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谷岡 フサエ(たにおか ふさえ)
性別 女性 被爆時年齢 22歳
収録年月日 2004年  収録時年齢 82歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.4km) 
被爆場所 長崎市(飽ノ浦町)[現:長崎市] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

谷岡フサエさんは当時22歳。爆心地から3.4キロの飽の浦町で被爆しました。あの日家族全員が原爆に遭い、後遺症への不安、差別の目がつらく、思い出したくない、体験を話したくない。しかし、再びあってはならないと、重い口を開きました。
 
【被爆前の長崎には、-】
長崎で生まれ育って、女学校を昭和15年に卒業しました。長崎で就職するつもりで、造船所の試験を受けたのですが、不合格でした。おかしいなと思って病院に調べてもらったら、生まれてきた時に、目に星が入っていたそうです。北京にいる伯母に「そっちに行ってもいいか」と手紙を出したら、渡航証明書を送ってくれたので、行きました。18年の11月の終わりに、お産のために北京から帰って来ました。

【被爆前の家族は】
うちは造船所の近くで、親戚の子を2、3人預かっていたので家が狭くなったからと、大きい2階屋の家に移りました。そうすると、下宿人が次々に来ました。下宿人だけで12人くらいいました。母も食事の準備が大変だったと思います。でも、重労働の方は、特配といって、お米の配給があったので助かりました。

【当時の住居は】
飽ノ浦の三菱病院の近くの2階建てにいました。下宿人もいたので、大きな家を借りていました。

【被爆当日の朝】 
空襲警報解除になったので、今のうちにと洗濯していました。飛行機が来たのでおかしいな、なんでと見たら、その瞬間に、稲妻が走ったようでした。妹は、「今日は空襲がひどいから休みなさい」と言われたのですが、「鍵を持っているので、皆困るから行きます」と出たため助かりました。いつも電車に乗り合わせる子が乗らなかったので迎えに行こうと思ったけれど、遅れたくなくて、降りなかったそうです。運が強かったのでしょう。しかし、帰りがけに悲惨な状態を見て、帰る時に死体を乗り越えて、家まで帰って来たものだからいまだに話しません。妹の友達の家では家族が亡くなり、友達は出征していて助かりましたが、子どもはけがをしたりしているので、絶対に話しません。体験談話しなさいよと言っても、妹は絶対にいやだと言います。思い出すのがいやなのでしょうね。私も長い間話ができませんでした。
 
【被爆の瞬間】
何だろうと見上げたら、稲妻みたいなのが走るので防空ごうへ入りましたが、放送局がやられているので全然分かりませんでした。大分や宮崎に兵隊でいた人が言うには、「長崎、広島に新兵器が落ちたから、みなさん逃げなさい」って盛んに言っていたらしいです。「広島と同じような爆弾らしい」、だから早く防空ごうに入ろうと防空ごうに入ったのですが、もう遅いですよね。
 
【被爆後、家族の捜索】
母が帰って来ないので、心配して三菱病院へ行ったら、顔が膨らんでいて、ベットがなくて廊下に寝かされていました。妹が9日の夕方帰って来て、「市内は大変だ。爆撃のショックで、商店街を竹やりを持ってうろついている人がいるので、危ない」と言いました。妹が帰って来たからひと安心しました。母親の兄家族が爆心地近くにいて、祖母が心配するので、私が翌日、視察に行きました。

【被爆後の惨状】
もんぺを頼りに死体の中を捜しましたが、全然見つかりませんでした。市内は歩けない状態でした。みんな焼けただれて、顔は電熱器で焼いたみたいに膨らんでいました。顔が膨らんで、やけどで体にくっつくから手が下ろせず、幽霊が歩いているみたいでした。「お水を下さい」と言いながら歩いていました。足首をにぎって離さないので「ごめんなさい、今お水を持ち合わせていないから、あとで持って来てあげます」と言いながら歩きました。その時に水をあげられなかったのは本当に悔やまれます。水を飲ませていたら助かったんじゃないかと。赤ちゃんが、死んでいる母親の乳首にぶらさがっているのを見ました。
 
【下宿人、被爆後の症状】
五島列島の下宿人は自宅に帰ってから、歯が抜け、血が出る症状が出ました。その人は、「伯母さんが心配しとるから、長崎の下宿に帰る」と言いながら亡くなったらしいです。彼の兄弟が荷物を引き取りに来たときに「長崎を気にして亡くなりました」と言っていました。机の引き出しに、「長い間お世話になりました。急に召集されて、挨拶できないかもしれないから」と私の両親宛ての手紙がありました。母は、我が子を亡くしたように悲しみました。皆自分の子どものように接していました。結局2人の下宿人が原爆で亡くなりました。
 
【被爆による健康不安】
一緒に市内を回ったいとこが、調子が悪くて、「死んだ方がましだ。早く死にたい」と言うので、「何でそんなこと言うの」と聞くと、医者から「あなたはよう生きとる」と言われるくらい、背骨が悪く、それが折れておなかを刺してそれが痛くてたまらないんだそうです。私は「そんなこと言わないで、あたしらの親代わりに思てるんやから」と言って話したのですが、やっぱり長くは生きられませんでした。
 
【被爆者への差別】
長崎は空襲も受けたことないんですよ。被爆者と言ったら伝染病か何か遺伝の病気を持っているみたいに思われます。結納が決まりかけたところで、親が広島で原爆に遭っているからあそこの娘はいかんと、破談になったという話を聞きました。この間、お寺の和尚様から被爆体験を語ってくれないかと言われて、パネル持って行ってお話しました。私たちは被爆しましたが、遺伝も伝染もしません。だから差別はしないでくださいと訴えました。
 
【原爆投下への怒り】
絶対もうあんな原爆は落としてはいけません。もう自分たちと同じような犠牲者を出したくないです。毎日テレビを見ていると、劣化ウラン弾など使っているニュースを見ます。あんなもの、絶対作ってはいけません。私は学校で5年間、ミッションでイエスの教えを受けました。その根本のアメリカが何であんなことをするのか、不思議でなりません。なぜ一般市民や子どもを犠牲にしなくてはならないのか、怒りで燃えてます。
 

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