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幸本 由雄(こうもと よしお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 日本発送電(株) 中国支店(広島市大手町七丁目[現:広島市中区大手町三丁目]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 日本発送電(株) 中国支店 土木部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
現住所  広島市大芝町□□□□□□□□
氏名   幸本 由雄
生年月日 □□□□□□□□生
原子爆弾当時(八月六日午前八時十五分)
居所  広島市大手町七丁目(万代橋河畔)
     日本発送電株式会社中国支店土木部工事課
職業  同会社 技手補

私事原爆以来五年。中国新聞紙上にて貴所にて御応募されてゐられます原爆体験記を拙い文章ながら三十枚に綴りました何かと御参考にして下さいませ。世界人類幸福の為、多くの人にこの広島の状況を御発表あらん事を御祈り致します。私はこの原稿は原爆の翌年二十一年の八月六日に思ひ起し、子孫に伝へる為に、〝人生追録〟として書き残して居ます。又原子爆弾当時の紀念となる珍器を一つ残して居ます。それは四個湯呑は原子焼になり重なり中間の一つは立った儘になって居ますものです。

無気味なサイレンの音は、夏の夜半をけたたましく鳴り渡った。〝空襲警報だ〟温室の如く蒸し熱い家の中、父の声は家内一同の命を抱擁せんが一念の叫びであった。私の心臓はどきんと鼓動を打った。しかし無意識とは言ふもの枕元に置いて居た常備の貴重品を胸元にすばやく抱へ込み、弟二人をゆすり起こししばし立たずんだ。戸外ではがやがや人の叫び声がしきりに耳に入って来る。大きく深呼吸をする生気に帰る。雨戸を開く。青白い無気味な月光がさっと流れ込む。弟二人達は隅でもじもじやって居る。父が続いて出てくる。表の縁に四人は立つ月の光は遠慮なく投げつける。私と弟の目が合った。空襲の恐怖で口びるは青白い月光と共死人同様に見られる。二十四時はもう廻って居るであらうか?非常なる空腹感がさして来た。頭が非常に重い。恐しい爆弾、火災、破壊、死人・・・・を思ふ時、我生き伸びんと慾す事を天に心から祈る。けれども自然の力を待つばかりなのである。唯一人として言葉を掛けない。夏虫の声が人間界の魔の戦も知らず戦前の浴衣着に団羽(ウチワ)を持ち一家談楽に興ずる頃の音色と一つとして変わらず鳴き続けて夜長を告げているものの、今夜は一きは淋しいものである。そうだ、母は、妹は、次々と我に帰る共に頭の中へ想ひ起せる。末妹は病気の為、母と妹に看病され入院生活を続けて居るのだ。あの優しい可愛らしい人形の様な美しいマブタ、目、マツ毛小さな口元、愛すればこそ母達は全快を祈って枕元に居られるのだ。ああこの病院にも空襲は訪づれたのだ。今は何をして居る事であらうや。灯の暗い闇夜の中で、あの月光。病室にも、あらはに照して居る事であらう。「苦しい、痛い痛い」の声「じきよくなるよ、よしよし」母の姿、妹二人の姿が目の前をちらつき、がらりとした病室に聞かれた声は私の鼓膜に呼び起こされて来る。頭を垂れ、庭に照す月、夜風に柔かに動く木の葉ずれの音、その度に動く影、総てが沈黙なのだ。頭を上げる。前方の高い鉄柱は異様に高く遠くの山は大暴風雨の終った様、何か一事ありげに静まり返って居る。ただ茫然と夜の大空を見上げて居るのだ。片手にて眼をこする。勢のない「サイレン」の音がかすかに耳に入る。手を下げる目を大きく吊り上げる。途端に威勢の良い空襲解除の音。涼しい風が頬をかすめる。大きな呼吸をはく。病人のカンフル、旅人の宿、日中の日蔭。求むる心はかやうな物だ。私は弟を連れ暗い室に入る。二人は毬の様に転げ込む。何の罪もないこの小供達に、何の因果で苦しめるのであらう。しかし風雨に露らされるあの野花でさへも美しい花を咲かすではないか。ああこれも何かの試練か?いやそうではないのだ。大人の世界、小供の世界、若桜の新芽を次々と取り去って行くのは唯、何物であらうや。子供達の嬉しい伸び伸びと生長して行く道は何故に見出されないのであらうか。寝床に就いたものの寝つかれない。明日の会社への勤め、ずっと何時やって来るや知れない空襲警報に対する構へ。夏の太陽にやせるこの私、連日の空襲に体力の消耗は朝々の鏡の前ではっきりと知られるのだ。在学中の「常在戦場」「必勝の信念」軍の命令何一つ果さなくてはならない義務なのだ。開戦以来の戦果大々と放送されたニュース、空への希望に燃へて、頭はますます澄んで行く。一九四五年の春の山陰方面より南下したP五一の野村証券ビル、大手町の民家五発の市内投下の爆撃、実地を目撃した空襲の恐しさ、あの悲惨な情景、次々と読み返らされる。一九四五年八月六日、昨夜の空襲爆撃は何処であったらうか。時計は六時を勢よく告げる。弟二人は変りなく夢につつまれ、すやすやと眠ってゐる。二男は通学服に着替へ、市内家屋疎開の強制勤労奉仕に出て行く。何と可愛想ではないか。夏休みも返上、なれない重労働と一日を戦うのである。健全な楽しい遊びもない今日、何の楽しみあってや。末弟は口笛を吹いて玄関より姿を消して行った。私も父に先立ち白シャツと白ズボン、巻脚絆に身を固めて、朝のさわやかな太陽を受けて家を飛び出した。会社へと足を早める。又も魔のサイレンだ。いきなり空襲だ。空を見上げる、金属音、B29空の要塞なのだ。あの快晴な日一万米に近い大空に銀色の雄姿、長い白色の飛行雲を引いてゐる姿、世界を制覇したアメリカ空軍の花形であらう。又も南方基地、サイパンかグアムか。今日こそは何事かあらう。そのはず警報は解除されたものの不気味な音は未に空に響き渡って居る。私はどんどんと急いだ。破壊よりまのかれてゐる京都、広島、しかも軍都、非常に恐しいものである。八月の太陽はじりじりと朝の広島、人と言はず、家と言はず、並木路と言はず照りつける。横川の電停に来、多くの行列の後につく。カーキ色の軍のトラックは軍都広島と言はれただけに、大量の軍事物資の疎開に次へ次へと北へ列を組んでエンヂンの音をたて疾走して行く。赤の手信号もあざやかなものである。又一面市内の繁華街より、各自思ひ思ひの荷物を車に大なり小なり乗せ、財産を空襲より去るべく、男女老若を問はず、汗と塵に包まれて行く姿も皆総てが緊張して居るのだ。超満員の電車にもまれ新築も間もない、市内でも有数な近代設備を完備した日発の事務所に着く。新しい机、新しい講堂、我が国産業の源、高度な文化生活の源、電源開発の会社、希望ある職、楽しめる職場なのであった。しかも明るい下階の事務室、何時もK嬢の挿し入れる花。私の習慣、室に入って時計を見上げる八時二分前、やっと遅刻をまのかれた。しかし今朝はまだ四五人の顔しか見られない。「お早う」とA嬢に呼びかける。愛想もなさそうな今朝の挨拶、室外へと出て行く、同級生の机のそばへ来て、机の上へどっかと腰を下し、朝の一問答だ。後輩もよって来る。昨夜来のとりとめのつかぬ話。皆元気のない顔つき、体つきである。「がやがや」と話声「笑声」が開かれたと思途端「ピカリ」と一瞬室内が光った。丁度室内で撮影の時、マグネシゥムを使った時の如く、と同時に「どんどん」「がたん」「どをうー」社屋は倒壊してしまったのだ。もうこの何秒かの出来事は筆舌で現す事は不可能な事実であったからである。百雷が一時に頭上に落ちた様なものなのだ。私自身の体は一体どう言う様になったのか意識不明なのだ。「ズン、ズン、ズン、ズン、ズン」耳鳴りを覚えた、数十門の巨砲を一斉に耳元で打ち出した様に、背中は大きなむちでなぶられた様、十数貫の体へ何百貫もの重量物が背中にかぶさって居る様な思ひなのだ。四囲は真暗闇の中、古臭い気味の悪い臭が鼻をつく、背中の痛みで耐らない、手も足も全身を動かす事が出来ない。一向眼前の変化が見当付かない。下腹に力を入れる事も不可能だ、呼吸が非常に苦しい。気味の悪い音が、次から次から聞かれ、その音も静まる。片手を動かす事が出来た、心臓は滝の様に高鳴る、背中は濡れた感がする、きっと出血であらう。大きい呼吸をする重量感で背の痛みは一層感ぜられる。五十米北方の変電所がドイツの誇るV1ロケットか高性能爆弾の命中だと直感した。女事務員の「助けて、助けて」の叫び声、あわれな声が耳に入る。四面は波打った様に静まり返ったからだ。「おい助けてくれ」「痛い痛い、うんうん」「助け助け」悲想な声だ、私はふと「おいYよ、Yよ」全身出し得る声で叫んだ。「元気だぞ」「逃げようぞ」の答。私も「逃げようぞ」と続けた。しかし続いて何の応答も何い。「うん―、痛い」のかすれ声、最後の最後に残した声であらう。けれども、唯のうごめく声か、見当のつくはずはない。悲想な声の連続だ。苦しい叫び声も姿第に小くなって行く、圧死して行くのだ。大量の出血と身の自由を失ふのである。偉大なる衝撃に全身が振へ始めた。頭をやっと上へ向ける事を得た、暗黒の中より一点の光を見出す事が出来た。その一点がやがて次第に一尺位角に拡がった。何と明い事ではないか。あ‼火に廻られたのだ。我は命も有り生きて居るのだ。逃げなくてはならない。非常に心臓は高鳴る、尊いこの体、しかしここで白骨と化すはけにはならない。「うん」私は歯を喰ひしばる、猛火の熱風が頭上をはってゐる感がする。両手を合す、もうだめだ、自分はここで死んで行くのか、残念で耐らない、目を閉じる。父母達の「永遠の幸福を祈る」人類の永久の平和と幸福の為にこの身を捧げるのだ、天よ照覧あれ、目を開く、何の力か一尺の穴へ私の両手は伸び始めた、全身の力にて両ひじを折って体を持ち上げる様にした。上半身を出す事が出来た、向は火の海だ、熱風はしきりに吹きつける。全身脱出に成功。無意識に倒れた家屋の凸凹の上を走り始めた、何んと真黒い雨の様なものが不思議に降りかかって来る。七つの川に恵まれた広島。幸にも私達の事務所が河畔に立って居たので命を引き止めたのだ。川岸までやっと足を運ぶ事が出来た。丁度満潮なのである。黒い大粒の雨がしきりに降る、対岸の県庁舎附近は一面火の海だ。何と恐しいではないか、北も西も東も、朝一雲もなく晴れた空も真黒である。目前が霞んだり明くなったりする。「どん、どん」時たま、何ものが爆弾が発裂するやうな音が聞かれる。川堤の上に立って居て橋(万代橋)を見ると、又恐しいではないか、その上を着物はぼろぼろになり、頭の髪は垂れ下り裸体同然のや、みにくい女の裸体姿、男も老若を問はず十数人が右左に動いて居る。手すりに立って居るもの、横に倒れて居る者、見るに痛々しい惨景である。魔の地獄の相なのだ、私のズボンは泥と塵でよごれ、上衣の片袖は落ち、背中や胸は、ちぎれちぎれになり、友人であらうか、鮮血がすすれたシャツに悲宋な跡を止めて居るのには驚いた。

何時までもここに辛抱する事は出来ない。安全地に逃れなくてはならない。そうだ川だ、頭から突込む。川下へ川下へと泳ぐのだ。何と目の前には木の折れたのにぶら下った儘二人が死んで流されて居る。皆あこがれの助け、川へと突込み、頼りとして居た木と共に目を閉ぢたのであらう。後から何として集めたか、焼け落ちた黒い木で筏を作り上に四人が乗ってゐる。流され私のそばに来る片足を切断されてゐるらしい、古臭さうな布きれで包み、全身は血だらけになって転んでゐる。何と気の毒な姿であらう。水の流れにまかせ、流され、総てが無言の連続なのだ。両岸は真紅に燃え上って居る。岸伝ひに少数の人が右往左往して居るのだ。ただ逃げ場を失は無い様安全地へ安全地へと苦しい現状のなのだ。私も力泳力泳又力泳、やっと両岸火の燃えて居ないマッチ箱を上から押しつぶした様な家々の見られる所まで来た。家屋は皆折重って倒れて居るのだ。南大橋の上も東から西へ、西から東へと移動して居る人々の姿も見られた。ああ橋の下から火を吹いて居るのだ。もやもやと紅の火は上へ上へと移って行くではないか、命とも頼むこの橋も落ちるのだ、川下より快速艇が勢よく上ってくる。私は東岸へと泳ぎさけた。先ず気に止り、目に止ったのは皆驚く姿ばかりである。戦争とはこんなものであらうか、戦地での兵士はこんな悲惨な境地に於かれて居たのであらうか―。空襲の恐ろしさには生死の境界はなかったのだ。この二重堤防の石畳の上には、かんと照り付ける夏の太陽、折り畳み死んで居る無ざんな姿、胸を鼓動に高め、大の字になり目を閉じ、真青い顔の半死の人、いや母親であらうか、片手は切断され、ぼろぼろに塵と汗にまぬれた着物の布ぎれで、真赤になり、染めつくされたあの手、白青い顔、ものすごく乱れた髪、その傍で二、三才になる坊やらしきもの、泣き立てて居るではないか。私はその母親に見とれてしまった。真裸になって居る坊やを、片手に引き寄せて「母の愛」かくものであらうか。破れた着物の中から坊やに乳房を与へて居るではないか。私は涙が落ちたのだ。しっかりと抱きしめた片手から坊やの背中を伝って落ちる鮮血が伝って落ちて行く。この目でしっかりと見た、美しい天使の姿、愛の母性愛の情景、永久に私は忘れる事は出来ない。又その向うでは横になった儘、口から汚物を出し死んで居る。これらの景を全部書き添へる事も出来ない。十八、九才になる娘が「水、水、水」「寝むたい寝むたい」と叫ぶ。私はどうする事も出来ない。そっと近寄る。又叫ぶ、此れが人生最後の言葉かも知れない、両手で川の水をすくて、口元にもって行く、しかし彼女はもう喰む気力はないのだ。水を落とす、彼女の手を取る「うん、うん」助けを求める言葉、彼女は目を閉じてしまった。何を為す事も不可能なのだ。最後の「水」の言葉、私は再び彼女に海水を口元に注ぎ私も目を閉じ、彼女の冥福を祈った。「空襲だ、空襲だ」「敵機来襲」の声、何処からかの伝言がくる。この石畳、蔭のないここ、しかも橋の元、必ず空襲か機銃掃射の的になるのだ。私は何時迄もここに居るわけにはゆかない。彼女とも、あの尊い母親とも別れた。

再び私は岸を離れた。先程から消火につとめた快速艇は完全に消し止めた。上流へ全速力で疾走する。私の体の力も次第に抜けて行きそうだ、安全地求めに力泳するより仕方がない。三角洲の先端を廻らう、後を振り返る北方はしきりに燃えてゐる、小舟一隻とも出て来ない、安芸の小富士が手に取る様に見えるだけである、宇品港御用船は何処へ姿を消したのであらう事よ、吉島の飛行場を頭に見て、岸伝へに江波の気象台のある所に来た。阿修羅の死墓より見事に脱出する事が出来た。ずぶぬれになった体を上陸させた。とぼとぼと歩く。犬の子一匹見当らない。射的場の広場に出た、高い堤の下へ転げてしまった。夏風に芦の葉が白い波を打ってゐる。太陽は遠慮なく照り付けてくる。非常に胸が苦しい、日射を去ける為両手を顔の上に持ってやる、可愛い坊や、母の姿、母は永遠の人となられる事であらう。私は強行力泳の為寝込んでしまった。何時間過ぎたであらうやー。眼を覚す、頭が鞭で敲きつけられた様に痛む、何んと驚いた、腹の中の唖物を全部吐き出して居るのだ、体を起す、左手で口の辺りを左右になでる、口中が乾いて耐らない「水、水」私も叫びたい。腰を上げる。両足がむっと膨れたやうで重苦しい。ぶるぶると振へる。素足が熱くて耐らない。西の空には夕立雲が、むくむくと怖い程、こちらを向いて居るのが目に痛く沁み込む。あちらでも、こちらでも草むら道端に死人がみにくい姿で転んで居る。父も母も弟も妹も皆死で行ったであらう。しかし末弟は果敢なに生きて居る事を頼りに早く会いたい気持ちで一杯になって来た。もう我慢して居られない、私は十二間道路を、とぼとぼと歩いた。電車の架線は皆落ちて地びき網を拡げた様、電柱は倒れ、並木は倒れ、北へ北へと歩くにつれ次第にその状況は恐しさを増して行くばかりである。五、六百米も進む、電柱が立った儘、上から燃え下がってゐる。大分下火にはなってゐるらしい。とは言へ熱風はしきりに頬に当る、風呂に入った様に蒸し返す。火のアーチをくぐり抜けるのだ。誰が落したか、鮮血のついた上衣を落して何処かで死んで行ったのであらう。私は熱くて耐らないので、それを拾ひ上げて頭にかぶる。どんどん北へ進む、死人の姿は一つとして見られない、皆下敷になり焼け死んだのであらうか、いや逃げたのであらうか、ああ「水、水」我心を倒す事も出来ない。一個の大水槽に水を求めに三人頭を突込んで死んで居る、皆裸体で、全身は焼けただれ、女性の長い髪が前に垂れ、水の上に焼けちぎれた儘、ぶっ切られて居る。肩をひそめ歯を喰ひしばり、その一人は頭をやられ血の跡が塵と共に赤黒く盛り上がって居る。見苦しい水槽にて上衣を濡らし、又頭にかむる。白骨となった残骸を飛び越へ、電線に躓き、膝をこすり、又起き、あの醜い恐しい死人の相が頭に残り、後から後から追ひかけられて居る様な気持になる。十日市電車交叉点を過ぎ、工場や風呂屋の高い煙突は真ん中から折れ鉄骨をあらはにむき出し、その間を火煙がなめたり、又逃げたりしてゐる。鼻の臭感はとっくになくなってしまった。横川の釣橋が見えた。焼け落ちないで生存者の命の綱渡しとなってゐる。この附近はすっかり焼け落ちてしまって、白煙が、もうもうと立ち上がってゐる。その間を、ちらりちらりと残骸を残したのが見られる。橋を渡り、電車道に出る。一台の電車は真赤に焼け色が変り、感電死したのか車内や窓に真黒に焼けた死人が憐れにごろごろしてゐる。此の世の生ある人間として目を閉じざるを得なかった。焼け残った黒焼の木が無造作に立ち、白煙は朝もやの様に立ってゐる。北へ北へと焼け落ちた惨景を見ながら、多くの避難の人々に混って、焼け付く様なアスファルト道を歩く。歩くにつれて下腹がはってならない。新庄の鎮守の森の青々とした姿が初めて眼に止った。途端に私は喜び勇んだ。我が家の安否で心は高鳴る。末弟の姿が見られた。父も見えた。私は走った。三人涙の対面だ。手を取り合って喜んだのだ。頭も頬も興奮の為「話す」事も出来ないのだ。近所の人々我子の如く喜んで下さったのだ。近所の人々に連れられて家に帰る。私は驚く。畑の「高粱」「きび」「南瓜畠の葉」が黄色くやけただれ、黄色のエナメルを落した様なのだ。庭木も同じ事だ。午後の四時頃だそうだ。ああ恐しい八時間は過ぎ去り、私は死地から解放されてしまったのだ。心も頭もざはついて落つ着かない。我家の屋根瓦は全部吹き飛んで落ち、建具家具は滅茶苦茶に損され木の葉を飛ばした様になってゐる。天井は、破羅破羅に落ち、所々青空が見られるのだ。総てが木端微塵だ。これがどうなる事であらう。しかし、火災よりはまのかれたのだ。玄関の土間に腰を初めて下す事が出来た。大望の「水」新鮮な冷い井戸の水も初めて口にする事も出来たのだ。仮寝だ。大声の人の言葉にはっと目がさめ、我に初めて返った。夕食をすすめられたが受け容れる気力はなかった。太陽は瀬戸の山に落ち、その後の夕焼けが美しく訪れたのだ。竹藪には大勢の人々が避難の為に一夜を明すのだ。一人裏縁に座り非常に淋しい胸の中で一杯になった。誰かが裏戸を開いた。死したとあきらめ〝母〟の姿だ。ただ長女、次女を見守る事も出来ず、病院より脱出されたのだ。それも洗たくの為、川の近くに居られた故だ、疲れきった姿。倒壊した病棟の下敷となった愛子の死を見届ける事も、救出する事も出来なかった母の心、涙に暮れて行くのであった。日はとっぷりと暮れてしまった。今夜も空襲があるかも知れない。寝具を我家の畠に出し、建具の折で、支柱とし蚊帳を釣り仮寝するのだ。東の山は盛んに燃えてゐる。南の町の中は赤く昼の様に明るい。夜も更けて涼しくなって行く。一日の魔との戦ひが走馬灯の様に頭の中を走る。空襲とはこんなものであらうか。戦争とは―。人類の戦いは―。何故に日本は戦争を起したのか?平和な動物の夏虫は蚊帳の外で「チチ」「チチ」と。
    
第二部

天高き秋空、太陽が落ちて行くにつれて、冷たい風と共に夕暮れが迫って来た。明日は快い天気であらう。西空の山の上には、真赤な夕焼けがかかり、次第に赤い雲も薄暗くなって行く、今夜は約束の日だ。小車を小屋より取り出し、秋の夜道をゴロゴロ転して行った。広島の夜、非常に気味の悪い恐しい夜なのである。一カ月前の原子爆弾の跡、まだ昼間に見ても痛ましい哀れな情景なのである。増してや夜の恐しさ、八月十五日天皇終戦の宣書は出た。日本は枢軸国に降伏したのだ。長い二千有余年の歴史も軍国主義の為に倒れたのだ。霞んだ朧月夜だ。淡い光を夜の広島に投げつけ、我々の道しるべともしてくれるのだ。総てが異様な姿なのである。焼け残った木、燃えきらず立残って居る電柱、コンクリートは落ち鉄骨は飴の様になり、元の姿も吹き飛び後型もなくなった煉瓦建の家、焼石、焼けて投げ出された自転車、灰土の中や地上に露された焼鍍板、きれぎれに切断され、もつれ糸の様な電線、総てが焼土と化してしまったのだ。此れ等が朧月に照らされ恐しい姿となって残されて居るのだ。妹二人、弟も死んだのだ、妹二人は病室(舟入町)の一瞬の倒壊により逃げ場を失って、二人が固く手を取り抱き合って、折り重って死んで天国の神となったのである。父は現場より原爆二日後に、焼け切れず黒くなった彼女等の衣服の切れ端と白骨となった我子を小さな真白いハンカチに持って家に帰られたのだ。父の帰り路、家で我子の帰りを待って母の思ひ!涙に暮れる母の日は、続いたのである。又疎開作業(八丁堀附近)に出作業中あの偉大なる惨事に会ひ、背中や顔や胸に強裂なるウラニウム光線に焼かれ、火中をさまよひ避難所を求めに級友と共に、彼の体力の続く限り逃げたのだ。遂に体力、気力は尽き果てて、常盤橋にて誰かに救はれ、二葉ノ里の収容所に運ばれ、安静を取られたのだ。けれども顔面の火傷により、何一つ口にする事は出来ず、四五日は収容所のむしろの上に寝苦しい淋しい日は過し、遂に冷い人となり、此の世を去ったのである。弟は一度は苦しい中より我が名を伝へたのであらう。学校の焼板に彼の居所(収容所)は知らされたのだけれども、弟を訪ねた時には、今朝冷い体となったとの話であった。一度でも会って話してやりたかった彼、又、会ってほしかったであらう弟よ。彼は醜い姿となり我家に運ばれたのだ。我家は涙の雨の連続なのである。私は彼の頭に線香を奉げ両手を合せ彼の冥福を祈った。しかし未だ生きて帰ってくれるのではないかと思へてならない。私は幸か不幸か、身の上の災難を去ける事を得た。しかれども、終戦後の世間の人情は非常に冷たく、総ての人間男女を問はず心はさつばつになって行くばかりなのである。我々日本人、広島に幸福な日は求められるのであらうか。私は友と共に、色々と頭を想ひ返し無言のまま車を転して行く。白い半袖のシャツでは、肌を秋の夜風夜露にうたれ、時々背中より頭の上へ血が逆流するのを覚える様であった。やっと目的地に着いた。製氷会社(堺町)に必需な「塩」を多数の人々が日中は地下室にあったと思はれる地下三、四尺位の焼土より掘り出して、焼石の様に固い白い岩塩そっくりの塩を夫々が叩き堀り割り出すのに続々と人の山、車の山であったそうだ。しかれども夜ともなれば何一つ猫の子も居りそうでない。私達は我が家の整理に懸命で、夜しか暇がなかった故である。煉瓦の山、瓦の山、焼け落ちてしまった跡を人が探したと思はれる所を、月の光を頼りに背を低く腰を落して見ても、これらしい物は何一つなかった。ただ恐しい化石ばかりなのであった。窪地に足を入れそこねて躓く足元は原子力による賜り物で無造作に転がって居るばかりである。原子爆弾は人類には否、総ての生物は七十五年間は不住不毛とされてしまったのである。恐しい「ウラニュウム原素」の偉力である。四拾万広島市民の半数とも言はれる人の命を一挙にして人類史上にない犠牲者を出したわけである。しかれども我が古住の跡のなつかしさ、二、三百米向ふには焼け鍍鈑を集め、焼け残りの煉瓦を積み上げ、鍍鈑を乗せ〝不住七十五年説〟問題なしだ。とにかく雨露をしのぐ為、身寄りない人であったであらう、人類の生存慾の偉大さ、復興精神の美しい現れなのである。昼は太陽の光を、夜は月の明りを頼りに希望の生活の第一歩を踏み出して居るのであった。しかし見渡す限り焼け落ちた広い焦土と化した、広島、恐しい魔の夜の世界なのである。ただ、鉄筋コンクリートの高い建物が、二つ、三つ、黒い淋しい恐しい姿で立ってゐるのみである。目の前、いや、この私の足元では何十人、何百人とも知れぬ人々が、白骨と化されて居るのである。私達二人は石や煉瓦を搔け分れて見たが、それらしい物は一向に見当らない。大きな焼金庫の台の近くに大理石のかけらが転がってゐるに過ぎなかった。月は中天にかかり、夜更けと共に増々澄み渡って行く、今夜の広島は月の死の世界なのである。太田川の水は白い帯の様に銀色に輝いてゐる。ああ、明るい平和な町は何時訪れて来るであらうか、八月六日以来二十日振りに会社に出た。日発の会社とは言へ、焼けたので古への蟹屋町の倉庫の仮事務所である。日中は非常に熱くて仕方がない。人体に光線を半身以上直接に受けた人は続々と命を落して行く現状であった。火傷した人々の皮からは異常なガスの臭が鼻につくそうだ、それ等外傷者の手当、看病をする医療施設はないのである。不充分な医薬、不足な医師の為に、天命を伸び助け救はれる人が、次次と冷い体となり、コンクリートの下のむしろの人となるのであった。多くの人が、むしろの上に、二人も三人も一枚の中にもぐり込こんでゐる惨状であった。自己の命は自己の心臓の強弱により支配されるのである。着る物もなく食べる物も充分なく、ただ日本医療団や日本赤十字院の力を頼りに日々を送って行く広島なのであった。私は初出社にこの痛しい無ざんな光景(本川小学校)を目で見、心の中をひどく暗くしてしまったのである。こんな人々に取って夜はどんなに苦しい事であったらうか。父母を失った子、肉親を失った幼い兄弟、この世の孤児となった人、我が身の痛さ、この先に立ち不具者として生きる冷たい思ひ人事ではない。私としても非常に頭を苦しめられるのである。この荒漠とした広島が再び建設されて行くのであらうか。「国破れて山河あり」水の都広島に流れる太田川、四囲の山、これ等のみが姿を止めてゐるのである。有形物は必ず破壊される。しかし自然は生きて居るのだ、この大自然の力により人類の幸福は訪れるのである。総てが自然の力により、人類は地球上より生存されるのだ。この熱い太陽の下で焼け鍍鈑の中に住む憐れさ、市中を歩くと死人のうずくまって居ると思はれる悪臭、この恐しさと、なげかはしさは筆に全部を綴る事は出来ないのである。恐しい中に異変があるのだ。それは「ハエ」なのである。疾走する自動車の中の「ハエ」それにくっつこうとする「ハエ」、市中を歩く人に頭から背中の全体へくっついて居るのである。とてもうるさい爆弾の送り物の一つである。悪臭、又悪臭、焼野原の為日蔭のない市中、砂漠の様に直射する光線、デルタに立つ橋、その大部は爆風により破壊され、目的を達するにも遠くを廻らなくてはならない。物資の配給も軍隊、警察力は落ち有償無償とか権力争ひなのだ。我々日本人は全世界に優秀なる誇を持たされて来た教育総てが、軍閥に支配されたのだ。無謀な戦を支那、満洲、仏印、インド、ビルマ、フィリッピンの東洋諸国家に侵した罪で我等日本人は全部各自に於ても負担しなくてはならないのだ。仮事務所に行くと、私があの原爆地(大手町)の災厄より逃げ出して生き残ったと耳にしたのには皆驚いて居た、色々と当時の話を聞かし当分の休養を頂き、正午会社を後に帰途についた。

最近は日照りが続く、頭が耐らなく痛くなってくる。咽喉が乾いて仕方がない。つばを喰み込むのに耐へ切れなくなる。足を引きじりたくて前身を前に倒したくなる。周囲の焼野原を見るのもいやになってくる、我家に帰るにも非常に重苦しい。ランカンの落ちた橋(常盤橋)迄来て、石燈灯の辺に片手を上にし、横腹をくっつけて休む。清き水の流れ!社会の流、流も早くなれば又、遅くなる。澄んでゐるかと思へば、濁り、又澄む。しかれど沼のやうに停まっては居ない。ああ、世も変ったものだ?原爆の為か、私の体も今日は変って居る。如何に何事も考へられない、何時迄も立ち上がって居られそうにもない。通行人の服装、人間として文明人として着て居られるものでない、ルンペンの少し毛の生へた様なものである。ましてや女の服装のだらしなさ、しかし焼け出され、装いなど気に止める時ではないのだ。手足五体は塵や油汗で汚れ、頭の髪は伸び、原子時代の生活の様なのである。「ハエ」の非衛生な事、伝染病は襲来するであらう。頭を垂れまゆをひそめて家に帰った。母達に私の体を話す気にはなれない。三人も死んだ事なる故に、畳の上に横に倒れた儘、我力を失ってしまった。目を開くもだるくて耐らない。一向自分を失ってしまった。咽喉はえぐり取りたい程痛い、寒さは全身を襲ってくる、歯をくひ止める事が出来ない。母が何を言って居るのか一向にわからない。夜分少し熱が落ちて、意識を覚える。又高熱だ、頭は割れる様に痛む、水も口を通らない、丁度ヂフテリヤの様に口の中一面が白い皮で張られてしまった。全身がむくむくとふくれ上がって来る。市内の医師は皆居ない。幸に近所へ焼け出された医者(長崎五郎氏)の所へ毛布に包まれて、背に負はれ、熱と寒さの震へを耐へこらへて行ったのだ。〝ヂフテリヤ〟で無く初めて知識した〝原子爆弾症〟である。恐しい必ず死す病気だ。〝先生〟は何一つ言はれなかった「安静だ、安静だ」恐い事が耳に入る。絶望だ。或る人は血を吐いて死んだそうだ。一名や二名ではない。多くの人が山村から我が親、我が子を救いに、老若男女が続々と死んだそうだ。しかし私は好意により一本の命とも頼む、カルシウム注射と強心剤を調合して打って頂いた。外気にふれ、体を動かした為、忽ち高熱だ。心臓は高なる。胸が苦しい。意識不明に落ち入ったのだ。胸を冷たい井戸水で冷して頂いても、少しも落ち付きそうもない。薬として何一つないのだ。ああ、何んと恐ろしい病であろう、二日目も三日目も何一つ喰み込む事は出来ない。四日目には大勢の人が死んで行ったと同じ臨床の通り、全身には赤い斑点の小豆粒位のが多く出て来初めた。もう此の世の人ではないのだ。死は刻々と迫ってくる、死は時間の問題であった。高熱、苦しは姿第に加わって来る。視力は落ちて天井はぼうと見え、家の人の顔もはっきりと、見止めにくい。体全身ガス臭い。口の中は丁度カーバイトのアセチレン瓦斯の様な臭気が充満して耐らない。次に来るのは下痢だ、口から鼻から血の海だ。血便の連続だ。毛細管の破裂だ。白血球は全部破裂だ。内部構造は全部破壊されるのだ。また次に来る頭の毛は頭を動かす度手でさはられる度にぽろりぽろりと抜けて行くのだ。丁度七日間は経過した。七日間の絶食だ。頭髪は一本も無くなった。もう死の世界に入ってゐるのだ。手足を伸す事も不可能だ。

十日過ぎ、応召解除になられた軍医様に私の身を任せた近所の医者の為又幸運を得る事が出来た。毎日、毎日、毎日「カルシウム注射」を受けて頂いた。親切なる医師と医学か、絶大なる母の看護か、私の運は開け始めた。次第に次第に咽喉の痛みが少しづつ終り始めた。真赤な斑点が、次から次へと黒く黒大豆の粒の様、足の方から上へ上へと変って行くのだ。十四日間目だ。丁度「ハシカ」が頂上を過ぎ、下坂に向って行く状態になる。大分熱も下って行く、ガス臭い臭も衰へて行く。歯ぐきより少しづつ黄色な膿の様なものが出て、つばが、づうづうと次から、次へととめどなく出る。洗面器を二夜中口をつけて居たのだ。何んと苦しい一つであった。十六日目咽喉の痛みは取れ始めて水を喰む事が出来た。「ああ、水、又水」一生忘れる事の出来ない〝水〟日増しに生状になり始めた。次に来るこの嬉び、この病床一ヶ月は経過した。この間、食物として〝胡瓜〟や〝南瓜〟を食べると全快するとか、三里のきゅうをするとよいとか、ありとあらゆる話を聞き次第実行したのだ。私はこの苦しみ以外に、次に引き続き注射と高熱の為か左上腕を筋炎になり苦しい切開手術も為した。左腕は、くの字に一ヵ月間伸ばす事も出来なかった。天命の待つ所、私は完全に全快したのが十一月の始にやっと歩行の自由を許されたのであった。忘れる事の出来ないこの悲しみ、この苦しみ、戦はするものではないのだ。人類死滅は科学の戦ひだ。化学の力、果は地球も死の月の世界と化すのだ。化学を世界の人類の幸福の為、一部の国家の隆盛の為でなく平和の為、発展させようではないか。幸に日本は永久に戦争は捨てたのだ。次に来る幸福な民主日本。美の日本、島国根生は捨て去らう。広く世界の人類と幸福な手を永久につなごうではないか。〝広島〟をくり返すな。〝広島〟〝二十世紀〟の〝広島〟をくり返すな。ああ、東洋とか、西洋とか区別するな。広島の原爆を体験私はかく叫ぶのである。

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)五六二~五九二ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
 

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