このような日が、きつと来るだろうとは、戦争の旗色がだんだん悪くなるにつれ、誰も口には出さないが、皆腹の中では思はないものはなかつた。
しかし、まさか、このような凄い爆弾に見舞はれようとも、恐らく誰も考えなかつたと思う。呉や江田島が大編隊の襲撃を受けるのを見ながら、広島には未だ空襲らしい空襲は一度もなかつた事も手伝つて、市民はたしかに一時の安堵感におぼれての油断もあつたと思う。しかし、又あの爆弾には如何なる警戒も役に立たなかつたことも事実である。広島市全土、二里四方の凡ての物体は一瞬にして揺り飛ばされ、ゆり潰され、焼き払はれ、そして人間もあらかた焼き殺されて死んでいつたのである。今思出しても身ぶるいがする。
この日、八月六日は、前々からの日照りが続いて、焼くような暑さであつた。月曜日であつたが私は非番で翠町の自宅に居た。しかし生徒は第二学年生三百余名が、十名の職員に引率されて、平塚町方面の疎開地の整理作業に奉仕するため登校した筈である。そして私は木曜日から三日間出かける事になつていた。
この朝も七時頃警戒警報が鳴りひびいたが、間もなく解除された。出動の生徒も何等怖れることなく登校した事であろう。
私は朝食後に、防空壕の補強工事を仕ようと考えながら茶の間で親子三人でお茶を飲んでいた。私は暑いままに上半身は裸で、白いズボンだけ穿いていた。
八時十分頃か、飛行機の爆音がきこえる。近頃の一機二機は馴れ切つて、左程怖れもしないし、又警戒も解けていたので、多くの人は気に留めなかつたようである。しかし爆音はB29なので、私は冗談に「あの飛行機はウチのではないネ」と言うと、娘は「あれはB29ですよ」と真顔で答えていた。勿論B29とは思いながらも怖れもなく雑談していた。その爆音も暫くして消えて、物騒な空ではあるが、日はますます照りかがやいていた。
それから三分―四分―五分も経つか経たない時に、私の眼には青黄ろく見えた強い光がピカッと一と光りひかつた。私共はハッとして「今のは何だろう」と言う間もなく大音響と共に、食卓の食器は吹き飛ばされ、壁はガラガラッと落ち、戸障子は外れてどこかえ飛んでしまい、ガラス窓の硝子は粉々になつて座敷から廊下一ぱいに乱れ飛んでしまつた。三人は唯無意識に立ち上つたようだつた。
その瞬間、私はこれはてつきり時限爆弾だと考いた。何となれば空には一つの飛行機も飛んでいない、そしてB29は数分前にどこかえいつてしまつた。それで私は「時限爆弾だぞ、早く防空壕にはいれ」と叫びながら真先きに庭の隅の壕の中に飛び込んだ。しかし妻も娘も壕に来ないので、どこかやられたのかと、壕から首を出してのぞいて見ると、叩きこわされた座敷の最中に立ちながら、うらめしそうに眺めまわしている、無事らしい。
序(ついで)に空を仰いて見たが、飛行機も見えず、音もしない。実に不思議な爆弾だと考えた。私の宅は爆心地からは二キロも距つた地点にある。比較的被害は少い方であつたろうが、それでも二階は北から南へ傾いている。倒れる程ではないが、階上階下一枚の戸障子もなく吹き飛ばされ、北側の壁はメチャメチャに落されている、只洋間は屋根も壁も被害はないようだ。呆気にとられて隣近所の家を見ると、どれもこれも同じ程度にやられている。私はこわごわながら壕から這い出した。
宇品の暁部隊に召集されていた長男は、この日も隊の用事で千田町の工業専門学校の試験室にゆくために、一寸立寄つて自転車に乗つてこの二、三分間に家を出た。私は「之は多分やられたな」と考えていた。というのは、先きの爆音は五百米位距つた高等学校辺りに落されたものと考え、てつきりあの辺で爆死した事だろうと推定していた。ところが、長男は四、五分してから自転車で帰つて来た。「爆弾は何処に落ちたか」と聞いて見たが「自分は高等学校の手前で、ピカッと光つたから、いきなり自転車からとび降り、地べたに伏せたから何事もなかつたが、軍帽を吹き飛ばされて、それを探すのに骨を折つた、爆弾はどこに落ちたかわからぬ、高等学校辺りではない、これから見にいきます」といつて又自転車で出かけた。
私は茶の間で北側のガラス窓を背にしていたため、裸の背中に二、三十か所位のガラスの小破片を受けた。しかし妻も娘も何等負傷していない。ただ娘の両眼の白眼が真赤に充血している。充血しただけで視力にも支障なく、痛みもないという。私のこの背中のガラスかけらは皆家人がつまみ出してくれたが、少しも痛みはない。ただ二ケ所の割合に大きな傷からの出血がどうしても止まらない。そのうち倅は二度も三度も戻つて来て、「市の中心部が猛火に襲はれている」「爆弾の中心部は市の真中頃らしいがもうゆかれない」「今文理大が焼けている、工業専門も半分倒れた」「進徳は猛火に包まれてゆかれない」などという情報をもたらしてくれた。
これを聞くごとに、「一刻も早く学校に駈けつけて見たい、三百有余の生徒はどうしたろう、十余名の職員はどうか」と念頭は離れないが、背中の傷の出血はますますひどく動けば動くほどひどく出る。
とつおいつしている中に、学校の職員が二、三名宛駈けつけてくれて、いろいろ情報をもたらしてくれたが、出動職員生徒の逃げ先きや、被害程度は全くわからない、多分比治山に逃げたろうとはいうものの、一人もはつきり知つているものはない。
大手町七丁目、市役所の西側に住んでいた図画科のO君が洗足で駈け込んで来た。O君の家はドカンというと一所に潰れてしまつたという。自分も奥さんも梁の下敷になつたが、自分は這出して来たという。奥さんは引張つたが出られない、「貴方だけ逃げろというから逃げて来た、多分今頃は焼け死んだろう」という。「自分だけ逃げて奥さんを焼きころすということがあるか」といつたら、「いくら引張つても出られないのだから仕方がなかつた」といかにも仕方なさそうな顔をしている。私の宅はまち外れだから、きつとどうにかなるだろうと思つて来られたのであろうが、来て見れば家は傾き、壁は落ち、戸障子は吹き飛ばされてる惨憺たる有様に、「頼む蔭とて立寄れば」の感に打たれてか、「これから矢野の親戚の家にゆく」という。シャツ一枚にパンツ一枚、無帽洗足で、汽車も車もないのに矢野までゆかれようがない。私の帽子、履物を穿いて、水をたらふく飲んで出かけた。このO君は一週間ばかり後に、もう一度訪ねてくれたが、その時の話では、奥さんはやつとひとりで梁の下から這い出し、一晩中、前の公会堂の池の中に、ぬれた蒲団をかぶつて火焔を防ぎ、次の日これも矢野までたどり着いた」といつて喜んで居られたが、惜しい事に、この二人共八月下旬と九月初めに相前後して爆弾症のために矢野で死んでしまつた。
いつまでも私の傷の出血が止まらないから、之は医者に手当をして貰うより外に道はない、と家人からせき立てられ、最も近い二丁ばかりの所の共済陸軍病院にいつた。此所は又実に驚くべき風景である。実に何千人といつてもよい程の多くの人が押し寄せているが、そのすべての人が「火傷」である。北々西に当る市の中央部を望むと、今も黒烟(こくえん)濛々と立ち上つて、広い面積の大火災が、ますます拡がつていく様子がわかるが、それしても、こんなに火傷患者がどうして出たのであろうか、全く呆れてしまつた。
このやけどの人々は、全身やけたたれているのもある、右側の顔から足までやられている人もある、左側だけの人もある、前だけの人、後だけの人など、皆火ぶくれになつている。手当を受けた人は白い油膏薬を全面に塗つているから面相も何もわからない。私は驚き呆れて見ていると、いきなり「先生!」と泣き声を立てて飛びついて来た少女がある。しかし私はそれが誰であるか、さつぱりわからない、「誰ですか」と反問したら、やつと顔をあげて氏名を答えたが、平常の容相は少しも無かつた。「どうしてそんなにやけどしたか」と尋ねたら、「一寸外に出ている時に、いなづまのようなものにやられた」というのを聞いて、私は始めてこの多くの火傷者は、火災のやけどでなく、何か殺人光線のようなものにやられて、こんなに沢山患者を出したのであろうか」とおぼろげながら感付いたが、さてそれが何だかわかる筈もなく、又確める考も起らず、只驚き恐れたのみであつた。
共済病院の建物は高いのでまだ日の陰がある。そこにはやけどの患者が群をなして打臥している。「あついあつい」「苦しい苦しい」と悶え苦しむ有様は全く地獄の様相である。声を出してもがく人はまだ息のある人である、何んにも言はずに横になつている人はもう己に息を引きとつた人である。しかし誰一人これ等の人に一杯の水でも飲ませる人もない、すべてが患者である。
私はこの凄惨な情景を見て、もう医者の前に立つて「怪我をしました」などといつて診察してもろう勇気はなくなつた。第一こんな傷で病院に来た事が恥かしくなつた。恥ずかしいが出血はどうも止まらない、背中からズボンに流れて、ぬらぬらした感じがたまらなくいやだ、折角ここまで来たのだからと、この火傷患者に幾らかのお世話をしている中に、お医者さんの手すきを見て背中を出した。お医者さんは「動かないで居りなさい」と赤チンキを塗つてくれた。
市の中心部の火勢は、ますますはげしく拡がつているようだが、風が南から強く吹いて居るので黒烟(こくえん)は北へ北へと吹き漲つている。「御幸橋から以南は火災から免れるかも知れぬ」と近所の人々がささやき合つている。こうなつては仕方がない、今日の学校行はあきらめた。
火傷が何かの光りだろうということは稍々(やや)想像がついたが、爆弾が何処に落ちたのか一向見当がつかない。見舞に来られた人々に、「一体何処に落ちたのですか」と尋ねて見るが、さて誰一人としてたしかな返答をきかせてくれるものがない。今から考えると滑稽なようだが、当時としては空で破裂したなどとは実際目撃した人以外には想像もつかなかつたことであつた。私などは暫くの間はラヂオの放送の「広島に特殊の爆弾が……」というのをきいて、どんな特殊なものか皆目わからずにいた。
元の職員で、当時明石市の高等学校に居られたK君が、はつきり覚え■八月の十日頃に態々(わざわざ)見舞に着てくれた、やつと汽車が開通した最初であつた、「広島に落したのは、あれは原子爆弾というものだそうだ、同僚から君が広島にゆくなら永く居てはいけない、早く帰つて来いと注意された」ということをきいて、そんな危険性の爆弾であつたのか、やれ怖ろしやと慄(ふる)え上がつたものであつた。その頃から広島は七十五年は生物は棲息しない」ということが盛んに噂に上つた。
話は少し先き走りしたが、さて翌七日も昨日のように晴れわたつた暑い日である。背中の傷の出血も止り大分よさそうである。防空の用意をして学校に出かけた。
火事は御幸橋を渡らなかつた。千田町も御幸橋に近い所は焼け残つている。途上には電車、自動車、自転車などが焼けころがつている。千田町の赤十字病院も、大学も焼けて窓からまだ焼け残りの煙が出ている。路傍の到る所で死者の火葬をやつている。異臭鼻をついて鬼気人を襲うという惨景である。
電車道の一寸した物蔭の所などに寝たようにして居られる人々が、いくらも見受ける、多分昨夜の中に息を引取つたままであろうが、何処からどうここに来られて倒れたものやら、中には顔も着物も焼けたたれて、家人が見ても、親とも子とも見当がつかない人もある。
焼け跡の余炎はまだまだひどい。直射する日光の暑さと共に道ゆくものの息もつまるように感じられる。鷹の橋から右に折れてアスファルトの大路を南竹屋町の学校にたどりついた。このたどり着いたという言葉は本当に当時の私の身体と精神の状態を簡単によく表はしたものである。
ここに驚くべき一事実を認めた。それは、尚まだ所々に死屍のころがつている街路筋を、どういう人がやつたものか、多分はこの道筋の人々の奉仕であろうが、あの大道路を既によく片付けて、完全に人も車も通れるように掃除してあつた事である。多くは親も子も互いに生死もわからぬ時、自分の家も家財も何一つ残すものなく焼失せた時、尚敢然として公衆の道路の清掃に従事された其の義心と義挙に胸うたれながら、とぼとぼと、私は学校の門にたどり着いた。
石だたみの頑丈な門は何ともない、門内残つているものは奉安庫と大校舎二棟の大防火壁二つだけである。奉安庫の鉄扉はへし曲つている、しかし御真影は己に他に疎開してあるから心配はない。門から五、六間距つている防空壕の中に職員のM君が寝ている。多分竹屋町の自宅が焼けたので、ここに寝ているだろうと「オイオイどうした」と声をかけたが返事がない、已に体は冷え切つている。
露天壕の中に一人の生徒が仰向けに倒れている。顔が変つていて誰だかわからない。寄宿の生徒かも知れないが誰一人聞くべき生徒も職員もいない。皆やられたか。
校舎の焼け跡はまだ足をふみ入れることが出来ない。梁や棟木などの下敷になつて焼死したものもあろうと思うが、昨日の登校奉仕隊の行動がわからないから見当がつかない。離れてある講堂も、寄宿舎も只土台石だけが残つている。本校舎から百米以上もあるのにこの有様である。業火の力に只驚くばかりである。右を見ても左を眺めても余燼がまだぷすぷすしている、その中に二台のグランドピアノと、一台のアップライトピアノの残骸が灰燼の中にありありと見えている、全く涙も出ない。噫(ああ)、三百有余名の出動職員生徒は果して逃げ果せただろうか、其他一千三百余名の職場出動部隊の生徒は、職員は、ただ呆然と青空を見上げた。
出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)三六四~三八七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】
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