国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME朗読音声を選ぶ/朗読音声を聞く

朗読音声を聞く

再生ボタンをクリックして朗読をお聞きください。
被爆体験について 
三好 妙子(みよし たえこ) 
性別 女性  被爆時年齢 9歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

八月六日、家の廊下に座っていた。その時、稲妻の様な光が頭上を通りすぎ、真っ暗になり、やがて明るくなった時、母、祖母、私の三人は、吹きとばされ、床下に落ちていた。

身体中ガラス片が、つきささり、切りさかれ、血しぶきが吹き出ていた。母の喉には大きな穴があき、言葉を発する度に、その穴から赤黒いメンタイコのような物がたれ下った。私は、泣く事も物を言う事も忘れ、黙ってそれを見ていた。母は、近くにあった布で、私の身体にその布をさいて、必至に結んでくれた。苦しい息をはき乍ら、一滴の血でも止めてやりたい、というように。その母の手は真っ赤で、ヌルヌルと血で光っていた。

「火が廻って来るぞオ。早くにげろ」と叫ぶ声がして、私は誰か男の人の脇にかかえられた。「お母アちゃーん」始めて私は叫んだ。その人は、私を抱いて、ガレキの上を電車道へ向かった。母と祖母が、ガレキの向こうに見えなくなってゆく。母が、真赤な手をかすかに振るのが見えた。それが、母と私の最後の別れでした。

電車道は、黒こげの人が皮フをぶらさげて、血でぬりつぶされた身体で、ハダシで、唯だまって逃げていた。不思議と静かだった。

川土手で、真っ赤にもえさかる空を見乍ら、一夜を明かした。まわりに、中学生らしい黒い人形の様な人達が、たくさんころがっていた。「お母さん」「お水を下さい」「熱いよう」その声も、だんだん小さくなり、やがて息耐えていった。淋しくも恐ろしくもなかった。みんな人の形をした感情のない塊でしかなかった。傷だらけの身体が痛みを感じたのは、三日位たって、収容所で血のりのついた布を傷口からはがされた時だった。思いっきり泣いた。そして、そのまま意識を失った。

気がついた時は、戦争が終わっていた。でも、その日から私の苦しみは始まった。身体中につきささった硝子の破片、傷口をはい廻るうじ虫。そして、毎日母を呼び、子供の名を呼び乍ら死んでゆくまわりの人達。そんな収容所での苦しい日々。板の上に寝かされて、私は、母との最後の別れの記憶だけは、頭の中に毎夜鮮明に浮かんできた。夜空の美しい星を眺め乍ら、幼い私は母を思い出し、毎夜静かに泣いていた。

あれから五十年。両親や兄を原爆で失い、自分は学徒動員に行っていて、一人生き残った主人は、思い出すのがつらいのか、決して、あの日の事は語らない。私も思い出したくなかった。でも、いい古された言葉だけれども、戦争がどんなに悲惨なものか、こんな話が信じられない今の子供達に、どうしても知って欲しい。そして、この平和がいつ迄も続く事を祈り乍ら、ペンをとりました。



※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの朗読音声を聞くことができます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針
日本語 英語 ハングル語 中国語 その他の言語