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ハワード 弘 蠣田(はわーど ひろし かきた)
性別 男性 被爆時年齢 7歳
収録年月日 2019年10月28日  収録時年齢 81歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:1.3km) 
被爆場所 横川町一丁目 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 三篠国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

ハワード・弘・蠣田さん。当時7歳。爆心地から約1.3キロ離れた横川町一丁目の自宅で被爆しました。
 
日系人2世だった、父、フランク弘二さんは、同じ2世の母、登子さんとともに、アメリカのイースト・ロサンゼルスで家電用品店を経営していました。しかし祖父、ヤエゾウさんの余命が幾ばくもないという知らせが届き、弘二さんは、日本に戻る決心をします。父、母、兄の登さんとともに、祖父が暮らす横川に帰ったのは、弘さんが2歳の時でした。
 
その後、弘二さんは、日本に戻り、体調が改善したヤエゾウさんの世話をしたいと考えるようになります。そのためには、アメリカに残してきた仕事を片付ける必要がありました。そこで弘二さんは、母、登子さんと、横川で生まれた弟、ケンジさんとともにアメリカに帰国。再び戻ってくる誓いの証しとして、弘さんと、兄・登さんが、祖父のもとに残されました。1940年の6月のことでした。
 
翌年の1941年、太平洋戦争が開戦。アメリカに帰国した家族は、収容所へと送られます。両親が日本に戻って来られない弘さんと登さんは、祖父ヤエゾウさんと、祖母マツコさんに育てられ、三篠国民学校に入学します。弘さんが被爆したのは、祖父、祖母と暮らす横川の自宅の、離れの風呂場でした。
 
【米国から日本へ】
私は、1938年にイースト・ロサンゼルスで生まれました。両親はどちらも2世です。両親ともアメリカ・カリフォルニアで生まれました。父は、ベーカーズフィールド、母はブロウリー生まれです。
 
1940年の初めに、私の父は、父親、つまり私の祖父から連絡をもらいました。深刻な病気で、生き延びることは難しいだろうと。そこで父は、祖父が生きている間に訪ねることにしたのです。父は私と兄のケニーと妊娠1カ月だった母と一緒に荷物をまとめて横浜行きの船に乗りました。広島に着いたのは、1940年の2月だったと思います。
 
同年の6月ごろ、日本に戻ってから5,6カ月後ですね。父はアメリカに戻らなければならないと、私の祖父に伝えました。お金が底をつき始め、仕事や家もアメリカにあったからです。祖父は、私たちがアメリカに戻ることを聞くと、またお酒を飲み始めました。そして、また調子が悪くなり始めたのです。
 
父がまた日本に戻る証として、兄と私を祖父母の元に残しました。そして、その間、私たち兄弟は祖父母に育てられることになりました。しかし、両親が日本に戻る前に戦争が始まったのです。戦争が始まると両親は、多くの日系アメリカ人と共にアリゾナ州のポストン収容所に送られました。
 
【8月6日】
その日は学校に行く日でした。私たちが登校中に子どもたちが数人、学校から引き返していて、敵機がまだ近くにいるから休校になったと言いました。私たちは休校になったことを知って、うれしくなって家まで走って帰りました。そして遊び着に着替えました。
 
家には離れの風呂場があり、その上には屋根がありました。平らな屋根で、そこで日頃、祖母が洗濯物を干していました。兄と私は急いで屋根(洗濯物干し場)に飛び登りました。屋根の上からは、遠くからやってくるB29の飛行機雲が、よく見えました。幸運なことに、当時、私たちより賢明だった祖母が「すぐに屋根から降りなさい」と、きっぱりと私たちに言いました。そこで私たちは屋根から、しぶしぶ降りて、兄は、家の横にあった門に向かって歩き始めました。
 
兄が門を通りすぎた時、爆弾がさく裂しました。爆発した時、私は建物の中(風呂場)に入っていました。何も見えず何も聞こえませんでした。私は瞬間的に意識を失っていました。かなりの量のがれきに埋もれていたのです。煙の臭いがしました。明らかに近くに火が回ってきているようでした。幸運にも私は、自分でがれきをかき分けて脱出することができました。
 
目立ったけがはありませんでしたが、脳震とうを起こしていたようです。その後、中庭に行きました。そこに兄がいました。兄も中庭に戻ってきていました。兄のおでこには、熱線による軽いやけどがありました。私たちは、すぐに祖母を捜しました。祖母は台所の下に埋まっていました。爆風で飛び散ったガラスの破片が、祖母の顔や体に刺さり、あちこちから出血していました。しかし、命にかかわるようなけがではありませんでした。
 
近隣が爆弾にやられて、あちこちから火の手が上がり始めたことに気づきました。祖母は、がれきの下から救出された後、私たちと手をつなぎ、数名の男性が消火にあたっている様子を、私たちと一緒に見ていました。中庭にあった手押しポンプでバケツに水をくみ、その水を火に掛けていました。それは無駄な努力で、街が焼き尽くされてしまうとは気づかなかったのです。
 
そして祖父は、祖母に私たちを連れて山に逃げるよう言いました。その山は、私の家の北西の位置にありました。人々の長い列というよりは大群が、市内中心部から逃げようとしていました。みんな、ひどいけがを負っていました。骨が折れた人もいましたが、ほとんどの人が、ひどいやけどを負っていました。かなりのやけどを負っている人もいて、体から皮膚が垂れさがっていました。おなかから内臓の一部が出ていて、それを抱えながら逃げている人もいました。道路にはすでに死体が並んでいました。道端には、すでに亡くなった人もいれば、死にかけている人もいました。その多くが水を求めていました。
 
どのくらいの時間がかかったのか正確には分からないのですが、まず川沿いに西に向かって逃げました、それから北方面に行き運行している列車の駅を見つけました。その駅から列車が運行し始めていて、人々を北方面に避難させていました。可部という所です。列車でそこまで避難して、親戚のところに行きました。そして戦争が終わるまで、私たちを受け入れてもらいました。
 
雨が私たちにも降りかかったのを覚えています。体はすすだらけで、かなり汚れていたことも覚えています。可部に到着して、まず体をきれいにしました。そこで数日過ごして古江に行きました。そして、私の母方の祖父の家である西川家に数日滞在し、その後、横川の自宅に戻りました。
 
【横川に戻って】
私たちが横川に戻った時、川の中にはまだ遺体がありました。川にはまだ魚が泳いでいました。背中に熱線によるやけどを負っている魚もいました。その魚は、背中に縞(しま)模様があるスカンクのようで背中にやけどを負いながら泳いでいたのです。その後、その魚がどのくらい長く生きたかは分かりません。そんなやけどを負った魚を見て戸惑いました。
 
私たちは防空壕(ごう)で生活をしていました。地下に作られた小さな部屋でした。そこにしばらく住んだ後、外に建物を作りました。いろんなトタン板や建材になりそうなものは何でも集めてきて建物を作りました。トタン波板の家に住んでいたことを覚えています。夏はひどく暑く、冬はひどく寒かったです。
 
数カ月後、私たちは全員、病気になりました。下痢でした。おそらく放射能障害による下痢症状だったのです。髪の毛も抜けましたが、また生えてきたので良かったです。確か病気は数週間続いたと思います。確か数年、そのような状態でそこに住みました。
 
戦後、弘さんと登さんは、アメリカに渡り、両親とともに先に帰国した弟、ケンジさん、アメリカで生まれた隆さんとともに家族で暮らし始めます。
 
【アメリカの両親のもとへ】
開戦後、両親はアリゾナ州のポストンに収容されました。
終戦となり…新聞を入手したのです。そこには広島の被爆後の航空写真が載っていて「偉大なる破壊のリング」と記されていたのです。爆心地から半マイル(800メートル)は全壊で、死傷率は50%、爆心地から離れれば、死傷者は少なくなっていると書かれていました。両親は、私たちはおそらく生きてはいないと思いました。しかし、さまざまな団体を通して、私たちの捜索を始めました。私たちの居場所や生死を知るためです。数カ月後、アメリカの赤十字が、私たちが生きていることを両親に伝えました。
 
終戦後、両親は収容所から出ました。両親は、1948年までの3年間お金を貯めました。私たちがアメリカに帰国する乗船券を買うお金がたまったのです。両親は、日本にいる私の祖母に連絡を取りチケットを送るので、私たちをアメリカに送り返してほしいと伝えたようです。もちろん…私たちは帰りたくありませんでした。私たちは、日本に残りたいと両親にも祖母にも伝えました。しかし、アメリカに帰国するように言われたのです。怒鳴ったり泣き叫ぶ私たちを祖母たちは、横浜発アメリカ行きの船になんとか乗せました。
 
私たちの帰国を望んでいる両親のことを覚えていませんでした。「日本に残りたい」とわめき散らしました。でも仕方がない、行くしかありませんでした。1948年の3月に、サンフランシスコに到着しました。両親は私たちを見つけると、ハグしたり、キスしたりしました。でも私たちにとってはなんとも変な瞬間でした。私は「この人たちは誰?」と言ったのです。私たち2人にとって、非常に大変な時期だったと言えます。両親は私たちに会えてとてもうれしかったようです。
 
しかし、両親もどんなふうに受け入れてもらえるか心配だったはずです。私たちが親を受け入れるかどうか…私たちは両親に態度に出して、「ここに来たくなかった」と言ったりしていました。日本に戻りたかったのです。両親はとても辛抱強い人でした、本当に感心しています。私たちを育てるために両親がどれだけの苦労や心労を抱えてきたか想像もできないほどです。しかし父が一度こう言ったのです。「戻りたいならば日本に戻れ、送り返してやるから」と。
 
その時、私たちが考え直したことは、ここにはおいしい食べ物もあるし生活環境も良いと。その時には家に住んでいたので、生活環境は良かったのです。もしかしたらそこまで帰りたい訳ではないのかもしれないと。その時、私には2人の弟がいました。1番下の弟は、とても小さかったので問題ありませんでした。この時、下の弟は4歳でした。でも年上のケンジは確か8歳でした。それまでケンジは、両親の注目の的として育ってきたのですが突然2人の新しい兄が家族に加わったのです。一方、私も兄も両親からのケアを必要としていました。実際、私たちが求める以上に両親は、十分愛情を注いでくれました。それが私たちと3番目の弟との間に、ちょっとした不和をもたらしたのです。弟は何年間もそれを態度に出していました。
 
私たちの間には問題もあって、よくケンカもしました。でも最終的には、私たちはみんな成長し、お互いを受け入れ、仲の良い身内になりました。
 
【被爆の影響】
私の人生には精神的に打ちのめされた時が、4回ありました。当然、原爆が落とされた日が1回目です。2回目は私たちが横川に戻った時です。自宅の周辺が、すべてなくなっていたのを見た時です。近隣だけでなく、市全体がなくなっていたのです。そこには生物は何1つ残っていませんでした。燃えるもの、可燃物は、すべて燃え尽きていました。残されていたものは、レンガ造りの建物や金属でした。そして残念ながら、その時はまだ近隣にも遺体が残っていました。その日に起こった虐殺の光景は、その後、何年にもわたり私の心に残りました。
 
日本から戻った後でさえも、その光景は悪夢となって現れました。アメリカに戻って間もない頃、悪夢に悩まされていました。母によると私はよく夜中に起きて、叫んでいたそうです。
私には摂食障害があり、赤やピンク色のものは、一切食べられませんでした。例えば、ピンクグレープフルーツや、マリナラソースのパスタや、レアの肉など、そういったものは食べられませんでした。そのような色の食物は、食べないようにしていました。でも、いつも食卓に並ぶのです。兄弟たちはステーキが好きだったので、両親はステーキを出してくるのです。そういうものは食べないようにしていました。
 
日本にいる人たちと別れ、何も知らないアメリカに戻ること、知りもしない両親のところに帰るというのは、3回目に精神的に打ちのめされた時でした。彼らが私たちに何と言ったかは、よく覚えていませんが、感情的になった瞬間は覚えています。私たちはアメリカに帰りたくなかったのです。でも帰らなければならないと説得されました。そしてわめきちらす私たちは、船に乗せられたのです。
 
ですが、時はすべての傷を癒してくれると思います。1955年までには、多少は普通の状態に戻ることができたと思います。実際、今では私の好物はスパゲッティです。ステーキもミディアム・レアが好きです。色もまったく気にならなくなりました。
 
【結婚、そして……】
弘さんは、UCLAに進学し、そこで出会ったアイリーン・ユリコさんと結婚。今は妻のアイリーン・ユリコさんとともに、ロサンゼルスで暮らしています。
 
アイリーンに会ったのは、彼女がUCLAの1年生の時でした。その頃は私は、大学院でエンジニアリングを専攻していました。彼女は、まだ19歳でした、私より5歳半若かったのです。それでまず彼女に言いました。結婚するには若すぎるのではないかと、そして私は25歳で、そろそろ落ち着いて、家庭を持つことを考えようかなと。ところですべて話すけれど、広島で被爆したという過去を持っていると話しました。そして、子どもの頃に放射能による病気を患っており、長く生きられないかもしれないと伝えました。
 
私たちは話し合いました。子どもを持つことや私の過去が子孫に与える影響についてです。私たちは3人の子どもに恵まれました。男の子1人と女の子2人です。1番上が男の子でした。息子が5歳の時、腹部に腫れがあることに気づきました。おなかが少し大きかったのです。アイリーンが息子を医師に診てもらったところ、悪性腫瘍であることがわかりました。その悪性腫瘍はウィルムス腫瘍というもので、腎臓の悪性腫瘍でした。腎臓の1つが、グレープフルーツの大きさになっていたのです。急いで摘出しなければならないと、医師に言われました。それで腎臓の摘出手術を受けたのです。残念ながら、腫瘍が転移していて息子は亡くなりました。悪性腫瘍が見つかってから5カ月後でした。
 
それで常に気持ちのどこかで、息子の死は、私が被爆したせいではないかと思ってしまうのです。医師はおそらく関係はないと言いますが、私は心のどこかでいつも疑いを抱いています。
 
【つらい経験を繰り返さないために】
私のUCLAの学位は学士と修士です。エンジニアリング、特にコンピューター・アーキテクチャを専門としています。その当時、私たちはコンピューターをひとつずつ設計していました。私はその分野で学び、卒業後は航空宇宙関係の会社数社で働きました。
 
私は1965年になってから、コンピューターの設計を始めました。サイエンティフィック・データシステムズという会社に入ってからです。その後、この会社はゼロックス社に買収されました。コンピューター事業への参入が目的でした。その後、現在のPCの前身となるワークステーションの分野で働き始めました。日本に転勤になり、南麻布に住んで、赤坂の本社に勤務しました。そこでは富士ゼロックスの人たちと働きました。
 
ある日、会社で広島に行くことになりました。平和記念公園にも行くということで、私も参加しました。その道中みんな私の背景を知っているので、私に何か話してくれと頼みました。それで約30分間、私の体験を語りました。その時に気づいたことがありました。自分の体験を人々に話したり、説明できることに気づいたのです。その時は、確か40人から50人くらいが旅行のグループにいました。
 
広島で何が起こったのかを聞き、みんな心を打たれていました。私自身よりも彼らの方が感情を揺さぶられていました。原爆が落とされてから75年たちました。来年で、広島と長崎に原爆が投下されて、75年がたちます。その間に核兵器の性能と威力は強大になっています。もし、民間人に使用されるようなことがあれば、ますますエスカレートするかもしれません。また誰かが広島や長崎で75年前に受けたつらい体験をすることになるのです。私たちの現在行っている証言活動をすることで、核兵器拡散抑止と世界平和につながってほしいと願います。

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