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福元 タツ(ふくもと たつ)
性別 女性 被爆時年齢 16歳
収録年月日 2003年12月11日  収録時年齢 74歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.3km) 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 大橋工場(長崎市大橋町[現:長崎市文教町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 大橋工場 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

福元タツさんは、当時16歳。爆心地から1.3キロ、大橋町の兵器工場で被爆しました。体中にケガをしながら救護を手伝い、その後、長女を死産するなど、原爆の爪跡を今も引きずっています。
 
【当時の住居と仕事】
長崎の三菱兵器工場の寮にいました。私たちまでは徴用工で、昭和19年からの人は挺身隊となりました。工場では、魚雷の空気を入れる喚気弁と送気弁を5時間で5個ずつ仕上げていました。これくらいの小さな場所にはめていました。魚雷の空気を入れる方と出す方と聞いていました。

【鹿児島から長崎へ】
その当時、私は経済的な事情から、安定所に相談し、集団就職することになりました。鹿児島の照国神社に皆集まって、夜行列車で長崎駅まで行きました。それから、三菱兵器工場に行きました。
 
【当日の朝 被爆の瞬間へ】
その日は、いい天気でした。朝8時に空襲警報が鳴ったので、トンネル工場に避難しましたが、警報が解除になったので、職場に戻りました。一仕事して、魚雷の部品を5個仕上げたので、トイレに行きました。トイレが外だったので、いい天気だなと空を見上げていました。飛行機雲が2つなびいていたのを覚えています。それが、B29だったのです。それが、浦上の方へ行ったのを見て、職場に戻りました。その5分もたたないうちに被爆したのです。
 
その瞬間、空中が光りました。工場内もパーと光りました。それは、赤い光線でピカーと光り、何だろうと立ち上がって見ていました。組長さんが大きな声で「皆伏せ」と言われたので、伏せました。その間、10秒くらいだったのですが、何か落ちてきたようでした。少しおさまってから、工場内の真中にいた私は、無我夢中で外へ出て、寮の裏山に避難しました。
 
【直後の状況】
私の頭からは血がでていました。私は、頭だけけがをしていました。けがをしている人、死んでいる人が多かったので、その時は自分のことは考えられませんでした。食べることも忘れるくらいでした。何を食べていたかわかりません。着るものもありませんでした。死体は見られません。焦げて男か女かもわかりません。大橋工場で働いていた責任者も被爆しました。

工場から近い人は全部帰されましたが、鹿児島、宮崎、四国出身者など遠い人は残されました。10日ぐらい経って、罹災証明を出して帰してくださいと上司にお願いしました。上司は、これだけけがしている人や死んでいる人が多いのに帰せないと言いました。仕方がないので、私は救護班にまわったのです。

【救護活動は】
口、目、鼻のところを開けたガーゼに工場で使っていた油をふくませ、顔に貼りました。今でもそれを取るときはなんと痛かっただろうと思います。それが一番苦しかったです。薬もありませんでした。
 
【自身の負傷は】
やけどはありませんでしたが、頭に何か落ちたので、頭から血が出ていました。引き出しから出した防空頭巾で傷口を押さえながら避難しました。山でヨモギの葉をとってもんだものを傷口に当てました。夕方になると止まっていました。よく小さい時からけがをした時にはヨモギをもんで血止めにしていました。

【その後の症状】
帰ってから、吹き出物が出ました。黄色く化膿して痛かったです。終戦後、アメリカの衛生兵がいたので、そこで診てもらうよう父に言われましたが、私はアメリカ兵にけがさせられたのに行かないと言いました。その時、診てもらっておけばと今も考える事があります。何も食べていないのに一晩中吐いたことがあります。友だちから励まされましたが、つらかったです。そんなことがあってよく生き延びたなと思います。やはり、地獄をさまよっていますから、苦しい時があっても乗り越えてこられました。

【被爆後、鹿児島へ帰郷】 
当時着ていた半袖とズボンの裾はボロボロに黄色く焼けていました。姉は、それを残しておけばよかったと言いましたが、私は13回も引越しをしているので、そんなことを気にしたことがありませんでした。学校へ行っていた頃は、裸足だったので、足の皮が強かったと思います。8月のあの暑い日によく何も履かずに、日射病にもならず助かったと思います。私なんか運ですよ。鹿児島から一緒に出てきた人は亡くなり、その人が持っていたセーラー服を持って帰りました。私はその人の両親に会い、何と言ったらいいかわかりませんでした。その時のことは、あんまり話したくありません。

【被爆者として】 
私は結婚して大阪に行きました。病人が3人いて、昭和31年から33年までで3年続けて亡くなりました。

【奇形児を死産】
子どもは死産でした。大阪府立病院で亡くなりましたから研究のために残されました。親には見せられないといって、私も見ていません。この前、お盆に弟が来たので、私の子どもの事を聞きました。姉と弟は、病院に行って子どもを見ていたのです。その体は真黒で腰の辺りにこぶがあったと言うのです。

昭和30年頃の出産は、家に産婆さんが来てやっていました。私もそうだったのですが、子どもが出てこないので病院に行きました。しかし、間に合いませんでした。病院に着くとすぐ切開しましたが、子どもの顔は見ていません。夫も全然見てなかったので、子どもの墓もありませんでした。平成5年にこけしを買って子どものためにお参りしています。
 
【現在の健康状況は】
3月から足腰が痛くて、こう体を曲げてないといけないのです。歩くのがつらくなってきました。前はこんなことなかったのにと思います。憎いです。

【原爆への怒り】
アメリカ兵を見るのも嫌です。原爆がなければ違った人生だったと思います。たった一発の爆弾であれだけ亡くなっています。なんて憎らしいと思います。平和がいいです。
 

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