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原子爆弾体験記 
相原 勝雄(あいはら かつお) 
性別 男性  被爆時年齢 46歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市台屋町[現:広島市南区] 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 大蔵省広島財務局 戦時施設課 課長 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
被爆当時住所 広島市台屋町□□
被爆当時勤先 広島財務局戦時施設課長
現住所      広島市南蟹屋町□□□
勤先               国税庁税務講習所広島支所幹事
 
相原 勝雄
明治三十二年七月□□□□生
(五十歳)

昭和二十年八月六日は晴天で無風昨夜来断続した空襲警報の解除に一息ついた時であつた。

突然まことに突然の出来事である。「マグネシユム」を焚いた様な青白い光閃が屋外一杯に満ちた瞬間物凄い音と共に家屋は倒壊した。其の時自分は「爆弾」と叫んで無意識に右手を頭上にした儘で伏せた。幸い周囲にあつた家具類の支へに依つて僅かに右手と右肩に軽傷を受けたのみであつたが正しく至近弾を受けたものと直感した。

家屋の下敷になつた母を救い表玄関に居た八歳になる三男の姿が見当らないので木材を取り除き漸く死体を捜し出して父親の手に渡した。便所から裸体のまゝで飛び出た父は不思議に微傷だに負はないし又台所に居た妻と次女も無傷であつた。余りにも突然の出来事で家族のものは茫然自失したかの如く可愛い三男の無惨な死体を見ても慟哭する色もなく只周章騒ぎ惑ふのであつた。

其処へ十二歳になる次男が顔面と左半身を火傷して丁度灰でも振り掛けた様に白く皮膚はちぎれてぶら下り、着ていた白いシヤツも破れて素足のまゝで駈け戻つたのである。

てつきり焼夷弾で火傷を受けたものと思つた。頻りに背中が熱い水をかけて呉れと苦しむのを背負つて京橋町の三戸油店へ駈せつけ油を塗布して東練兵場へ向つて避難したのである。

大須賀町の鉄道踏切りを越した処で町内の小松氏の母堂に遭遇したので次男を託して自分は直ちに八丁堀の財務局へ向うべく常盤橋の東詰に至つたのであるが白島方面よりの避難民が続々と此方へ押し寄せて来るし既に川向の辺りは黒煙が濛々として立ち登り殊に浅野縮景園の東川岸には満潮時の川を懸命に泳ぎ渡る者数知れず或は大須賀町三壽園前の河原に憩ふもの等其の混雑は全く言語に絶して何等為すことを知らない惨状であつた。

八丁堀庁舎の職員のこと又堅牢建物として疎開した袋町の日本銀行広島支店に居る局長初め職員のことが気になり安否が知りたいのであるが此の惨状では如何ともする術もなく残念ながら避難民と一処に練兵場に引返したのである。

此の時二葉山塵の東照宮も火焔に包まれていた。東練兵場の射的場附近と軍馬繋留場内には怪我人を連れた避難で一杯空前の惨状に精神的に衝撃を受けた民衆は半ば失神状態となつていたものゝ如く只彼方此方と彷徨して居るに過ぎないので自分も又其の一人であつた。

青天の霹靂と申しますか彼の瞬間より自分の為し来つたことに大きな錯覚を生じ全く思慮を誤つた行動が多かつた様に後から感せられた。其は是非助けねばならない老いた両親や可愛い妻子を其の場へ置去りにして而も瀕死の重傷で今にも倒れんとして居る次男を知人とは云へ彼の場合他人に託して立ち去り東練兵場に来て居りながら其の行方を別に捜し求むる気持にもならないで只猛火に包まれて盛んに燃焦しつゝある市内の惨状を無心に眺めていた気持が未だに不可解でならない。

併ながら彼の時惨死した可愛い三男の死体や全身焼き爛れた生々しい次男や或は老齢の両親と足手間どいの妻子が側に居なかつたことが自分としては、せめてもの微力ながら責任の一端を果し得た端緒になつたのではないかとも思はれる。

此の時に於ける自分の気持と云うか或は決意と申すか死に対する恐怖と執着から薄れていたのではないかと思はれた。

時折亡き二人の可愛い子供の事が思はれてならない。只済まなかつたの気持が沸いて来る。幸ひ父親や妻等が京橋川に這入つて居て運よく助かつて呉れたから安心して居れるが若も死んでいたら大親不孝の罪は免れることが出来なかつたと冷汗して居る。

水都広島の中央市街地は数時間後には殆ど猛火に舐め尽され灰燼に帰して仕舞つた。紅蓮の焔は方向を替へて段々東へ東へと移つていた。丁度午後三時過と思はれる。尾長の国前寺前で敷蒲団を拾つて水に浸し之を頭から覆つて常盤橋を渡り白島の電車終点を経て泉邸前停留所を横切り漸く八丁堀の財務局前に到達した。玄関両側の石門は強烈な火力に依つて中間から折れ自動車ナツシユ号の残骸が横たわつていた。市内に一本しかないと云はれた珍らしい樹木「サイプレス」も竹箒を立てた様に焼き尽され鉄筋の鑑定倉庫が唯一つ崩れずに残つていた。会計課の側に積んであつた石炭は未だ盛んに燃えていた。此の思い出深い庁舎で我々の同僚二十幾人の尊い犠牲者を生じていたとは全く夢にも知らなかつたのである。殊に経理部員の大半が庁舎の下敷となり屋上が二重に覆れたので全く救うことも這い出ることも出来ないで遂いに生ながら葬り去られたと云ふことを後日生残つた広島女学院の某学徒から聞かされて感涙に咽んだのである。

二十幾年の長い歳月勤務した思い出多い我々の職場も一瞬にして壊滅し昨日に変る之の惨状を見守りつゝ立ち去つた。

西練兵場東入口の聯隊区司令部前の防空壕内には屍々累々、瀕死の重傷者が最後の水を求める哀れな声が今尚耳朶に残つている。殊に練兵場は恰も津浪にでも洗い流されたように薙ぎ払はれていた。如何に強烈な火熱であつたかが伺はれる。

紙屋町の停留所を過ぎ漸く袋町の日本銀行広島支店に着いた。南通用門入口には重傷を負つた幾多の職員と全身焼き爛れて苦しむ見知らぬ女車掌や乳呑子を懐いている可憐の婦人等で足の踏み入ることも出来ない。窓より飛び込めば小使室と廊下には死体と沢山の重傷者が鮮血に染まり枕を並べて打ち倒れていた。

此等多数の重傷者は硝子の破片、シヤツター其の他の飛散物で裂傷を負ひ恰も鋭利な刃物で断ち切つた如く無数の傷で断末魔の叫び水を呼ぶ声、苦悶の呻き実に凄惨を極め之が救急措置について全く当惑して仕舞つたのである。

僅かに宿直室の薬品類を捜し集めて塗布し宿直用蒲団、窓掛、椅子覆等を割いて応急の仮繃帯を施したに過ぎず特に出血多量による瀕死の重傷者に何等救急の対策を講じ得なかつたことは洵(まこと)に遺憾に存じて居る次第である。

此の時安否を気遣つていた伊達局長が勃然として窓から飛び入り激励せられたので全く夢かと喜んだのである。伊達局長(元宇和島藩主当時候爵伊達宗彰氏)と佐竹秘書係長(現在福山税務署長)の両氏は逸早く身の危険を犯し紅蓮の焔を浴びながら日本銀行に馳せつけて此の惨状を見るや直ちに広島地方専売局へ赴き救援隊の派遣方を要求せられたのである。半時後には専売局の女医を先頭に二名の救護員が馳せつけて色々手厚い処置が取扱はれ怪我人の一部を専売局の病室へ運搬する等適切な応急措置が構ぜられたのである。

特に伊達局長は部下の身上を思うの余り火焔の中を潜りつゝ、眼を真赤にせられて馳せつけられ而も刻々死の迫つて来る重傷者の看護から或は我々と共に死体の運搬に、さては隠坊の手伝迄なされた真情は永遠に忘れることの出来ない深い印象であつた。

猶此の被爆に際し自分は当然なさねばならない職責の一端を而も充分果し得なかつたことを深く遺憾に思つているにも係らず当時の日本銀行総裁(当時子爵)渋澤敬三氏より左記の如き直筆の信書を寄せられた洵に心苦しく且つ恐縮して居るのである。


貴殿に於かれては去八月六日朝広島市が敵の原子爆弾攻撃を受け未曽有の惨害を生するや一身の危険を冒して日本銀行広島支店に駈付支店長始め多数重傷者の為に挺身救護に当られ為に不幸なる負傷者の災厄拡大を防止するを得たるは一に貴殿の果敢適切なる御高配御処置の結果と真に感銘罷在候加之支店員に代り警備の為特に軍隊の出動を求められ更に七日には重傷を負ひて市中に在りし太田次長を支店迄伴ひ来られ応急手当を施し以て同次長を危地より脱せしめらるゝ等本行支店の為に相賜候絶大なる御援助に対しては洵に感謝に不堪茲に厚く御礼申述度如斯御座候 敬具

昭和二十年八月二十三日
日本銀行
総裁  渋澤 敬三
相原 勝雄 殿
侍史

右は原文のまゝを掲記す(なお当時の秘書係長佐竹氏に対しても大体同様の信書を寄せられた様に記憶している)

次に被爆当時のことを徐(おもむろ)に回顧して見ると爆心地に在つた日本銀行広島支店の一階、二階、地下室が何れも奇蹟的に強烈な猛火から免れ得たことは実に不思議であつて之には色々な原因があつたことゝ推察されるが南方は自然的な空地に恵まれ、西北の家屋は強制疎開に依つて取除かれ加ふるに本建築物が防火対策に万全の考慮を払つて設営せられてあつたことゝ又被爆当時一階、二階の各事務室内に各種庁用物件が比較的僅少であつた関係等に依るものと思考せられる。一面財務局の事務室に当てられた三階が罹災した大なる原因は事務室の狭隘なるに加へ堅牢建物の故を以て書類箱其の他庁用物件を多量に持ち込み各室共物件が充満して居たのと爆心地圏内で華氏二万度と云ふ予想もつかぬ強力な放射熱と猛烈極まる爆風圧を比較的高所に於て受けた関係上燃焼力と破壊力が一段と強烈であつた結果に依るものと考へられる。

又此の時日銀並びに財務局職員が殆ど被爆に依つて即死或は重傷避難等に因つて全然三階に対する防火機能を喪失して仕舞つた点も考慮せられる。

特に此の三階の事務室で我々の同僚九名が重傷の為避難することを得ず無惨の焼死を遂げられたことを考へれば実に断腸の思いがする。
それから爆風圧の強烈であつたと云ふことは申すまでもないが国泰寺境内の墓碑が殆ど倒れ特に天然記念物で樹齢三百年以上を経た老楠の一本が根元から東方墓地に向いて倒れていたのは驚かされた。

又日銀から約三十間も離れた東北方の山陽記念館の屋上から九日の夕刻財務局女事務員三名の死体が発見せられたのであるが之は偶(たまたま)被爆の朝日銀のバルコニーに上つていて遭難したのではないかと想像せられる。他の一人は吹き飛された瞬間何かの障害物で片足の膝関節から鋭利の刃物で切断されたように切り取られて足は便所に吹飛び死体は北側窓下に落ちていた。

又日銀前で遭難した電車が脱線して車掌台が真東に向かつて半回転していた。

猶被爆当時の財務局職員数は約百五十名で其の中九十三名(六割二歩)の犠牲者を出したのであるが其の内訳は左の通りである。


一、庁舎の下敷等に依つて即死又は重傷の為避難することが
   出来ないで其のまゝ焼死したもの 三四名
一、重傷後死亡したもの         一二名
一、負傷後爆弾症で死亡したもの   一一名
一、火傷後爆弾症で死亡したもの   一三名
一、行方不明のもの            一五名
一、無傷後爆弾症で死亡したもの      七名
一、無傷で池中窒息死したもの        一名
                          計 九三名

最後に世界平和の礎石となられた幾多の尊い犠牲者の御冥福と広島市の発展を心から御祈り致します。


相原勝雄

出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)八三~九二ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

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