朝、家を出て己斐の駅に着いて、市内電車を待っていました。3人前までの人が乗ったところで電車が出て行ったので、次の電車を3番目で待っていました。晴れあがった青い空に白い3つの落下傘を見つけて、なんだろうと思いながら見上げていました。顔や胸や手にやけどをして帰って来ました。前の電車に乗っていたら即死でしたので、父は運よく命拾いをしました。
 
己斐の駅は建物が崩れ、火も出たそうです。下敷きになっている人たちをみんなで助け合い、弱っている人を励ましたと、父から聞きました。夕方4時か5時ごろ村に着くと、父はすぐに病院に寄りました。村で最初のけが人だったようで、お医者さんから手厚い治療を受けました。べたべた白い薬を塗ってもらいました。
 
私の記憶では、顔にきれを貼って、鼻の上に包帯が巻いてあったような気がします。それを見て私は、父の鼻が取れたのかと思いながら近づいて行ったことを覚えています。包帯だらけで帰って来た父から広島の様子を聞くため、村の人たちがたくさん集まって来ました。父はとても興奮していて、「広島は全滅だ」と説明をしていました。
 
「自分もすぐ息子を捜しに行く」と言いました。私たちはすごい傷をしていると思ったのですが、「この程度の傷は傷のうちに入らない」と父は言いました。「息子は死んでいるかもしれないから、すぐ捜しに行きたい」と言いました。広島は捜せる状態ではなかったと思います。
 
夜暗くなって、8時か9時ごろに兄が帰って来ました。兄は朝出て行ってから、広島の中心地を通り抜け、学徒動員で兵器廠(しょう)に向かっていました。兵器廠(しょう)へ行く途中の道で、後ろからの熱い爆風に飛ばされました。伏せたところに上から建物が落ちてきました。ちょっと気を失った後、気が付いて、自力でがれきの下から抜け出しました。
 
全身を打撲していましたが、周りの人は大やけどをしているのに、なぜ自分だけはやけどをしてないのか不思議でした。その場所に後から行ってみると、ちょうどカーブした土塀があって、その陰を歩いていたようです。偶然に土塀の陰を歩いていて助かったわけです。みんなで近くの比治山に逃げて行ったそうです。
 
比治山で友達と出会いました。兵器廠(しょう)は比治山の裏のほうにありました。比治山から燃える広島市内をお昼ごろまで眺めていたそうです。それから渡れる橋を探しながら帰ってきました。途中で全身をやけどした、誰だか分からないような人に声を掛けられました。友達でした。友達を戸板に乗せて、4つ角を4人の友達で担いで広島市を横切って歩いたそうです。
 
多くの人が倒れている人の中を歩いた時、「兵隊さん、助けてくれ」と足をつかまれましたが、なにもできないので、仕方なく振り払って来たと言っていました。救済のトラックが来たので重傷の友達を預けて、兄は八幡村へ帰って来ました。最寄りの駅に自転車を置いていたのか、田舎道を遠くから自転車でリンリンと音を鳴らして帰って来ました。その日のうちに帰って来たことがわが家にとっては幸運でした。帰って来ていなかったら父は兄を捜しに行って、二次被害にあったと思います。
 
【被爆の影響・被害】
「赤痢のような激しい下痢に苦しんだよ」と兄が言っていたので、下痢をしていたのだと思います。私も熱を出しました。家族みんな具合が悪くなっていました。私も兄と同じように、おなかを壊したのだと思いました。その時は被爆の放射能が原因の下痢だとは誰も知りませんでした。
 
4人で寝ていると、やけどの臭いが臭かったのを覚えています。翌日から父の顔がどんどん腫れました。目も口もわずかしか開きませんでした。スプーンで口の横から重湯を入れたり、うちわであおいだりして看病しました。それで父にはハエがたかりませんでしたが、身寄りのない人たちの傷にはハエがたかって、ウジ虫が湧きました。
 
お医者さんが「毎日ガーゼを取り換えても、下にウジ虫が湧いてくる」と愚痴をこぼしていたのを母は聞いたそうです。ウジ虫はハエが原因なので、小学校の生徒はハエたたきで100匹も200匹もハエを捕って学校へ持って行きました。
 
広島の人に草団子を配るという話を聞いて、道ばたの草を採って集め、学校へ持って行ったりしました。翌日からはやけどで黒く焼けただれた皮膚をぶら下げた人たちや、顔がスイカのようにまん丸に腫れあがって、元の顔が誰か分からないような人がどんどん村にやって来ました。
 
そんな人たちは、学校の教室や、お寺や農家の座敷を借りていました。医者の周りには診察を受けるために、たくさんの人が集まっていました。みんなが集まってこんなに人口が増えると、またここに爆弾を落とされるかもしれないと子ども心に心配しました。それは子どもにとって怖いことだったので、私は何日も眠れないで苦しんだ記憶があります。
 
【焼けた舟入幸町の家へ】
終戦になって、家がどうなっているのか確かめるために母と2人で見に行きました。2人だったので、まだ父も兄も調子が悪く、起きていなかったのだと思います。舟入幸町一帯は丸焼けでした。焼け跡へ行って見ると、皿や食器が焼けてくっついていました。持って帰れるものはなにもありませんでした。
 
私はどうやって行ったのか覚えていません。焼け跡の場面だけが記憶にあります。広い家だと思っていたのですが、家の焼け跡を見て狭いなと思ったのを覚えています。電線がやたらとむちゃくちゃになっていたような記憶があります。
 
【父の死】
父の傷がどれくらいで治ったのか記憶はないのですが、一時的に元気になりました。家は焼けたので、呉線の真ん中辺の坂町小屋浦の集合住宅へ移り住みました。12月のお正月休みに転校しました。一時、父は元気にしていましたが、いつの間にか半年余り寝付いていました。
 
父が亡くなった日のことだけが印象に残っています。朝、下血しました。おなかが痛いということで医者を呼びに行きました。医者は痛み止めか、強心剤か、いろいろな注射をしました。今のようにいろんな検査もレントゲンもないので、おなかが破れて下血したと子ども心に思いました。父はその日の翌日の明け方に息を引き取りました。家族みんながそろって父を見送りました。被爆からちょうど3年後の9月5日に亡くなりました。
 
その時の詳しいことを話すと、私は泣いてしまいます。みんな父の周りで、手を取って泣いていました。父は最期に、「泣くな、泣くな」と言いました。「強く生きてくれ」ということだったのだろうと思います。
 
【戦後の学生生活】
私の代が、6・3・3制の第1回目の中学生でした。中学ができることをいつ知ったのか覚えていませんが、当時は県女(県立広島第一高等女学校)を目指して勉強していました。住んでいた坂町には中学がないので、お寺で勉強すると聞いていました。広島市内も校舎が建っている学校はほとんどありませんでした。
 
広島女学院が案外早く校舎ができるだろうと父が考えて、私を広島女学院へ入学させました。広島女学院もまだ中学、高校の建物はありませんでした。牛田の山にあった広島女学院専門学校の教室を中学、高校、専門学校が交代で使いました。何カ月かそこに通いましたが、これもよく覚えていません。中学1年生のうちに流川に新しく校舎が建って、そこを卒業しました。
 
神戸女子薬科大学に入学しました。伊丹にあった母の妹である叔母の家に下宿して、阪急神戸線の岡本にある大学へ通いました。卒業して広島に帰り、広島大学病院で働きました。愛宕町の叔母の家から通いました。3年間勤めた後、今の夫とお見合いをして結婚しました。結婚する前には、私と夫の被爆の状態が同じ程度だと調べて、結婚しました。
 
【生き残った者の苦しみ】
私は結婚してから知ったことがあります。それは建物疎開作業で広島の中学校、女学校の1、2年生が駆り出されて、6,295人が一度に焼き殺されました。私のすぐ上の兄の妻は、女学校2年生でした。当然、亡くなるはずでしたが、ちょうど体調を崩して休んだので命拾いをしました。兄嫁のクラスは676人が亡くなり、十数人が生き残りました。生き残った人たちは運がよかったと思うどころか、生きていることに計り知れない苦しみがあります。
 
8月6日の平和記念式典には、日が暮れて誰もいなくなってから、先生や生徒の碑にお参りに行っていたそうです。私の夫は中学2年生でしたが、夫の学校だけが建物疎開の作業に参加していませんでした。それで生き延びた夫は、生きていることを苦しみました。当時は自分の学校の帽子をかぶって町を歩くのが嫌でたまらなかったと話します。
 
そういう話を語り部として中学2年の生徒たちに話しました。「皆さんと同じ年頃の生徒は、広島にはほとんどいなくなったんですよ」と話すと、やはり真剣に聞いてくれました。
 
【平和への願い】
核兵器廃絶の日を私は見られないと思います。核兵器禁止条約に32カ国が批准してくれたという話を聞きました。世界のリーダーが、広島、長崎を見に来れば、必ず考えが変わると思います。こんなばかなことは考えないと思います。核兵器を作った人が後悔して亡くなったのに、なぜまだ研究開発しているのか、悔しくて仕方がありません。
 
世界のあちこちで内戦や戦争があります。どうやったら平和になるのかと考えます。私の力では至りませんが、被爆証言をずっと話し伝えていけば、いつかは平和な世界がくるのではないかと希望しています。

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