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平和を念じて 
戸田 幸一(とだ こういち) 
性別 男性  被爆時年齢 33歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所  
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属 歯科医師 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
ガラス片の四散してゐる校舎の入口に、普通ならお菓子でもねだる、五つと三つ位のはだかの姉妹が、小さな方は、顔面、胸部火傷と、ガラス破片創。大きい方も同じ様な負傷ながら、僅に視野があり、盲となった妹の手を握り合って居る二人。誰に連られて避難したのか、手をしっかりと採り合って、横川から一里余りの道を、負傷者の群に押され父母を求めて来たのか知ら。見れば、足も焼たゞれて、よくもまあーと思ふ。

小さな方が、姉に手を引れながら、「お母ちやん見えないよ」と、あどけない声で呼ぶ。

姉は無言で、あちこちと目をくばって居る。

広島から、五里を隔った、山に囲れて居る町に、青い光と、爆音と爆風を受けて、約一時間後に、ここ、祇園町の青年学校の救護所に来た時は、僅に二十数名位の患者しか居なかった。

一室では、既に二人の医師が、外傷処置をして居た。現在では、ほんの少しの患者だが、総ての状況判断では、絶対に火傷患者の焼出を考へた。自分は、町在住の他の二名の歯科医、一人は警防団長、一人は班長であったが、相談の結果、今では少いが、きっと数時間後には負傷者で動けなくなるだらう。「団長は、交通整理やら収容所の設備をなさい。自分と班長は、主として火傷の処置をやろう」と決めた。

当時、吾々に与へられて居た薬品衛生材料は、皆無の状況で、僅に配給を受けた、自己診療用の手持と、少量の器具、これが救急嚢の全部。十本余りのビタカンファー鎮痛剤、マキュロ液、沃丁(ヨードチンキ)少量、綿花五〇瓦(グラム)、ガーゼ一〇米(メートル)、ピンセット、ハサミ、位の貧弱なもの。この量では、恐らくは二、三名の処置しか出来ない。よーし「タンニン」も油剤も無い、ふと見れば、大きな鉢に食塩がある、仕方が無いから、生理食塩水で湿布をやろう。勿論、秤(はかり)も容器も何もない、全く無い無いづくしだ。そこらのバケツに、目分量で、兎角(とにかく)食塩水を作った。繃帯材料がないから、患者の衣類でも引ちぎってやろうと思った。其の間何分かゝったか。男も女も、殆ど全裸の全身火傷、頭髪は焼け、顔面浮腫、色は一様に茶、黒、ニグロ族の様な皮膚の色で、男女の区別もつかない。まるで地獄の釜から飛び出した様な姿である。早く治療をと言ひつゝ、廊下にひしめき、苦痛と急激な心臓障碍で、一人、二人と、丸太棒を倒す様に倒れ始めた。其の肉に、ガラスの破片が食ひ込むのに、のたうち廻り、其の内動かなくなる。一体、どれだけの患者かと表を見た時に、先に云った姉妹と出逢ったのだ。丁度この年の子供を持って居る自分。他人事とも思はれず涙が流れて目が霞む。一体、どうしたと云ふのだ。成程戦争ではあるが、子供に迄このむごさはどうだ。

地獄だ。鬼の仕業だ。人間の出来る業ではない。むらむらと戦ふ意識が燃へた。

「母ちやん居らんの。」「おじちやん、母ちやん探してね。」「姉ちやん利口だね。手を放したらいかんぞ。それから、そこらに立って居たらあぶないから、あっちに坐って居なさいよ、その内母ちやんが来てだから。」最先に手当を加へて持場へ帰へる。

「オイ班長、これや、二十人や三十人ぢや処置やり切れんぜ。」その頃、ぼつぼつ他の応援隊が到着し出した。彼等も、タンニン水の調合を始めたが、全部無駄な事だ。平素火傷に油と教へ込まれて居る人々は、どこで求めたか、途中衛生兵にでも塗ってもらったのか、皆油剤を塗って居る。水溶液は受付ない。

そこへ団長が来た。

「此の状況では油剤以外には使へないぞ。」

「どうしよう。」

「そうだ、食糧油を探して下さい。そして大きな鉢とね。」やがて一斗缶と鉢とを持って来た。

「団長、此の部屋に一つと、一つは外の救護者に、あの門から入る時に塗らせませう。も一つは、軽い患者は自分で塗らす様に分けませう。」
でも、後から後から、潮の様に収容される火傷患者、ガラス破片傷、骨折、内臓露出等々。

「処置なし。」前の広場でひしめく患者。「団長、患者の整理を頼むよ。そして向の神社の境内にござを敷いて処置済患者を収容し、重症は今井病院へ送ろう。それから、可部方面へ逐次護送しませう。」それから患者の整理がつき始めた。山本のメソジストの神父が、一人の助手と共に献身的に、手を当れば、つるりとむげる患者を背に、神社の方へ運ぶ。神に仕へる人の、何と神々しい姿だ。

「空襲警報だ。」生への執着が、身体の動く患者をそこらの窪地へ運ぶ。動けぬ者も、何かもがく様子が見える。

「オイ、班長、僕等も待避しよう。」

地に伏す静かな数分。腕時計のセコンドの音。何時かしら。午后四時半。朝七時頃の食事なので、急に空腹を感じた。弁当を食べる。何だか味がない。臭い。患者の臭が鼻に付いて居るせいかも知れない。警報解除、又持場へ帰る。ピンセットで御上品な処置では間に合はぬ。両手に油布を持って、何人位塗ったか、気が付いて見れば、辺が暗くなって来た。広島の空は火の海だ。全滅だぞ。又警報だ。待避。暗くなった土手に伏す。

静に、草の虫を聞いて居ると、妙に心が澄み、急に家の事が気に掛る。消化不良で重態の赤坊。家族の避難の事。灯の無い所で処置も出来ない。一度家へ帰へろう。それにしても何爆弾だろう。きっと新型で、ひょっとしたら、大段博士のあれだろうか。そうだ、唯一発であれだから、きっとそうだ。それなら明らかに負けだ。戦争も永くはあるまい。負けだ。

それから、三里余りの夜道を、ふらふらになって十一時半頃帰宅する。家には親類の者が、頭部裂傷と、乳房部外傷を受け、倒壊家屋の下敷から、やっと抜け出したが、引続く火事で「母ちやん」と、呼ぶ愛児を見殺にして来て、まだ耳の底に聞こへると、涙の話。丁度折良く、先日から泊り合せて居た医専の四年生の従弟、秀吉が居て手当を済ませたとの事、先づ晩食でも食べてからと、暗い灯火の下で、殆んど手探りで食事をしつゝ、「秀ちゃん患者に砂糖水と、ビタミンBを注射して呉れ。

「今晩は、兄さん帰りましたか。」

本家から使の者が来た。

「弟が、古市の学校に収容されて居る事が判って、迎へに行って居ますから頼みますよ。」

「よし。」十二時半頃、車に乗せられて帰って来た。今朝元気で広島へ学徒作業に出た子供が、丸太棒の様に焼腫れて帰った姿。

「よくまあ、これで」

と、母親が泣く。昼間見た無数の患者を思へば、これでも普通の事だ。秀吉と二人で約一時間、出来る限りの手当を済し、ビタミンB、強心剤の注射をする。

就床二時半、夏の夜のまどろむ暇もなく、夜通し通過するトラックの音で、眠れぬまゝに夜が明けた。警察へ来る様にとの電話である。町の救護部長である自分は、町の救護の責任者である。六時頃警察へ行く。中庭には、患者の山で足の入場もない。道路にも寝てゐる。町の四つの寺が収容所にあてられ、一度署で手当を加へた上で寺に送る。当時、町の医者は、開業医内科二名、戦災仮寓の外科医一名の僅なものである。それも第一日は自分と外科とで、とても目の廻る様な忙しさ、もう必死だ。やれる丈やれと頑張る。患者の転送が、時毎に増加して来る。学校の校舎まで、収容し切れなくなった。町の各家庭には、一人か二人の患者が居る。郷里の近い者は、又転送だ。附近部落の医者も、自分の村の患者で追ひ廻される。でも、三日目からは、二十名位の医師、歯科医師が出動して来て、やっと陣容が整って来た。それでも医者が足りない。衛生材料が無い。薬品が無いの三拍子揃ひである。着物を裂いて繃帯を作る。食油の調達。当時、砂本警察衛生係部長さんは、始終一貫、昼夜の区別なく、良くも頑張り通したものだ。彼も軽度の間接原子病に侵されて居ながら、二十日頃には、口の周囲に水泡を出して居た。強心剤が無い、リンゲルがない。安ナカやら、生理的食塩水で注射液を作り、五日目頃から使用し始めた。これでもやらないより良い。油を塗る一点張りよりも、赤ちん一点張りよりも、患者に与へる心理的影響は絶大なものがあった。食事をする暇が無い位忙しい、夜間廻診する時は大変だ、灯火管制で困難を極めた。 

かなはぬ時の神願とか。病者に医者はキリスト様だ。自分はこの時位、医者と云ふ天職に感激した事はない。よしやるぞ。

二、三日目頃から、死人が続出しだした。極度の栄養不良と重症の為に。在郷軍人会の人々は、死人の遺骨を焼くのに毎日焼切れぬ位だ。八日に、自宅へ、済美学校庭で被爆した親類の子が来る。両下肢膝部以下の背部、上肢前膊手背頸頭部等、非常に軽度の傷害であったにかゝわらず、爆心に近き為か、出来る限りの当時の手当にもかゝわらず、傷は殆んど治りかけては居たが、五日目位から下痢を始め、体温四〇度位、水が飲みたいと云ひつゝ、二十分位の急変でポックリ他界した。火傷にはブレインパスター、ビタミンB、葡萄糖、ビタカンファーを使用した。

十五日、終戦の詔勅が下った。ラジオを聞きながら、止めどなく涙が流れて、急に力が抜けてペッタリと坐って、しばらく動けなかった。再起を願って、あらゆる苦痛と戦って来た肉身を野戦で失ひ、愛する人、愛する子供を失って泣きもやらず、戦って来た人々だが。

何もかも無駄だ。戦は終ったのだ。もう此の肉体は、苦痛に耐へる力がない。病む人も、看る人も。でも此の患者の治療は、一日も放置出来ないのだ。八月二十五日頃から、私自身下痢を始めた。立って居るのでさい苦痛だ。四日ばかり、床に着いて居たら下痢は止ったが、何となく違和感があって、仕事が出来ない。以来一ヶ年位、健康感を味ふまで費した。其の間、ビタミンB1、三ミリクロールカルシューム、葡萄糖、各二〇%のものを併用して、連続六ヶ月、それから後は、時折注射して健康を回復した。

食欲がなくなったのは、八月中旬頃からで、九月の初旬迄位でよくなった。性欲の減退は、四、五月頃迄続いた様な記憶である。それから後、鼻腔がかなり長期乾燥感が残った。

収容所で、幼児がかなりの重症で、非常に静であったのは、全く不思議で、傷の手当をしても、泣く子は一人も無かった様な気がする。婦人会の心から、せめてもの恵みのアイスキャンデーを手に、口にしたまゝで、坐ったまゝで死ぬ子、今手当をして後を見れば、既に死んでゐる老人、本堂の廊下で、弓が張った様になったまゝの破傷風患者、ガス壊疽で、翌日死んだ青年、人間生きるは難しいが、死ぬるのは簡単である。無傷の知人が、十日目頃に歯齦(しぎん)出血、それから皮下溢血斑(いっけつはん)下痢、と云ふ順で死亡す。

爆心地に近い人は大抵死んで居る。当時、適切な療法が不明であった為でもあらうか。横川附近で出逢った人でも、重症になってやっと治った人もある。広島へ診察に出掛けた婦人、大手町六丁目附近で出逢った婦人だが、頭部切傷だけ、火傷はないが、歯齦出血が先に、下痢、それから頭髪脱落したにもかゝはらず、現在健康体で、其の後一人分娩(べん)して元気で居る人もある。御気毒なから、同伴して居た子供が無傷で、受傷後二日目に死んで居る。子供は、概して、大人より抵抗が弱い様だ。

患者だけ扱った人々の症状

一、自分の場合は、患者に吸収された原子に侵されて、間
     接的に軽度の原子病となった。
二、従弟秀吉は、二十五名位の患者を、約二十日間取り扱
      っただけで、二ヶ月後に、重症原子病となり、一時医
      専の教授達が、予后不良を宣告したが、一ヶ月位で治
      癒した。
三、被爆直後、焼跡に出掛けた人は、軽い下痢を殆んど起
      して居る。

出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二一六~二二七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

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