山陽中二D二十九番 小島 毅
僕は昭和二十年八月六日の朝一家そろって、食事をした。と思うと空襲警報のサイレンが鳴ったのでみんな壕へ入った。しばらくしたら警戒警報が鳴ったのでみんなは気をゆるめて出た。僕と兄さんは安心して買物に行く途中別々になってしまった。僕がしょぼしょぼと歩いて行くと目の前がぴかっと光った。それから間もなく物凄い音が「ドォーン」と耳にひびいた。その音と共に、僕は一間あまり飛ばされた。あたりはまっ暗であった僕はその時なんとなく叫んだ。しばらくするとあたりが見えた。みんな一生懸命逃げて行く。朝鮮の人たちはアイゴーアイゴーと泣いていた。僕がぽかんと立っていると見かけないをぢさんが親切に僕の手を引っぱってどんどんと逃げて行った。それから昼過ぎに僕の家の焼け後に帰ったが、家族の者は誰も居なかった。いくらたっても帰って来ない。その日にかぎってちりじりになって居た。お父さんは、兵隊に出ているし僕は一人ぼっちで泣いていた。これから先の事をどんなにやって行けばよいのか僕には、わからなかった。そこへ近所の小父さんがやって来て僕は川原に有る小屋でその晩は寝せてもらった。明くる日はもう人の呼び声があった。僕の名を呼ぶかなあと。思って聞いていると『小島梅吉』はおらんかあと大きな声で呼んでいる。梅吉と言うのは僕のおじいさんの名であった。僕は親類のおじさんだと思って叫んだ。それからその小父さんの家につれて行かれて、間もなく田舎の病院に入院した。それから後にお父さんが田舎へさがしに来た。その時僕はうれし涙が出た。お父さんと僕は泣きながら今までの事を話し合った。
僕は今でも両手のやけどを見ると、原爆の事を思い出してくやしくなる。終
現住所 広島市立町□□□□
被爆当時の住所 広島市中広本町□□□□□
同 年令 九才
同 職業 広瀬国民学校第三学年
出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)三〇三~三〇四ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
|