昭和二十年八月六日、その日は暑く、朝から上天気で雲一つない日本晴れであった。
その頃広島女学院の二年生だった私は、雑魚場町に家屋疎開の跡かたづけの作業に行かなければならなかった。
「おはよう」、「おはよう」、校庭に集まった先生と生徒。これが最後の朝として迎えなければならないと、誰が想像し得たでしょう。
「花も蕾も若桜」と元気に歌いながら雑魚場町に向かって学校を出発したのが午前七時半、着いたのは八時過ぎであったでしょうか。
その頃いつも携帯していた救急袋を下に置いて仕事に立った時である。誰かの「B29よ」という叫び声が終るか終らないかの中に、一瞬閃光がきらめいて、私は意識を失った。
それから、どのくらいの時を経過していたのであろうか。不意に気がつくと、あたりは真暗で、私は地上に押し倒されていた。もうもうと立ちこめる埃に息もできない有様であった。ああ、どうしよう。私は今まで一体どうしていたのであろう。不安と淋しさで胸が一杯であった。起き上ろうとすると、足の方で誰か人の身体に触る感じがした。「お母ちゃん、お母ちゃん、助けて」と泣き叫ぶ声。私も泣いていた。自分はこのまま死んで行くのかも知れない。灰の中に身を焼いてしまうのかしら。無意識に「死にたくない」とあせる心。どっちに逃げてよいか見当がつかない。その間に目の前が少しずつ明るくなった。
友の姿を見て驚いた。血まみれになっている人、火傷して皮膚が真黒になっている人、髪の毛は逆立ってぼうぼうになっていた。普通なら、すぐ目をそらせたくなるような姿である。私の黒く焼けただれた手からは、油が汗のように流れている。異様な臭。
このままここにいてはだめだ。皆んなの逃げる方向にとぼとぼついて行った。あちらこちらで助けを求める叫び声。コンクリートの壁に下半身下敷になって泣き叫んでいる人。家屋の下の方から「助けてくれ、助けてくれ」という叫び声。しかし、誰もそんなことには無頓着で走り過ぎていってしまう。
それからどのくらいさまよい歩いた事か。変り果てた街は方角も何も分らなかった。
ある橋のところに出た。それは後になって知ったのだが、比治山橋であった。電柱につながれた馬が、血みどろになってあばれていた。暑い日光を浴びながら、跣足でその橋を渡り、川端に腰をおろした。すると、他の学校の女学生達が、これも哀れな姿で全身に火傷をおって、「水が飲みたい」、「水が飲みたい」と言って、きたない川の水を飲んでいる。橋の上の方から「水を飲むと死ぬぞ」と誰かがどなる声がする。苦しいのであろうか、一人の女学生は川の中に入って行って、「早く死にたい」と泣き叫んでいた。
私は、丁度そこに来合せた救助隊の自動車に乗せられて宇品に運ばれ、船で似島に避難させられた。船の中では、全身裸になって火傷した一人の婦人が狂ったように身をもだえて苦しんでいた。似島に着いて丁寧に治療を受け、ここで五日間、私の一生忘れることの出来ない生活が始まったのである。
板の間に筵を敷き、その上に毛布を一枚敷いて雑魚寝である。あっちこっちにもつぎつぎに死んで行く人々。それが毎日で、死人と生きている人との区別がつかないほどである。
二日目のことである。隣に寝ていたお姉さんらしい人が、今にも息をひきとろうとしたとき、ただ一言「お母さん」といって死んでいかれた。丁度その時、一人の婦人が入ってこられた。その人のお母さんであった。「お母さんは、貴女をこれまでずっと探しましたのよ。早く来てあげればよかったのね。少しおそかったのね」と死骸に取りすがって泣いていらっしゃった。皆もらい泣きをした。私も早く父母や兄にあいたい。家に帰りたい。一刻も早くと思ってもどうすることもできなかった。
五日目の昼過ぎ、突然私の名を呼ぶ声に目をあけた。あ、お父様、幾日ぶりにお会いできたのかしら。目から涙が流れた。父も男泣きに泣いて、その間一言も口をきく事ができない。ただ、「よかった」、「よかった」と泣くばかりである。この時、父ともしめぐりあうことができなかったら、一体どうなったろう?今思ってもぞっとするのである。
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