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原爆体験記(観想記) 
峯岡 巖(みねおか いわお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1950年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立西条農学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
全世界の人より注目されて居られる広島市の皆様此のうっとをしい梅雨も終れば、想ひ出多い第五回平和祭も近ずいて来ますが、此の平和祭を迎へる度に当時の情ない残酷な光影を想ひ出されるでせう。

私も此の広島市民の方々に深く同情致します。本日昭和二十年八月六日の、あの今思ひ出せばぞっとする様な出来事を広島の東方約五〇粁の河内又三〇粁位の西条より、当時の面影を何が何だか私の日記の様な物をしたためまして、世界平和の為又広島市の為、末長く当時の現状を思ひ出す為、及ばずながら此の一片でも残して頂きたく思ひまして広島市の方々を始め県下の否全世界の皆様に此の一片を送付致します。最後に皆々様の御幸福と冥福をお祈り致します。

昭和二十五年六月二十七日
豊田郡河内町上河内□□□
峯岡 巖

広島市長
各位様

原爆体験記
当時の現住所
豊田郡河内町上河内

現在の現住所
豊田郡河内町上河内
氏名  峯岡 巖
年令  二十一才
職業  官吏

思ひ出せば昭和十六年十二月八日太平洋の真只中の孤島に轟いた爆撃に数多くの戦果の報が全国に飛んだ時「やったな」と思わず叫んだのは私一人では無かったでせう。来るべき時が遂に来た‼と私は咄嗟にさう感じた。過去数年間の支那事変に次いで東洋を始め全世界の永久的平和を守る為にあの豊富な資源を持つ米英と日本とが戦を交へるのは日本帝国が全世界に三千年の光を放つ時でもあった。聖戦三ヶ年の間に我が皇軍の征く所には草木が風に靡く様に朝には一島を夕には幾万の将兵を陥れ北にそして又南にも輝かしい戦果を収め私達国民は此の戦果に何時も感激するのであった、が此の戦果の影には多くの生々しい犠牲者がありこれらの人に対して何時も私達を涙ぐませるのでありました。戦の始の間は多くの戦果に自信を持って毎日つらい銃後を守ってゐましたが、昭和一九年(一九四四年)頃よりは次第に戦況は悪くなり、次から次へと玉砕したり、又私達の住む本土にも敵機が毎日の様に見向けられ私達学生は筆を捨てて工場に学徒動員として働き、家では毎日の様に防空訓練や食糧増産に励んでゐる頃、昭和二十年の夏も真中に入った八月六日の事です・・・・・・。

今日も何時もと変らず五時に起き、六時寸時前の列車で西条農学校二年生に在学中の私は、ねむい眼をこすりながら朝飯を済ませた、空は相変らず今日の不幸一つも知らない様子の雲が一つ二つ青く晴れた空に散らばってゐた。今日も相変らず満員の遅れる列車で西条迄行かねばならぬかと、思ひながら僅かの時間の間に走る様にしながら駅迄急いだが、小学校の所迄来ると列車の勢ひの良い発車の汽笛が鳴った。やれやれ今日も遅刻した。こんな事なら六時迄夢を見て居るのに・・・・・。駅に着いて見ると先の列車は俗に一番列車と云って下り糸崎発広島行の工員列車で一般乗客の出来ない列車で私達の乗るのは何時もの様に遅れて今日は百二〇分遅れてゐた。六時から二時間と云へば家に帰って来る時間は充分にあった。田舎の駅前には都会向の薪が山の様に積んであり、此の上に荷物を置いて、何の事なく待ってゐると、丁度七時三〇分頃であったでせうか、狭い河内の谷一面が何処からともなく金属性のピンピンと云ふ様な爆音が聞こえて来た。今朝は寸時早く敵機が来たなと思ってゐると、間もなく、サイレンは鳴りだした。私達は何時もと同様の事なので別に何とも思わず上空を見ると遙か雲の間より白い鳩の様なB29が一機又一機結局二機上空を東の山の瑞より現れて雲の間を西の山の瑞、丁度河内駅から見ると広島方面に向って進んで行った。何処へ今日は行くのか知らと友達と話してゐる間に警戒警報のサイレンが狭い谷間に鳴り響いた、と同時に私達は安堵の胸を撫でるを覚えるのであった。丁度此の時は飛行機が山の瑞に入って二〇分位経った時であらうか。此の間休む間も無く山陽本線は軍需物資を運んで客車は安々入りそうにない。時間は八時であるのにと思ってゐると、駅員が皆様お待たせ致しました只今より下り広島行の改札を致します。と女のやさしい声が狭い待合室に拡がった。やれやれ待つた待ったと云ふ様に誰も彼も体のつかれを直す為か伸んだり縮んだりしながら、弁当箱や新聞紙を持って下りホームに出てゐる。我々も同様の思ひでこれらの人達の後に続きお客の少いホームでぼんやり何気なく列車を待ってゐると、突然何の様子もなかった目の前が丁度稲妻でも光った様に、ピカピカと西の山の瑞の方から光った。と思ふと何か異様な音が二つ本当に大地でも割れるのでは無いかと思ふ程底力のある音が私達の胸に強く感じた。みんな今のは何だらう今のは何の音だらう、と小さい駅のホームのあっちでもこっちでも話し合ってゐる。私達も色々と想象して話してゐると駅の方より今のは広島が爆撃を受けてゐるのだと、知らせてくれた。色々と話してゐる間に今光った方より丁度南瓜をさかさにした様な雲が入道雲の様に否怪人の様にむくむくと桃色を帯びた、夕焼雲の様な色でだんだんと見る見る高く大きくなって行く。本当に不思議な事である。間もなく列車は相変らず窓硝子の無い黒くすすけた四等客車を引いて静かに入って来た。幸ひ此の谷底の様な河内駅でも水がほしさに、三分から五分間停車するのでお客さんもホームに下りて不思議な雲を眺める人もある。やはり生きてゐる様にむくむくと変ってゐる。間もなく何処からとも無く再び金属性の音が聞こえて来た。又来たなと思ってゐるとサイレンは休む暇なく鳴りだした。私もあの広島を爆撃した敵機を見ようと思って空を見つめたが、日が何かかすみにでも包まれた様ではっきり見えず、爆音のみ勢ひ良く河内の空を通り過した。

列車は実に戦々況々としてゐる、日本本土を真夏の太陽を浴びながら青々とした田園の中を朝風の良い空気を破れ窓より吸ひながら尚も不思議な雲の方に進んで行った。

次の白市駅で乗る人達の話は皆今先の話である私も本を広げて読んでゐたが、あまり話が面白そうなので一時は只ぼんやりと本を眺めてゐて話の方に心を引かれそうな時もあった。此の様にして本の内容は良くわからないが、五頁位読んだのかめくったかした頃、外の様子を見ると、西条駅間近になり毎日見る賀茂鶴の倉庫が手に取る様に見えた。ああ、平和な日本であればこれらの倉庫は現在の如く軍需物資を積まなくても酒を仕込んで海外に輸出する事であらうに・・・・。

西条の町も古い町で何処となく薄暗い町であるが、今朝は何時とは変ってざわめいて人の心も落付かぬ様に見えた。暗い通りを大正館の所より入って我々の母校のいや学校教練を受ける営門と云ったが早いかも知れない校門を入って見ると、今日も相変らず終日実習である。私達は列車遅着の為同クラスの友達と別な仕事をやる様に話されて十時頃より仕事に取り懸った。が、今朝の変な雲が前よりか今度は色を変へて、淡灰色か又は白色の混じった黒色になって、むくむくと丁度何に例へればよいか本当に例へ様の無い形そして色をして刻々と変って行くのを見ずして仕事が出来そうにない。寸時すれば立って西の方を見てはもうあんなに変ったと五人位が二、三分毎に発表するので仕事は出来ず、何時も立ってゐる様である。丁度その時、大風が吹く時の雲の様に中央の雲がどんどんどん湧き出る様に天に高く広く拡ってゐる。どうしたのであらう。広島が燃えてゐるのにしても寸時変だ。あの様に何時迄も変な煙が出て何か爆発してゐる様だな―。「ううん」それにしても広島市より通学する者はどうしただらう。それでも早く来れば何とか情報は知れるのにと誰かが話してゐる頃、西条駅の方で盛んに列車がポーポーと汽笛を鳴らしてゐる。どうしたのだらう事故でも?又は今朝の?と思ってゐると何処からともなく駅に広島からの怪我人が帰るげなと話声がしてゐる。おい行って見ようか「ううん」仕事よりか面白いぞ、と、話はすぐに決り農具は先生に知られない様に早く納めて駅に急いだ。駅にはもう多くのやじ馬が集って、わいわいと何か騒いでゐる。私は駅前に来た時自然に眼を閉じざるを得なかった。此の世での地獄の様な光影を目の前に見たからである。中でも年は二十五か六才位の女の人が、本当に丸いと云ったら丸くふくれて体中の到る所に大きな火ぶくれが出来て、自分の着物を夢中で破って苦しんで居られる姿や、ううんとうなる声や、又学生やその他の人の苦しそうな声が、此の汗のじっとりにじみ出る様な真夏の太陽がじりじりと照りつける駅前で、あっちでも此方(こっち)でも聞こえ一時は西条の駅も野戦病院の様であった。上りホームを見ると四輌位客車を引っぱった列車が停車して盛んに怪我人を貨車から下してゐる。勿論看護婦も医者も居ない状態である。私達も只此の様な場面に臨んで学生として日本国民として、多くの英霊に対してもぼんやり見てゐる気になって居られなく感じ、前后も考へずにホームに走って行き列車から下される怪我人を駅前の人が見てゐるのにも目も向けず、暗い狭い小路を西条保険所へと運んだ。怪我人の中には水をくれ水をくれともう死の寸時前の様な何か口の出まかせを云われたり、盛んにお母さんを求められる人も少くなかった。

その時早くも駅前には多くの木炭自動車が来て負傷者を三人位乗せては国立西条療養所(駅より西方二粁)へも運んでゐた。何しろ運ぶ人が少いので私達も町の人に混じって一時的の看護人としてトラックに乗り、ゆれる自動車の上で負傷者に直接太陽の当らない様に何処のか知らない雨傘をさして目前に苦しまれるのを見ながら、励ましたり、又慰めたりしながら平素は自動車で一〇分位で着く道を、四〇分位で本当に長い気持で目的地に着いた。途中ふとトラックの上で苦しんで居られる人の手に目をやった時、其の人の左の手首は折れてゐた。其の手には八時十五分で止まってゐる八型の時計がはめられてゐた。もう硝子は、ごぞごぞに砕けて手には砂がいっぱいついてすり傷の所より赤い血がにじみ出てゐる。此の人と話してゐる間に本当に苦しそうな声で次の様な事を話された。「私は何時もの様に三〇分遅れた汽車で出勤し鉄道の交代時間にやうやく間に合ったと思ってゐると、変に目の前が暗くなってどうする事も出来ず逃げやうと思ってゐると頭の上から瓦や柱の様な物が物凄い音響と共に落ちて来て現在の様になる迄何も知りません・・・・」。ははやっぱりあの列車で行かれたのだな、そうすればやはり近所の人も此の様に?

此の様に思ひ出多き又不思議な光影又怪我人を見て戦場に一度も行った事の無い私にとっては戦場に来た様な「なぞ」の一日。八月六日も過ぎて日本にも三千年来かつて体験した事の無い敗戦を知って間もない八月一九日であったでせうか、私が始めて此の戦災地を見た時、私の胸には感慨無量の物がありました。新聞や人の話によると、もう広島には七年間は人間は勿論住めないし、その他の動物も植物も生存出来ない、と云ふ事であったが。私は何のそんな事がと思って話を聞いてゐたが、戦災後二週間経った広島では本当に其の様にしか思へなかった。あの大きな建物が殆ど全部焼け、町の所々にコンクリートの建物が二つ三つ駅前から見えるのみであった。一つはたしか福屋か中国新聞社であったらうか、又遠く相生橋の方にも一つ二つ見え市内には電車も無ければ自動車も自転車も通らず橋といふ橋は悉く落ちて焼け残った市内には庭木か街路樹であったのか、大きな松の木が黒くなって幹が立ってゐる。その間を今日も尋ねる人を尋ねて来られる人が幾千人とも知れず、川は七つ流れてゐても飲水一つとして無い暑い真夏の市内を右に左に気の狂った様に探して居られる白い姿が見られる。私もその人達の一人であったかも知れない。先ず中心地と云ってゐる白神社の方より相生橋を渡り横川の方へ足を進めた。もう町の中には死体は見えなかったが白骨となった人の骨の粉が到る所に散らばってゐる。なつかしい家そして親しい友は何処へやら?只淋しそうに炊事場らしい所に流し場の跡が昔の面影を残してぽつんとあり、又、豪家な家の金庫は真赤に錆びて、あこにもここにも並んでゐるのも少くなかった。丁度此の様子は支那事変の戦場を写真で見るのと一つ光影であった。

市内は全体が火葬場の様で醤油を煮つめる時の様な匂がぷんぷんと市内を包んで遠くや近くでも今だに煙がぼんやりと真夏の夕暮を包み町の中央に二つ三つの建物と東の方の小高い比治山が如何にも淋しそうに見えるのでありました。

遠くの山の瑞に入りかけた太陽のうすら暑い陽を受けながら、列車は此の地獄の様な都。広島を後に一時間余山陽路を東に取って進んだ。

以上

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)一九八~二一一ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

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