三年B組 四七番
小畑 武昭
八月六日の朝、何時ものとおりに学校に行った。四、五人が本を読んでいた。私は窓側の方に行って、力田君の読んでいる本を一緒に見せてもらった。その本を読み終ったかと思うと、空がピカッと光った。私は地球でもなくなるのかと思った。すると、ドカンと大きな音が耳に入った。すると同時にものすごい風が吹く、天井が落ちるやら、ガラスが吹き飛ばされる。私はその時すぐに外に出ようと思って、通路の方へ行こうとすると、友達が戸口でころげ合っている。私はそこを飛ぶようにして、ようやく外に出た。通路にはガラスがたくさんこわれて、壁が倒れかかっているやら、柱が折れているやらで、今考えると良くそこを出たものだと、自分ながら感心するぐらいであった。私はすぐに防空ごうの中に入った。するとあちらこちらで、「お母さん。」「お母さん。」と自分の母を求めている者もおれば、「学校の近くに爆弾が落ちたのだろう。」「いや君の家の近くらしい。」と私に上級生が言ったので、私は立ってもいても居られない気持であった。皆んなの顔色は青白く中には頭や足にけがをして血を出して、居るものもたくさん居た。
しばらくして私等は家が近いので帰ってもよろしいと、先生に言われたので家に帰って見ると、私が学校に行く時には窓のガラスも表のガラス戸もきちんと、そろっていたのに、陳列窓はひっくり返っているやら、ガラス戸はこわれて、家の柱までも二、三本折れているしまつで有った。私ははっとした、まさか母は死んだのではあるまいかと思った。「お母さん。」「お母さん。」と幾度呼んでも返事はない。隣のおばさんに「お母さんはどこに行ったか知らない。」私は声をふるわしながら聞くと、「防空ごうに行かれたよ。」その言葉を聞いて一まず安心した。でもけがをしとるのではあるまいかと思うと、胸がどきんどきんとなっているのを感じた。すぐに山の近くの防空ごうに走って、行くと、母と姉の姿が見たと思うと、母が「おまえはけがをしなかった。」とたずねた。私は「うん。」と答えた。そしてすぐに、「お母さん等はけがをしなかったの。」とたずねると「けがはしなかったよ。」と私の事を気にかけていたのか、さも安心したようであった。ここでは危いと言うので、まだ奥の山の方に行った。そこは兵隊の掘った穴のような防空ごうで有った。そこにはもう四、五十人の者が入って居た。沖の方を見ると福屋の方も相生橋の方も火を吹いて燃えている。私は戦争と言うものはこんなに恐しいものかと初めてわかった。これから先にどうなるのかと不安でならなかった。
しばらくすると防空ごうの前をたくさんの人が火傷をし、顔をふくらせている者や背中におわれている赤ちゃんの口びるが切れているのやら、手の指の二、三本とれている人も、頭が火傷でむげているのやらで、本当に生き地獄の様であった。するといつの間にか母の姿が見えないので、家に帰って見ると、母は荷造や御飯をたいているので安心した。
表の道路に出て見ると、五つ位の子供と三つ位の子供が両親に何時も教えられている所に逃げて行くのか、兄と思われる子供の頭の髪が火傷で。抜けて無くなってはげていた。妹の方は手足にやけどをし、傷をしていたが、二人が手をしっかりとにぎり合って、向こうの方へ姿を消し去った。私は姉を呼んで来て昼食をすました。そして我々は防空ごうに又行った。すると母が「才昭はどうしているのだろうか。」と私等に言った。才昭とは私のこまい兄さんのことであった。兄は八丁堀の電信局の事務員で出勤していたのである。人の話に聞けば八丁堀の方は生きている者はないとの事である。我々はもう兄は死んだ者と思っていた。防空ごうの中では、人々が不安げに爆弾落下当時の状態を青い顔をして語り合って居る。母は八丁堀の方を眺めていた。
それからまもなくして、母は兄の着代りと仏前には線香を立ててくると言ったので一緒に家に帰って見ると、兄は帰って居るではないか。私等は夢ではないかと思った位であった。皆んなそろったので、母も安心したようであった。そして兄は次のように八丁堀附近の状態を言った。「爆弾が落ちる時、ピカッと光った瞬間もう吹き飛ばされて、もうまっ暗やみのようであったのでどこに行ってよいのやら分らなかった。そこでどうしたら良いかと思って居ると、誰か自分の名前を呼ぶ声を聞いたので、声のする方向に歩いて行くと、明りが見えだし、呼ぶ者は誰かと思って見ると、友人が二、三人呼んでいたのであった。そして自分は彼等と一緒に逃げる途中に人の死体がごろごろところげていていやになるほど見たよ。そしてどこの山かしらないけど、山のふもとに兵隊の堀穴があったので、そこで休んで居ると兵隊がカンパンをくれたので、それを食べるとガスを吸っていたのを全部はき出したかのように、あげたよ。すると体の調子が良くなってきたので帰ってこられた。」と語りまた次のように楽しげに語り続けた。「自分にはお父さんが守ってくれていたのだよ。」と言った。皆んなそろったので夕食をすまし、又防空ごうに皆んな一緒に行った。
被爆当時、広島市古田町古江、古田校、九才七ヶ月
現在、広島市古田町古江、山陽中学校、十四才六ヶ月
出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二九二~二九七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
|