二年五組 天野 允夫
僕の家は、グランドの前で、右五十メートルのへんに、電針棒がある、ぼうくうごうは、左の電針棒の斜め前の右によった、所にある。三年の二学期ごろ、その日父は、座敷で足の水虫を、なをしていた長兄は勤労ほうしに行っていた、次男は机の下のほうでごそごそしていた。僕はその日からだが、だるいので、いつも友達の家に、さそいに行くのに、今日は友達からさそはれた、玄関に入てもらった。たいぎい、早いんだといってぐづぐづしていた、行かうと思て柱に、よりすがった時、左の電針棒のへんから黄色い色のした光が一瞬にグランドを、をそった、ので、心臓がさかだちした、ごとく、びっくりした。裏に、逃ようと一寸首をまわしたそのとたん風が吹いて来た。と、思たら、なにかが頭の上から落ちて来たので、「ないた」、それからなにが、なにかわからなくなった。一瞬の出来事である、だれか、僕をだいたのでびっくりした。全世界の終かと思たが終りでわなかった。だいて、いるのは父である、道は、「電線」「かわら」「とたん」板ぎれ、そのほかいろいろな物がころげていた。電気会社のへんは燃ている。約百メートル右の所、父はすぐに、バケツに水を入れ、ちいさい、火が家の外に燃えているのをけしに、行った。僕は頭が痛いから頭に、手をやると血がつく、すると裏の、せいざい所から帰て来て手当してくれた、水道水はでない、ポンプの水で口をゆすぎ、顔も洗った。水が飲みたくて、しょうがなかった。水をのめば頭の出血が、ひどく出るから、とまとでがまんをした。世界のあらゆる化け物を集めたように、やけど、めくら、かたわや、血だるまの人が、焼けない、この南千田に集まて来た。あれよあれよと見ているうちに時間わすぎ、ゆうがたごろになって長兄は勤労ほうしに行ていたが、今は父にだかれて帰て来た。顔、足、手など、まんじゅうのごとく、やけどである、白い薬をぬり家はたおれなかったと、いっても、戸口は皆こわれ、どこからでも、はいれる。畳があると、いう事だけである、その夜僕は頭やしゃつに血がべとりと、くついて、ねむれなかった。僕も早く家を出ていたのなら兄と、をなじようになっているのだが、兄が家の犠牲になってくれたのだと思うと、涙が目ににじみ出てきた。気をまぎらすために空をみると、空は火の海のごとく、赤く悪の「した」のごとく地球の上の人類の、せんそうをのみほそうとしている。これで、悪がのき、平和がくるであろう。終
被爆当時の住所
広島市南千田町□□□□□□
年令満八才(小学校三年)
職業 〃 〃生徒
現在の住所
広島市南千田町□□□□□□
職業 翠町中学校二年生
出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)四五二~四五四ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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