一、被爆当時住所 市内台屋町□□□□
一、被爆現場 市内鶴見町建物疎開跡
一、現住所 市内第四基町□□□
一、氏名 北山二葉
一、年令 三十八才
一、職業 中国新聞社社員
魂の底から呪いの手でかき廻すやうな無気味な空襲警報のサイレンが鳴り響き、何度か防空壕に入ったり出たり恐怖に戦いた夜がやっと明けて、昭和二十年八月六日の朝。
その日は朝からやけつくやうな暑い天気だった。当時台屋町に住んでいた私はその日隣組から建物疎開の勤労奉仕に出る番に当っていた。中国新聞社に勤めていた夫は前夜の空襲警報で社へかけつけたまままだ帰って来ない。欲しくない朝食を、無理矢理かき込んで、私の留守に帰って来るであらう夫のために食卓を整え、お弁当をテーブルの上に置いて家を出た。
七時半集合。奉仕に行く人は殆んど女ばかりで、中には六十過ぎの老婆さえ混っていた。早朝から警戒警報に入っていたが毎日の事なので特別な危険も感じないでいた。私はお隣りの山口の奥さんと一緒に並んで歩いていたがどちらも疲れているので二人共黙って歩いていた。途中で警報は解除になった。
作業場は鶴見町の建物疎開の跡片付けである。八時から作業開始で私達は列を作って鶴見橋を渡って行った。
私はその時橋の上から眺めた水の流れを今でも忘れない。血みどろな命がけの争闘にあえぐ人間の凄じさに比べて、それは何んと美しく静かな自然の姿であっただらう。悠久な運命にまかせて無心に流れ行く青く澄んだ水の姿を、最後に見た広島の姿として今もありありと思い出すのである。
橋を渡って三十米も歩いた頃、急に飛行機の爆音がひどく鮮明に聞えて来た。警報は解除になっているのに敵機が頭上を飛んでいる事の矛盾にも私達は度々の事でもう慣れっこになっていた。どれ程の高度なのか一寸見当もつかないが、強烈な太陽の光線を受けて銀翼がまばゆいばかりに輝き両手で持てる程小さく見えた。
「きれいねえ。まるで絵のようだわ」と私は隣りに並んでいた山口の奥さんにつぶやくと、「まあ貴女は詩人ねえ。こんな時にそんな事を考へるなんて」と幾分からかい気味に云った。実際その時の空は美しかった。雲一つないまっ青な空に銀色の宝物のやうに美しい飛行機はかすかな爆音を響かせて、ゆっくり東から西へ飛んで行く。私はしばらくの間顔に手をかざして見とれていた。一瞬の後にその美しい飛行機から二十万の命を奪った恐しい原子爆弾が落ちて来やうなどとは夢にも知らないで。
何処かで「落下傘だよ。落下傘が落ちて来る」と云ふ声がした。私は思わずその人の指さす方を向いた丁度その途端である。自分の向いていた方の空が、パアッと光った。その光りはどう説明していいのか分らない。私の目の中で火が燃えたのだろうか。夜の電車が時々放つ無気味な青紫色の光りを何千億倍にしたやうな、と云ってもその通りだとも云えない。
光ったっと思ったのが先か、どーんと云ふ腹の底に響くやうな轟音が先だったのか、瞬間私は何処かにひどくたたきつけられたやうに地に伏っていた。それと同時に頭へも肩へもバラバラと何か降って来る。目の前が真暗で何んにも見えない。私は平素から覚悟していた時が今やって来たと思った。生命の危険にさらされ続けて来た毎日によって、明日をも知れぬ運命の教えに悲しい覚悟の時が遂に来たのだと思って静かに目を閉じた。
その時、急に私は田舎に疎開して行った三人の子の顔がはっきりと目に浮んだ。不意に私はそうしてはいられない衝動ではげしく体を起し初めていた。木片や瓦が手で払っても払っても頭の上にかぶさって来てなかなか体が自由にならない。「死んではならないのだ。子供たちをどうするのだ。夫も死んでいるかも知れない。逃げられる丈は逃げなければ」私は無我夢中で這い出した。
ふと自分で吸う息がとても臭いのに気がついた。「これは黄燐焼い弾と云ふのかも知れない」私は無意識に鼻と口をバンドにはさんでいた手拭いで思い切りぬぐった。その時私は初めて自分の顔に異状を覚えた。ぬぐった顔の皮膚がズルッとはがれた感じにハッとした。
ああ、この手は―右手は第二関節から指の先までズルズルにむけてその皮膚は無気味にたれ下っている。左手は手首から先、五本の指がやっぱり皮膚がむけてしまってズルズルになっている。
「しまった。火傷だっ」と魂の底からうめいた。自分では見る事の出来ない顔もこの通りだろう。さっき夢中で木片を払いのけた時に、火傷した顔も手も傷付けてしまったのだ。もう駄目だ。と其処に坐りこんでしまった。ふと気がつくと周囲に人は一人もいない。一緒に列を組んでいた人は、山口の奥さんはどうしたのだろう。私は急にジッとして居られない恐怖におそわれて夢中で走り出した。走るといっても道路が何処やら木や瓦で埋ってしまって方向の見当さえ立たない。
一瞬前まであれ程晴れた天気だったのにどうした事だらう。丁度黄昏時のやうな薄暗さで眼にもやがかかったやうにぼんやりかすんでいるのは私の気がどうかなったのではあるまいか。キョロキョロあたりを見廻していると橋の上を人影らしいものが走って行く。
「あっそうだ。あれは鶴見橋だ。あれを早く渡らなければ逃げ路がなくなる」
私は木も石も飛び越えて気狂ひのやうに鶴見橋の方へ向って走った。私は其処で何を見ただらう。橋の下の流れに無数の人がうごめいているのだ。男か女かさへ分らない、一様に灰色に顔がむくれ上って、髪の毛は一本一本逆立ちになり両手を空に泳がせながら、言葉にならないうめき声を上げて我も我もと河へ飛び込んでいるのだ。着ているモンペがボロボロになる程の強い光線にあたったのだから体中が無性に苦しい。私も飛び込まうとして身がまえた途端、自分の泳げない事に気がついて又橋の上に戻り、其処に夢遊病者のやうに右往左往している女学生を、「早く早く」とはげましながら橋を渡り、思わず振り返った時爆弾の落ちたのは自分の所だけだと思っていたのに、竹屋町から八丁堀と思われる一面にパッと火の手が吹き上ったのを見た。
私は三人の子の名を交る交る呼びながら、「母ちゃんは死にはしないよ。大丈夫よ」と自分で自分をはげまし続けて走った。今から思えば何処をどう走ったのかどうしても思ひ出せない。ただその途中で見た多くの悲惨な有様は何故かはっきり目の底にやきつくやうに今でも残っている。
何処の辺であったか、顔から肩へかけて真赤に血を浴びた母親らしい人が、物凄い勢で火を吐いている家の中へ「坊や坊や」と連呼しながら飛び込まうとしているのを男の人が必死に抱き止めている。母親は狂ったやうに「離して、離して、坊やが焼け死ぬよう」と叫び狂っている阿修羅のやうな凄惨な姿は今でもはっきり目に残っていて忘れられない。あああの母親は今頃どんな気持ちで焼死んだ子の追善をしている事だらうか。
電車通りを通ったやうな気がするから多分私は東練兵場への道を間違へないで的場通りを走ったのだらう。荒神橋を渡る時(その時はそれが何処の橋か分らなかった)あの堅いコンクリートと鉄筋のランカンが爆風で飛ばされたのだらう無くなってしまって、ひどく不安定な橋になっていた。橋の下にはまるで犬か猫かのやうに、体のところどころにボロのやうな布片(ぬのぎれ)のまつわりついた死骸がいくつもいくつも浮いていた(私にはたしかにそう見えた)。岸に近い浅瀬に仰向けになった女の胸の真中をえぐられて血がふき出ている恐しい有様、こんな無惨なことがこの世の出来事だらうか。
幼い時よく祖母から悪い事をしたら地獄に落ちるんだよと聞かされたその地獄が今この世に突然現われたのではなからうか。いつか私は練兵場の真中に坐りこんでしまった。
鶴見町から東練兵場までどんなに道を間違えたとしても、時間にすれば二時間もかかってはいない筈だのにその時の明るさは、直後よりはいく分明るくなっていたがやっぱり太陽は深い雲の奥にあるように薄暗くて蔭惨だった。
私はその頃から自分の火傷が少しづつ痛むやうな気がして来た。しかしそれは普通の火傷の耐えられないやうな激痛と違って何か自分の体でない遠い所の痛みが伝って来るような鈍痛だった。両手の皮膚のむけた所は黄色な分泌物がにじみ出て、それが小豆粒程の玉になってボトボト落ちている。顔もきっとこの通りむごたらしい傷になっているのであらう。まわりには奉仕隊の幼い女学生や中学生が地面をころがりながら「お母さんお母さん」と気狂ひのように泣き叫んでいる。その二目と見られない火傷や、血だるまの無惨な姿を見ていると、私は何ものへぶつかっていいか分らない怒りが腹の底からこみ上げて来るのだった。こんな幼い者まで―。
一体誰が悪いのだ。こうなる運命と知りながらなほ戦争を止めようとしなかった責任は誰が負うべきか。私は母を求めながらいつか一人二人息が絶えていく学生達を見ながら、どうしてやるすべもなかった。
私は消え入りさうな心と体をはげまして人の後について山の手へかかった。今思へば午後の三時頃にもなっていただらうか。随分永い間虚脱したやうに練兵の真中に坐っていたものだ。視力の弱まって来た眼の、見渡す限りもうその時は駅も愛宕町も一面火の海だった。よくもよくも逃れ来たものよ。今まで彼処にぐづぐづしていたら必ず焼死はまぬがれなかっただらう。
だんだん顔がこわばって来て両手をそっと頬にあて、離してその空間を計って見ればその広さは二倍にもなっているやうな気がする。視界がだんだん狭くなって来た。ああ今に目が見えなくなる。折角此処まで逃れたけれ共、所詮私は死ぬ運命だったのだらうか。山の裾を廻って戸坂村へ出る道路を怪我人を載せた担架がいく組もいく組も通る。荷車やトラックに、獣めいた感じのする怪我人や死体を一杯のせて走り去って行く道の両側を大勢の人が夢遊病者のやうに右往左往している。
私は目の見えるうちに、トラックに轢かれない安全な場所を求めて静かに運命に身をまかすより外仕方のない自分を覚悟した。わづかに残っている視野のあちこちを見廻している時、私其処にうづくまっている姉を発見したのだ。
「お姉さん、お姉さん助けてー。」私は思わづ走り寄った。姉は初め不思議さうに、次に私と分ったのだらう。
「ああ二葉ちゃん、何んと云ふ姿にー」姉は声も出ないで私を抱き寄せた。
「姉さん目が見えなくなった。子供の処まで連れて帰って」姉はオロオロしながら「大丈夫死なせはしないよ。きっと連れて帰って上げる」と云ひながら私の傷を見て「可哀さうに、こんな浅さましい姿になって」と涙をこぼして私をやわらかい草の上に寝すませてくれた。私は肉親と云ふ者のありがたさをこの時程力強く思った事はなかった。この時姉に逢わなかったら私は決して生きられる身ではなかった。姉は頭の中と足に小さい傷を負っていたが大した傷ではなかった。
私は姉の側に寝ているうちに気がゆるんだのか目もすっかり見えなくなり、足も立たなくなってしまった。もう本当の黄昏が迫ったのだらう焼けてボロボロになったモンペだけの体が少し寒くなって来たやうだ。姉は何処からか小さい野菜車を借りて来て、私を載せてそこから一里もある矢賀小学校の収容所に行くと云う。視力と一緒に私の気力もだんだん弱まって行くのが分るやうな気がする。
「死にたくない。子供に逢わないうちは死にたくない」私は無性に命が惜しかった。途中で何度も飛行機におびやかされ、又山へ引き返したりしながら矢賀の小学校に着いたのはもう夜になっていたさうな。私は其処に着いた頃から記憶が薄れてはっきり思ひ出せない。収容所にはもう数え切れない程の怪我人と死体が重り合っていたさうな。夜中にうめいていた人が、ああこの人もこの人もと云う程翌朝は冷めたい死骸になっていたさうである。二夜をその収容所で明した間の姉の苦労は云い尽せないと思う。意識不明の私は二晩の間中、「早く子供の処へ連れて帰って」と叫び続けたさうである。医師が無理だと云うのを、同じ死ぬなら子供の処でと、強って願って担架のまま芸備線に乗せられて神杉村の親せきに帰ったのが八日。田舎の医師も診てすぐ「これはひどい」と絶望を宣告したさうである。その晩其処から二里離れた親せきに疎開していた子供たちがはせつけた。
「お母ちゃん」と叫んでとりすがった子供の声を聞いた時、私は十万億土の地獄から魂がよび返されたやうな気がした。
「母ちゃんは大丈夫よ。傷は小さいのよ」と泣きながらすがりついて来るなつかしい子の匂いをかいだ。 その夜から十四才の長女の直子は、顔と両手をほう帯につつまれた身動きの出来ない母の側から離れなかった。
田舎に帰って四日目の十一日、半ばあきらめなければならないと、ひそかに覚悟していた夫が私の後を追って帰って来た。子供たちは泣きながら父にとりすがって喜んだ。その頃一番重態を続けていた私は、「ああこれでよかった。母がなくなっても父だけは残ってくれる」とよろこんだのも束の間、傷らしい傷もなかった夫は帰って三日目の十三日の朝血を吐きながら、明日をも知れぬ妻と三人の愛し児を残して淋みしく死んでいった。ああ思へば十六年連添った夫婦でありながら妻に死水もとって貰へづ逝った夫、仕事のために生れて来た程仕事のすきだったのにこれから多くのなすべき事を残して逝った夫の気持ちを考へるとたまらない気がする。
私の枕元に「お母ちゃん」と云って坐った坊やの声、あの時の血の出るやうな悲しさは今思ひ出しても涙があふれて来る。
「ああ哀れな子たち。私は死んではならない、この子たちを孤児にする事が出来るものか」私は一心に夫の霊に祈った。何度も何度も絶望を宣告されながら私は不思議に一命をとり止める事が出来た。
目は案外早く開いて二十日目頃にはぼんやり我が子の顔も見える程になったけれ共、顔と手の火傷は、夏が過ぎ秋が来ても、傷口がドロドロに肉が溶けて、熟したトマトを突きくづしたやうになって皮膚が出来なかった。床にやっと身を起せるやうになったのが十月初め、足が立って歩けるやうになったのは十二月に入ってからであった。正月過ぎてやっとほう帯がとれるようになったけれ共、私の顔と手は昔の私ではなかった。
左の耳は耳たぶが半分程に縮ってしまい、左の頬から口と喉へかけて、手の平程のケロイドが出来て引きつってしまった。右の手は第二関節から小指まで長い五センチ位のケロイドが出来、左手は指のつけ根の所で五本の指が寄り集ってしまった。
私は生れもつかぬ不具な体となり、幼い三人の子を抱えてこれから先どうして生きて行けばいいのか途方にくれてしまった。戦後の物価高に髪ふり乱すやうな生活難が襲いかかって来た。
二十二年四月文字通り母子路頭に迷う一歩手前で、生前夫が勤めていた中国新聞社に救われて働かせて貰う事になった時の嬉しさは終生忘れ得ないものである。
思へばあの日から早五年、みにくい不自由な体を恥じと屈辱に耐えながら、ただ哀れな子たちの為に、ただその為に働き続けている。
耳をすませば何処からか二十万の慟哭が聞えて来るやうな気がする。国際情勢のひっ迫した今日、願はくは、原爆の犠牲により平和のために捨てた尊い二十万の命が決して無駄でなかった事が世界中に示されるように―
二五、七、一、
出典 『原爆体験記募集原稿 NO1』 広島市 平成二七年(二〇一五年)一九八~二一五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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