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山科 和子(やましな かずこ)
性別 女性 被爆時年齢 23歳
収録年月日 2010年10月27日  収録時年齢 88歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.5km) 
被爆場所 浜屋百貨店(長崎市東浜町[現:長崎市浜町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 東亜交通公社 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

山科和子さんは、長崎市浜町で被爆しました。23歳の時です。爆心地から3.5キロのデパート内で勤務中、ピカッ、ドガンときて、煙が出る中をなんとか山の方へ逃げました。3日後に爆心地近くの自宅にたどり着き、父と母の遺体を見つけましたが、埋葬もできませんでした。
 
「戦争は二度としないで、核は二度と使わないで」と、特に外国の人たちに語り続けるのが、自分の生涯の仕事と山科さんは言います。
 
これは昭和20年4月に撮影した写真です。一家は父の転勤で、長崎に移り住んだのでした。
 
【長崎市でのくらし】
そのころ、英文科におりましたので、父のそばで、外国の方々の通訳とか、日本の偉い方が来られた時の接待とかですね。父は私をそばにおいて、そういう接待の仕事を全部させていました。長崎にはたくさんの外国の方がいました。居留地もありましたし。長崎には、諏訪神社があり、諏訪神社のお祭りには、各国から外国の方が集まり、その国の独特なものを奉納します。その国の衣装で。中国の人は中国の服装で蛇踊りを出し、オランダ人はオランダの服装で、そして、韓国の方は韓国の服装をして。長崎は、外国の方々と一緒になって過ごすところでした。
 
それが戦争が始まると、いやな思いをしました。今まで仲良くしていた人が、あの人はスパイではないか、あの人は日本のことを本国に知らせているのではないか、と疑いの目で見るようになりました。私自身その頃、駅の窓口で切符を売る仕事を手伝わされていました。来られた外国の方がどんな目の色をして、どんな服装で、どんな髪の毛の色で、どこまでの切符を買ったかということを、西部軍管区司令部に通報するのが私の仕事でした。今考えると情けない仕事です。今まで仲良くしていた人をそんな疑いの目で見るのも、つらい思いでしたが、当時は愛国心から、お国のためにということで、一生懸命になってしました。
 
【被爆当時の様子】
8月9日は、早く勤め先に出ていましたので、私一人助かりました。父も母も家にいたので、亡くなってしまいました。長崎の浜町にあったデパートの空き室に、東亜交通公社の机を運び込み、仕事場にしていました。長崎駅前にも東亜交通公社がありましたが、分所ということで、デパート内に支店みたいなものですね。そこにいました。
 
当日は、朝の9時にはもう出勤していました。爆音も何も聞いていません。本当にいきなりピカーッと光り、「あらっ」と思ってそれからちょっとしてドガーンという音と、窓ガラスがガタガタガタと揺れてあわてて、その頃は軍事教練を受けていたので、すぐに机の下にもぐり込みました。部屋に煙がもうもうとしましたので、お店の方が「地下室に逃げろー」と言いました。地下室に行くと、やはりそこも煙が立ちこめていたので、「山に逃げろー」という言葉で、西山という方面の山に行きました。あの山に逃げ込んで、あの時の光景は、いまだに頭に焼き付いて、忘れられません。
 
その晩、会社の重要書類などを持って、西山の山の中で、同僚と一緒に松の根っこをまくらにして寝ました。あの時、長崎の西の方の空が真っ赤でした。あの色は忘れられません。「何でかわからないきれいな色やな、こんな空の色は見たことがない。きれいやな、きれいやな」と思って眺めていました。ずっと夜明けまでそんな感じでした。まさかあれが長崎市民10万の人を焼く、まして、父や母、弟や妹を焼く炎の色とは知りませんでした。わかりませんでした。
 
一夜が明け、職場に戻ろうと思い、山を下った時に浦上がやられた。家に帰ろうと思っても道が通れなかったのです。また元の山に引き返し、山を越え川を越えてその日の夕方に、「私一人が怖い思いをしている。早く父に会いたい、母に会って慰めてもらいたい」と思い、家を目指して行きました。しかし、まだ燃えて燃えて通れませんでしたので、その晩は橋の下に寝ました。なぜ橋の下に寝たのかというと、アメリカ軍機は絶え間なく来ていました。機銃掃射をされたら殺されると思ったからです。あれは原爆の後、偵察に来ていたのです。
 
本当にまだ熱くて、その頃はズックといって軽い靴を履いていました。焼け跡ですから、裏のゴムが焼けて、本当にはだし同然でした。それを履いて行きました。真っ黒焦げの死体ばかりで、だれがだれやら分かりません。やっと長崎医科大学の当時の運動場を見つけて、やっと自分の家までたどり着きましたが、それでも自分の家とは分かりませんでした。そこに死体がありましたが、子どもの死体だと思い、見過ごして通りました。それが父や母だったことは、後で分かりました。
 
当時、うちの家は水道がなかったのです。山里町は。井戸でしたから。井戸が残っていました。つるべなどは焼けてまったくありません。「ああここは私の家の井戸だ」とそして、よく見ると、肉親だけが見分けられるような死体で、父と母が横たわっていました。父は仰向けに倒れて腕をあげていました。両手を。目の玉もありません。ほおの肉もありません。仰向けに倒れていますから、お腹の肉もありません。本当に学校の標本室にあるがい骨を真っ黒にしたようなものでした。母はうつぶせになっていましたから、腰の骨のところがぼろぼろになっていました。これが父と母だと分かった時は、本当に涙も出ませんでした。ただ、すがりついたんです。
 
それで「弟は、妹は」と思って捜したけれど、わからないし、弟と妹は学校でしたから、後で帰ってくると思い私は、私一人が生き残ったということも分からないで、弟や妹を捜してそのあたりをずっと歩きました。焼け跡に10日間くらいいました。そして、長崎医大の先生方、あの「この子を残して」を書かれたあの先生や、秋月先生など、生き残った人たちが集まってきていて、その方々と一緒に焼け跡で過ごしました。その時の偉い先生方でさえ、「長崎市内は焼け残っているから、いつ空襲を受けるか分からない。ここは焼けて何にもないから、ここにいるほうが安全だよ」と言われ、放射線がうようよしていることは分からないでずっとそこにいました。その死体全体が放射能にまみれた放射体だったということも、後で知りました。父の手を握り、母のお尻に手を当て、毎晩そこで寝て、弟や妹の帰りを待っていました。
 
食べるものはなく、8月ですからのどが渇くので、死体の浮いた小川の水を飲んで過ごしました。何も食べるものはありません。8月15日を迎えて、終戦の報があり、天皇陛下の玉音放送があってのでしょうけど、そういうことは全然知りませんでした。焼け跡ですから。アメリカ軍機は絶え間なく現地を偵察に来ました。私は死体のような格好をして横たわっていました。軍機が飛び去ったら、また起きて、弟と妹を捜し回りましたが、とうとう見つかりませんでした。
 
15日に終戦の報を聞き、16日に長崎駅に降りて行って、父の死を告げた時、長崎駅の人から「あなたの顔色は生きている人間の顔じゃない。早く長崎を離れなさい。長崎を離れないとあなたは・・・」と言われてそれで自宅の焼け跡に帰り、父や母の骨を少しずつ手のひらに乗せてその晩、長崎から門司港までの列車が出るということを聞いて、それに乗って長崎を離れたんです。長崎に移り住んだ時は、父が「長崎駅長に高等官の駅長が来る」ということで、皆さんから歓迎されて来ましたが、長崎駅を出るときは、手の平にわずかな父や母の骨をのせて、弟も妹もおらず、たった一人で長崎駅のホームからその列車に乗って出て行ったのです。
 
父や母の死体をそのままにして出ましたから、骨に土もかぶせてやれなかったんです。その頃もう体力もなかったし、その辺は焼け跡ばかりで土もないしね。ただ骨をたったこれだけ拾って長崎を出たのですから、後悔しています。弟も妹もどこで死んだのか、どうしたのかと思ったら、やはり長崎に行くのは、いまだにつらいです。
 
長崎に移り住んだ家族8人のうち、父、母、妹、弟のあわせて4人が被爆死、和子さんは被爆から1週間後に長崎を離れました。原爆症に苦しみ、生死の境をさまようこともたびたびでした。その後、仕事を求めて大阪に移り住みます。そして被爆者として活動するようになります。
 
【平和への活動】
被爆者といえば断られるため、働くところがありませんでした。大阪に出て、通いのお手伝いさんみたいな仕事をしていましたが、生活は苦しかったです。それで、被爆者ということに私は目覚めたんです。被爆者運動に飛び込んで大阪市内、大阪府に原爆被爆者の会を作るように努力して、各市町村を回って被爆者運動をして大阪府原爆被害者の会を立ち上げ、今は被団協の理事も務めています。日本では聞いてもらえないからと思い、外国を回って運動をしています。被爆者の苦しみを訴えています。
 
被爆者というはなぜこんなに差別を受けるのでしょうか。私は大阪に親せきもいないので、被爆者ということを公に話していますが、私に親や子がいたら被爆者であることを隠します。親も子もない私が、被爆のことを語らなければいけないと決心し、被爆者運動に飛び込みました。
 
外国人の方がよく聞いてくれるので、外国にも行って活動をしています。大阪でも、年間20校ぐらいの小学校から高校を訪問し、子どもたちにも体験を話しています。外国の学生たちも、「原爆のことをよく知らなかった。和子が来てくれてよかった。色々なことを学ぶことができた」と言ってくれます。アメリカでは、学生たちと一緒にワシントンとニューヨークで平和行進をしました。ホワイトハウスまで入れてくれました。大統領には会えませんでしたが。そういう自由な国で、学生たちと交流し、私の心も安らかになりました。
 
一番言いたいことは、もう戦争は二度としないでくれ。核を使わないでくれ。それだけです。息の続く限り、話すことができる限り、足の動くままに、ひ孫のような子どもたちに、「戦争は二度としてはいけない。戦争は罪悪だ」ということを伝えていきたいと思います。平和の尊さを語りついでいくことが私の生涯をかけての仕事だと思っています。
 

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