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三松 保則(みまつ やすのり)
性別 男性 被爆時年齢 6歳
収録年月日 2023年12月5日  収録時年齢 84歳 
被爆地 広島(直接被爆 爆心地からの距離:1.0km) 
被爆場所 広島市上流川町 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 幟町国民学校1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

三松 保則さん 当時6歳。
爆心地から およそ1.0キロ。上流川町にあった自宅で両親と一緒にいた時に被爆しました。被爆の瞬間、光の雨が夕立のように、天井から降ってきたと言う三松さん。親子三人は、大けがを負いながらも、崩れ落ちた家から何とか抜け出すことができました。
その後、原爆が影響したと思われる竜巻に襲われたり、被爆者があふれる街中を必死に避難し続けた三松さん。しかし、原爆は大切な家族の一人、お姉さんを奪い去ってしまいました。
戦後も被爆による体調不良に、長く苦しみ抜いたという三松さん。「戦争そのものを、絶対にしてはいけない。お互いのことを思いやる心が大切だ。」と、訴えます。

【東京から広島へ】
東京の世田谷区です。経堂という駅から歩いて2~3分のところに住んでいました。当時は、あちらこちらでB-29が飛んでいました。焼夷弾などが、いつ落ちてくるかわかりません。そのころには、夜も空襲が始まっていました。灯火管制で、電気をつけていると爆撃されるので、囲いをして、光が出ないようにしてすごしていました。戦争はべつに怖いとは思いません。大きくなったら、兵隊になるというのが夢でした。もう日本は勝つものだと思っていました。父はいろいろ感づいていたらしく、「日本が負けるということを保則の前で言ったらいかん」と、兄2人に言っているのです。私が「日本は負けそうだと、お父さんが言っていた」と言えば、憲兵が父を連れていってしまうのです。恐ろしい時代です。軍国主義というのは、本当に軍の言うことをみんな聞けという状況です。
華北塩業という、満州の塩を日本に持ってくる会社に勤めていました。当時としては、かなりいい給料をもらっていたようです。子どもは4人いましたが、不自由することは、ありませんでした。
すぐ近くにある経堂小学校に行っていました。入学式の次の日に閉鎖となり、学校には全然、行けないまま、4月に広島へ行くことになりました。母の郷里が広島で、父も戦前は広島にいたことがありました。広島は空襲が少ないようだから、安全だろうと判断して、広島へ行こうと決めたようです。広島には知り合いがいないので、農家で(食糧を)分けてくれないのです。姉が行っている学校では、みんな農家を知っていて、弁当にご飯を持ってきているのです。私の姉は知り合いがいないから、お弁当は雑炊で、こぼれてしまうのです。米粒なんてほとんど入っていません。菜っ葉だけの雑炊を持っていくような生活でした。

【被爆前の暮らし】
最初は草津というところに行きました。草津は牡蠣がいっぱい捕れていて、すごくおいしかったです。そのあとは、爆心地の近くにある大きな屋敷に引っ越しました。もう部屋がいくつかあるかわかりません。中庭もあって、かくれんぼをしたら、わからなくなってしまうくらい大きなところに3日間いました。すると、軍隊の人が来て、ここは軍隊の偉い人が使うのだから出ていけと追い出されました。そのため、上流川町へ引っ越しました。今の縮景園の目の前です。お泉邸と言っていました。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の別邸です。そこに松原があって、その前の家に引っ越しました。7月初めごろだと思います。
兄は2人います。一番上の兄は東京で、2番目の兄は宮島へ学徒動員で行っていました。(被爆前日の)8月5日の夜、兄が宮島から来ました。姉と兄、父と母、家族5人で食事をしたのが最後の夜です。どんなものを食べているかわからないからと、母がご飯を用意して、兄に食べさせました。父は買い出しに行くため、途中で倒れないようにご飯を食べました。私は前日までの病気が治ったばかりで、初めての食事だったのでご飯を食べました。姉と母は雑炊でした。食べ始めると、姉は英子(ひでこ)というのですが、「ひいこにはご飯が入ってない」と泣きそうになったのです。母がかわいそうに思い、「みんな、ご飯を分けてあげなさい」と言うので、父が姉のおわんに分けて、兄も分けました。
「やっちゃんもあげなさい」と言うので、しょうがないけど、ちょっとあげました。すると、母が「私にもください」と言うので、父と兄と私で、みんなでご飯を母に渡して食べました。そのような状況でした。

【8月6日】
最初に、兄が宮島に行かなければならないということで、朝早く出ました。出る時、母が弁当にご飯を詰めて、それを持っていったのを、姉はいつも雑炊ですから、「兄ちゃん、ずるい」と言ったのです。兄はその時、「うるさい」と言ってドアをバンと閉めたのです。そのあと、空襲警報が鳴りました。敵機が来ると空襲警報が鳴るのです。敵機がいなくなると、また警戒警報になります。警戒警報が終わると、もう安全だというので、姉は学校に行きました。その時、一緒にいたのは、父と母の2人だけです。姉はもう学校に行ってしまったので、いませんでした。母は玄関側の部屋から、上を掃除しようとして階段を上りかけていました。私は隣の部屋にいて、もう1つ隣の部屋では、父がラジオを鳴らしていました。昔のラジオというのは性能が悪くて、すぐ壊れるのです。それを一生懸命、直していました。
原爆が落ちた時というのは、いきなり屋根から光の雨が降ってきて、ザーッという音がしました。なんだろうと思って、私は母のほうを向き、母はこっちを見ました。そこは庭なのです。小さな庭ですが、大きな岩があったのです。その岩に光が当たって跳ね返っていたそうです。父は私のうしろのほうにいました。そのあとは気絶して、わからなくなりました。父の声も、母の声も、何も聞こえません。パッと気が付いたら、頭を押さえられているのです。腹ばいに倒れていました。父も母も、そのような時は必ず助けに来てくれるものだと信じていましたが、何も声が聞こえないのです。「母ちゃん、母ちゃん」と言うと、しばらくして、「やっちゃん」と、母が気付きました。またしばらくすると、パチャッ、パチャッと音がしました。父がようやく気が付いたようで、「なんか水の音がしますよ」と。そのうち今度は、「パチッパチッと、なんか火が燃えているような音がしますよ」と。ちょうど下を向いていると、そこに光がさっと差し込みました。太陽の光です。私は6歳でしたが、途端に考えて、「日が見えるよ」と言ったのです。これは「日」が見えると、火が燃えている「火」を掛けたのです。すると、案の定、母が勘違いしてくれて、「父ちゃん、火が見えるようですよ」と。思い切って、また「日が見えるよ」と言うと、母が「やっちゃん、大きな声で泣きなさいよ」と言うのです。しばらくすると、父がはい出してきて助けてくれたのです。私が飛び出ると、家がつぶれているのがわかり、ダーッと向こうのほうが見えました。すると、母がいないのです。母はもうだめだと思って、「私は助からないから、2人で逃げてください」と。私が必死になって、「母ちゃん、母ちゃん、出てきてよ」と呼ぶと、やっと出てきました。ふと気が付くと、うちの家の2階は崩れて、その向こうがバーッと遠くまで何もないのです。
隣の家は、おばあちゃんが家を出かかっていた時に爆風で飛ばされて、中に娘と孫がいたのです。娘の旦那は兵隊で取られているのでいません。何か白いものが動いているのが見えました。おばあちゃんが、「さっきまで孫の声が聞こえたんですけど、煙が出てきて、聞こえなくなりました。バケツで水を掛けてください」と母に言うのです。隣のおばさんが水を掛けているのですが、母は力が出ないのです。頭蓋骨が4センチぐらい、幅は1センチぐらい割れていたのです。足も肉が飛び出るほど切れている状況でした。手の肉も取れかけている状況ですから、水を持っていくのもやっとでした。しばらくすると、隣の娘さんの声が聞こえなくなって、おばあちゃんは手を合わせていました。
父は擦り傷だけでした。傷はたくさんあったのですが、大丈夫だったのです。私自身は頭にくぎがたくさん刺さっていました。目の下にもくぎの痕があります。目の上と頭にもあって、まだ刺さっていたところを触ると痛いです。頭蓋骨の中に刺さっていたのです。

【地獄のような広島】
家の前が松原でした。こんなに太い松が全部、水平に倒れているのです。水平に倒れているのですよ。根が浮き上がっているのです。根が浮いて出ているのです。そのようにして、軒並み全部、倒れているのです。3人でぼうぜんと燃えてきたのを見ていると、縮景園の周りの道路を歩いている人が、「煙に巻かれますよ」と大きな声で教えてくれたのです。私も「ああ、そうだ。煙に巻かれる」と思いました。このようなことはもう知っていました。そこの松の木を越えようと思っても乗り越えられないのです。大きな松の枝が、地面に付いていませんから、高いところにあるのです。くぐるには狭いし、足も痛いし、どうしようかと思いました。登ろうとすると、隣のおばさんなどは元気なので、助けてくれて、母も一生懸命登って、父も登って、なんとかお泉邸の門の前まで来ました。そこからずっと行くと、太鼓橋というのがあるのです。そこを登るのが本当に大変でした。隣のおばさんが下から支えてくれて、母も父もなんとかやっとそこを登って降りて、川の方向に行きました。最初は着物を着た人が来ていたのですが、そのうち、顔がスイカのように真っ黒に腫れ上がって、何も着ていない人が、手を前に出して「水、水」と言って歩いているのです。立って歩いているのです。ここの川っぺりまで来ると、2メートルくらい下に州があったのです。そこへ飛び降りて、そのまま水を飲もうとして、流れていってしまいました。
そのあとですよ。怖かったのは、急に竜巻みたいな風が来て、体が浮き上がるのです。父が「草につかまれ。これで飛ばされたら助からんぞ」と言うのです。芝生ですから、あまり長い草ではないでしょう。痛い手で必死につかまって、なんとか飛ばされるのを我慢していました。それが少しやんだと思ったら、さっき横になっていた松の木が、竜巻で根こそぎ舞い上がって、ドーンと落ちてくるのです。1回だけではなく、2回、3回、だんだんと近づいてくるのです。「もう助からんな」と言っていたのですが、そこでやんだのです。不思議ですよね。
隣のおばさんが、防空壕の中に何を隠しているか知っていました。娘の弔いもあるので、夜、出掛けていって、防空壕から、缶詰や梅干しを持ってきてくれました。たいした缶詰はありません。梅干しを少し食べました。食べたものはそれだけです。いつ寝たのかもわからないのですが、しばらくたって、気が付くと、朝になっていました。ここにいても仕方がないから、外へ出ると、門のところに塀があって、男の人があぐらをかいて座っているのです。その人の背中が真っ赤に焼けただれて、そこに奥さんが灰を塗ってやっているのです。旦那が「痛い、痛い」と言うと、奥さんが「何よ、男のくせに。我慢しなさい」と。まあ、すごいことを言いますよね。父は、あれは助からないだろうと見ていました。
兵隊がバケツを持ってきてくれるのです。バケツの中に、おにぎりが入っているのです。おにぎりが野球ボールくらいの大きさなのです。それを食べて、前の焼け跡のところに行くと、もちろん何もないのです。母の姉の家が古江にあるので、そこへ行くと、2番目の兄のために書いておきました。
そこからとぼとぼ歩き始めた時、パッと見ると、燃えて消し炭になってしまった街路樹が、太陽の光でキラキラ輝いてきれいでした。そこを歩き始めると、兵隊が来て、担架に乗れと言うのです。爆心地のすぐそばにテントが張ってあって、その下にたくさん人がいるのです。少しの間、そこにいましたが、父も母も「ここにいても仕方がないね」ということで出ました。しばらく行くと、公園だと思うのですが、水飲み場がありました。水筒と、当時は国民服と言っていたのですが、父親の上着を持ってきていました。水筒を持って水をくみに行くと、水道のほうに頭を向けて、ザーッと死体がいっぱいなのです。もう死体なんか慣れてしまっていますから、そこへ行って、母が水筒に水をくもうとしたら、「おばさん、水」と言ったのです。死んだ人が声を出したと思って、怖くて、びっくりして、飛び上がって逃げてしまったのです。ああ、気の毒だったな、悪かったなと、今は思いますけれどもね。
己斐駅の近くまで行くと、親戚などの見舞いに来ている人たちがたくさんいました。頭から顔にかけて半面、血で真っ赤に染まっている私を見て、かわいそうに思って缶詰をくれるのですが、開けることができないのです。父が洋服の中に入っていたジャックナイフで随分苦労しながら開けて、私にだいぶ食べさせてくれました。母や父も食べました。ミカンの缶詰だったと思います。
しばらく行くと、己斐からは電車が動いていたので、そこから古江の伯母のところへ行きました。伯母もどこからか広島に疎開してきて、農家の家に間借りをしていたのです。1階と2階があって、壁で分かれており、2階を貸してくれました。着いてしばらくすると、宮島に行っていた兄が着きました。お弁当にご飯をたくさん入れていたので、それを食べさせてくれたのです。昼ご飯を食べていないと言っていたので、もう夕方近かったのでしょう。僕にも食べさせてよと言って、少し食べていましたが、ほとんどを父と母と私に分けてくれました。

【姉の捜索と/ 急性障害】
母と父が姉を捜しに行きました。これは人から聞いた話ですが、幟町国民学校は爆風で半回転して倒れ、そして、燃えたというのです。私も1日だけ行きました。姉は小学校3年生ぐらいの時、中耳炎になりました。昔の中耳炎は、耳の裏側をのみで切って穴を開けていたので、そこに骨がない子を一生懸命、捜したのですが、とうとう見つかりませんでした
しばらくすると、隣の家から、ざるにいっぱいイチジクをくれるのです。買い出しに行くため、国民服の中にお金がいっぱい入っていたので、それで買っていたらしいのです。
すぐ近くの小学校に医者が来て、診てくれるというので行ったのですが、赤チンで消毒するくらいしかできません。そのお医者さんが、ぱたっと来なくなってしまったのです。昨日まで来ていたお医者さんが、放射能だということはわかりませんから、ガスでやられて亡くなってしまったというのです。今日元気だった人が、翌日亡くなってしまったのです。
私の母も毛が抜け始めて、食欲がなくなりました。そうなると、皆さんのうわさでは、もう死ぬということでした。母もそれを知っていまして、もう何も食べないのです。「母ちゃん、なんか食べて」と、イチジクを持っていっても食べないのです。「ちょっとでも食べて」と言うと、こうしてつまんで、ちょっと食べるのです。しばらくして、またちょっと食べて、次の日には、もうちょっと食べたいとなり、また次の日になると、1つ食べられるようになりました。だんだん食べられるようになって、元気になってしまったのです。

【東京に戻る】
9月になり、東京に帰ることになりました。父と兄が迎えに来て、みんなで東京に向かったのですが、汽車は超満員で、乗れるかどうかわかりません。とにかく乗らなければと、一生懸命乗りました。乗れない人は、汽車の外側につかまっていました。そのような状況で、なんとか東京に着いたのです。東京に着くと、世田谷の新町というところに母の兄がいました。そこの家には、兄が終戦前に引っ越していたのです。家をみんな売りに出してしまうのです。もう二束三文です。それを伯父が全部、買い取っていたのです。その家がたくさんあったので、そのうちの1軒に住まわせてもらいました。食べるものはありません。隣が農家の人だったので、そこから麦をもらったり、いい時はお米をもらったりしていました。

【後障害】
父も生きている間は、いろいろと会う人に原爆の話をしていました。最初は原爆という言葉さえ知りませんから、話していました。私も原爆を受けたという話をしました。父は、えぐり出したいほど喉が痛いとよく言っていました。粟粒(ぞくりゅう)結核になったのです。粟粒結核というのは、血管の中に結核菌が入ってしまって、体中に回るのです。そうすると、もう助かりません。父は昭和20年に被爆して、昭和22年に結核で亡くなりました。母も検査をすると、2万いくらと言っていたのを覚えているのですが、何のことかわかりませんでした。今、考えると、白血球だったのかなと思います。それから、血沈が異常な状況だったそうです。
私は、昭和20年12月に深沢小学校へ転校しました。入った途端、怖くて、母の手を離すことができないのです。よその家に入っても、どこに入っても、まず見るのが天井です。いつ落ちてくるだろうか、落ちてきたらどうやって逃げようかと、そればかり考えているのです。すし詰めの教室の中で、母も一緒にいるわけです。母がまずいかなと思って、手を少し離します。1センチ離します。2~3日たって、ようやく母は教室から出ることができました。それでもう安心しました。PTSDでしたか、そのような状況でした。小学校6年生の時、2月くらいから急に具合が悪くなり、下痢が止まらなくなりました。腸カタルということで、ずっと寝ており、小学校の卒業式も出られませんでした。
高校へ入って1か月くらいの時、急に首のあたりが2か所ほど、ピンポン球のように腫れてしまいました。外科のお医者さんが診て、いろいろ調べても原因がわかりませんでした。今度はつぶれて、うみが出るようになったので、とうとう切開をしました。広島にいた時、足の擦り傷が1年間、治らなかったのですが、同じように手術した傷が治らないのです。1年半くらいして、別のお医者さんが出してくれた薬ですっと治りました。
兄たちも、私も母も特別被爆者手帳(旧特別被爆者健康手帳)をもらっていました。今は全部、被爆者手帳(被爆者健康手帳)になりました。姉を亡くしましたが、それは今、助かっています。

【平和への祈り】
原爆なんてとんでもない話です。今の原爆というのは、広島の10倍の大きさまでしか作ることができないのです。1回、原爆が落ちたら、人類は全滅です。
姉を原爆で亡くしましたが、誤解されたくないのは、だからといってアメリカを恨んだことは一回もないのです。アメリカを恨んだことは一回もないです。父も母も自分の娘を亡くしていますが、アメリカを恨んではいません。
戦争はなんとかして食い止めなければいけなかったのです。戦争そのものをしてはいけないと思うのです。絶対、戦争をしてはいけません。お互いのことを思いやり、心から相手を思いやる気持ちでいれば、そのようにならないで済むのです。
戦争は絶対してはいけません。もう絶対、戦争をしないということを、とにかくお願いしたいです。そういう世界を作ることに協力していただきたい。お願いしたいと思います。

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