一九五〇・五・一・記
『待避所におはいり!』
座敷で遊んでいた二人の子供に―当時八才の啓子と三才の健司―庭下駄を引っかけて敵機の位置を見定めようと裏庭に出て座敷に引かえしながらこう言ったものだ。後で思ったことだがこの一言こそ二人の子供の生命を完全に、そうだそれこそかすり傷一つさせずに救った名セリフだったのだ。それは世紀の新兵器原子爆弾炸裂―一九四五年八月六日午前八時十五分―のまさに五秒前だった。
何気なく発したこの簡単な注言に二人の子供は実に忠実にしかも敏速に五メートル離れた玄関の簡易待避所にまるで転ぶようにもぐりこんだ。その一瞬さっき私の降り立った裏庭あたりに耳をつんざく爆音―音響と感じないほど猛烈な―と共に直径一〇メートルほどの真紅の閃光の一かたまりが網膜の底に焼きついた。てっきり五〇瓩(キログラム)か一〇〇瓩の焼夷爆弾だと思った。その瞬間の行動は全く意識にないが次の瞬間反射的に私の左半身が二人の子供のいる待避所にのめり込んでいた。
妻は朝食の仕度で台所に、末っ子の幼い魂―生後二ヶ月の佑子―座敷の真ん中でクリーム色の小さな毛布の上にまだ乳児に必要な朝の眠りをつゞけていた。
三〇坪の瓦ぶきの平家建は完全に押しつぶされ爆風や家屋倒壊の旋風にあふられた塵埃で眼の先はまっ暗だ。激流の如く物凄い勢いでずり落ちる瓦片のなだれの隙間を通してかすかながら明りが見える。
アッ脱出は今だ!反射的に私の体が動いた、次の瞬間不思議に何の苦痛も感ぜず、無我夢中、無惨に打ちくだかれたうず高い材木と瓦の破片の小山の上に這い出していた。そばに居た筈の二人の子供、これも私の腰にしっかとつかまって這い出しておどおどしている。救いを求めつゝあたりを見廻したこの眼に、これは又何としたことか?視野に映る遠近の家屋はことごとく砕かれ、樹木は吹き飛び、電柱、電線はまるでとりでのように折れ曲り、からみ合い、二〇〇メートル先の鉄道線路の斜面には貨車が車軸を上にぶっ倒れガソリンらしいものが引っきりなしに爆発し真黒な煙を吹上げている。二粁(キロメートル)先の市街の中心は―爆心地あたりだが―黒煙、黄煙、白煙、濛々と今までの東洋の水の都は荒れ狂う悪魔の爪先に見る見る死の街と化してゆく。
奇怪だ!解せぬ!
―私は直接広島市防空の職にあったので過去の都市空襲の知識をもっていたのだが―
今はこの謎をせんさくする暇はない。家屋の崩壊と同時に押しつぶされているだらう妻の、幼児の生死はどうか、屍体の位置もてんで見当がつかぬ。かすかに心に求める叫びも、断末のうめきも全くない。万事休す。不思議と涙も出ぬ。悲しくもない。そんな月並な人間感情は一向湧かない。これが茫然自失と云うんだろう。
突然きれぎれに、それはかすかなうめきとなった。どこかの地の底から、
『佑子は死んだ……わたしもだめ……』
妻の声らしい、妻の声だ、最後の生命のかけらが振りしぼる声だ。
『何を云うか、元気を出せ、元気を……』
この声が何か神の激励の声ででもあったのかのように―後で知ったことだが私のこの声は彼女の耳には達していなかった。腹の下でかすかに泣いた一声、死んだと思った幼児が生きていたのだ。この幼児の声が母性愛を強く刺したのだった―折れ重なった材木がめりめりと動いたとたんすっくと立った。全身血のりの生不動、しかも胸に幼児をしっかと抱いている。あのとき七メートルも離れた台所から幼児の上に打伏していたことは今に不可解な早技である。
意識したとき五人の家族はガラスや瓦の破片の無数に飛散っている僅かな空地に立っていた。
処々方々から叫ぶ声、うめく声、呪う声、父を、母を、子を呼び合う声、さながら地獄絵図そのまゝだ。至る所から火の手はあがる、黒煙は地を這い、天を蔽い、空間をだんだん押しつぶしてゆく。焼けただれた全裸の避難者のなだれる地軸の震動が無気味に五体に伝って来る。地獄の鬼の曳く車の轟にも似て全くこの世の終りを思わせる。
妻の傷は最もひどい頭の天辺から足の爪先まで全身に大小無数のガラスの破片が突き刺して無気味な白い光を反射している。右の眼球は完全に外に飛出している。左も完全ではないらしい―二年後左の眼球は整形手術で失明は免がれた、しかし右は永久に暗黒の世界に追いやられた。―私も右の肩から腕にガラスの裂傷を受け自由が利かぬ。幼児は血しほで濡れた毛布の中で生死不明、いや強いショックで生後二ヶ月の小さい心臓は一たまりもない筈だ。取りあえず身に迫る火焔の舌端を避けねばならぬ、今逃げねば完全に火焔の虜となってしまう、身にまとうものは脱出の死闘で引き裂かれ、誰もが全裸にちかい、僅かに腰の廻りに布ぎれがぶら下っているだけだ。火熱も直接皮膚に喰い入って痛い、ガラスの破片も素足で踏みしめねばならぬ、失明の妻を背負い、左手に幼児の屍を抱き、右手に二児の手を曳きやっと三〇〇メートル離れたやゝ安全な河原に避難出来た。
脱出の苦悩に肉体も精神も極度に疲労させたが火あぶりの危機からだけは辛じて脱れることが出来た。
一望数千の避難者は半裸、全裸の火傷、裂傷に堪えて辛じてうごめき、親を追うて、児を追うて狂いさまようている。焼出されて緊急避難の軍隊も命絶え絶えに故郷の母を、妻を、児を呼び続けている。
私達五人のつい近くにも既に息絶えた母親の乳房を無心にしっかと握ったみどり児、幼児の屍体を抱く狂った母、恩愛の絆の今将に絶えなんとして聖純な祈りの様々の姿態が胸に迫って到底正視出来ぬ。
私は職務の持場に就くため幾度か家族との別離を心に期したが全滅した現状は如何とも手の施しようがなかった。救護所の設置、食糧配給の連絡、情報の入手等そのどれもが無駄だった。
水を求めてのたうち狂う同僚に臨終の一杯の水を与えるのが私の僅かに残る余力のせめてもの奉仕であった。又そのために水汲みに何十回往復したことか、生の南瓜の一片を与えるために爆風で引きちぎられた南瓜畑を幾度掻き廻したことか、意識せぬ時間は流れ不安と焦燥の一夜は明けた。
再び動かぬ幾百幾千の尊い無惨な屍の上に空虚な朝の光をなげている。私達親子は周囲の死霊の中に取り残され疲労と飢えに眼がくらむ。このまゝでは死を免がれぬ、しかし運命は私達に幸ひしたのかこの悲劇の舞台を脱れて友人の家にたどりつくことに成功した。ここで二週間の静養が出来たことは真に神の救だった。上の二人の子供は田舎へ疎開させ、妻と幼児―絶望視した仮死状態から奇蹟的に蘇生したーを灼熱の炎天下を乳母車で焼失した学校跡の仮救護所に運んだ。
外廓だけ焼け残ったコンクリートの吹きさらしに死人の血のついた一枚の荒筵(あらむしろ)に眼帯の妻、栄養失調の幼児と三人一枚の薄い毛布の中で今にも断れそうな細い生命の糸をつないだ。まして公務の暇々(ひまひま)の扶養と看護は言語に絶して惨めだった。生きることの如何に苦しいかを知った。
霜の寒さが極度に傷口に沁みる十一月初め名ばかりの家に漸く雨露を凌ぐことが出来た。
私達五人はついに生命だけは取り止め、奇蹟的に夢のように……。
一九四五年八月十五日戦はすんだ。
悪夢は覚めた、苦難の鞭に打擲(ちょうちゃく)された私達は心から戦を憎み平和を求めている。私達は人類最大の悲劇をこの眼で見、この体で体験した。もう再びこんな悲劇は繰返したくない。
今や平和の鐘は鳴っている。私達は深く頭(こうべ)を垂れてひたすら平和の祈りを捧げている。
この真実の記録が世界の平和を築く礎石の一つの小石として役立つことを心から祈っている。
筆者略歴
現在―一九五〇、五、一、
住所 広島市吉島本町二丁目□□□
年令 四三才
職業 広島市保健所普及課長
原爆当時―一九四五、八、六、
住所 広島市白島九軒町
年令 三八才
職業 広島市国民義勇隊本部事務長
住所と爆心地との距離 二粁
家族 村上敏夫(筆者三八才) 文子(妻三五才) 啓子(長女八才) 健司(次男三才) 佑子(次女生後二ヶ月)
被爆直前家族の位置 全員自宅の家屋内
出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)五四一~五四七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】
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