被爆当時 広島市南千田町 □□□□
現住所 広島市南千田町 □□□□
(帝国人絹勤務)川妻 卓二
(カワツマ タクジ)
五十才
私の義脚は一貫匁の目方がある。大腿部切断でなく、股関節から離断した頗る厄介な義脚である。それでも兵隊さんの義脚よりも、耐久力を犠牲にした為か、幾らか軽量に出来てゐる。この数年来、漸っと穿き慣れた義脚だが、夏期になると、何んとしても、肉体的にその負担は大きい。
八月六日の朝八時少し前、私はいつもの様に義脚を穿いて、自宅を出た。南千田町の高工裏の自宅から会社迄は義脚の私の足でも、ものゝ十分とはかゝらない。
その頃B二九の都市爆撃は漸く激化しつゝ大都市に本社を有する会社は、地方の小都市へ続々疎開を開始してゐた。帝人でも数ヶ月前大阪本社を広島工場事務所へ移して、この鉄筋コンクリート建の地下室を有する三階建のビルは、本社から転勤して来た会社幹部や社員で急に活気を呈してゐた。
私はいつもより少し早目に出勤すると、デスクについて手紙を書いてゐた。真夏の暑い日であったが、前面に安芸の小富士を眺めるこの一角は、懐風がそよそよと吹いて、朝のひと時は流石に清涼である。この部屋は一階南西の角で、株式課と労務課が雑居してゐた。
一瞬、西側の窓の方角―元安川を隔てゝ対岸埋立の向ふに、大きなクレーンなどの見える三菱造船所の方角に、ピカッと光るものを見た。―いつも見る厳島の、山頂が鋸形になった特徴のある島影を背景にして。
さんさんと輝いた午前の太陽の下に、ピカッと光ったその色は、一寸形容の仕様もない程無気味で、いつまでも私の脳裏に沁みついて去らない。
次の瞬間、ドカンといふ大きな音と共に、三つの窓硝子といふ窓硝子が、木葉みじんに飛び散って、部屋中の書類といふ書類が、あたりかまはず四散した。私は思はず身をかゞめて机の下に入らうとしたが、義足の為めに思ふ様にならず、無意識に、デスクの傍に立てかけたステッキを右手に握った。私はテッキリ三菱造船所へ爆弾が落ちたものと思った。振り向くと部屋中の者が、傷だらけになって右往左往してゐる。私は腕や顔を触って見たが、どこも何んともない。無傷なのだ。直ぐそばにゐた、Hさんと云ふ私の仕事を手伝ってゐた四十恰好の未亡人は、顔中血まみれにして、オロオロ声で「川妻さん、どうしませう」といふ。私もどうしていゝか判らない。誰いふとなく、次の爆撃があるかも判らないといふので、みんな一たん地下室にある食堂へ退避した。三階や二階から、顔や腕の流れる血を押へて、中には「やられた!」と興奮し乍ら続々降りて来る。地下室には食堂と書庫があったが、いつもの空襲警報の退避と違って、皆んなの眼の色が緊張した空気を一層引き締めてゐる。それは息づまる様なひと時であった。次の爆撃を予期したが、どうやらそれも無いらしい。一瞬緊張した空気がゆるむ。事務室の散乱した書類が気になり出した。事務室にとってかへして、す早く書類の整理をする。株券が一枚室外の玄関脇まで吹っ飛んでゐた。どうやら、書類も紛失したものはないらしい。
玄関の石段の上から市中の方を望むと、県庁の方角に当って火の手が挙ってゐるのが見える。「あそこもやられたのかな」と思ふと、自宅の方も気になって来た。近道の方は倒壊家屋で恐らく義脚では歩けないから、少し遠くてもと思って、土手道を気ばかり焦り乍ら義足の音させて帰って行く。市の中心部に数ヶ所、煙の上ってゐるのを認める。おや、大分方々爆撃されたな、と思ったが、それでも未だ、事態の片鱗さえもつかんではゐなかった。やがて県立工業学校の角を自宅の方へ曲るところまで来る。向ふから殆んど全裸に、ボロボロの猿股一つの男が、両手を降参降参といふ様に挙げて小走りに走って来た。「どっちの方から来たのです」と聞くと、喘ぎ喘ぎ「平野町」と答へる。全身焼けたゞれて皮膚がぶらんぶらん下ってゐる。仝じ様な恰好の人があとから又二、三人来る。又四、五人来る。あとからあとから続々やって来る。皆んな眼ばかりギョロギョロ光ってゐる。まるでこの世の様ではない。私も漸やく、事態が市の中心部に起った事と察知した。
やがて自宅が見える辺りまで来ると、突然うしろから「小父さん」と呼ぶものがある。子供が三人、矢張り全裸で眼ばかり光らせ両手を挙げて走って来る。「小父さん、助けて」といふ。ふり返って見たが、誰だか判らない。「西村です」といふ。西村といふのは同じ隣組の傘屋さんである。一中に通ってゐる子供とその学友だが、どうしようもない。「早く日赤へ行った方がいゝ」といふより他なかった。日赤病院は、千田町の電車通りで、こゝから一番近い病院である。西村君は一度家へ辿りついた後、日赤へ行って簡単な治療を受けたが、翌日死んでしまった。
私は自宅のすぐ近くまで帰ったが、家の前は、道を倒れた家屋が覆ってゐて、到底義脚では歩けそうもない。「困ったな」と思って、しばらく躊躇してゐると、丁度、倒れた家屋の間隙を縫ふ様にして脱出して来る妻の姿を認めた。「オーイ」と呼ぶと、向ふでも判ったらしく、手を挙げて合図をする。頭を何かにやられたらしく、頭から肩へかけて血だらけである。簡単服も血に染ってゐる。私も安堵したが、妻は私よりも更に安心したらしく、さっき近道の方をかけ出して会社迄迎いに行ったが、庶務のNさんが「川妻さんは、大丈夫だ」と大きな声でどなって下さったので、それなら大丈夫であったかと安心して、道を探し乍ら帰って来たところだといふ。二人で高工グラウンドの防空壕まで逃げて見たが、気がついてみると、妻はバスケットを一つ提げたゞけである。それには常備薬がはいってゐる。義脚も疲労の為め漸く重たくなって来た。脱いだら早速松葉杖がないと行動が出来ない。米も必要だ。妻は松葉杖と米をとりに、も一度倒れた家の方へ引き返へす事になった。私は一旦壕の中に入ったが、又出て見たり入って見たりした。壕と自宅とは目と鼻の先きで、二百米とは離れてゐない。如何に倒壊家屋の中を縫ふて行くとは云へ、時間がかゝり過ぎる。若しかすると、何か事故でもあったのではないかと、別の道から様子を伺ひに行って見る。ゐないらしい。時間が経過するにつれ不安が増して来る。正門の方へ行って見たり、又元の防空壕へ帰って見たり、構内をあちこちと探し廻ったが影も形もない。と云って義脚で避難の人混みを分けて行動するのだから、並大ではない。まゝよ、どうにかなるだらうと覚悟を決めて、中央校庭の、比較的人目につき易い防空壕のそばに、芝生を見つけて、最早欲も徳もなく、坐り込んで了(しま)った。一刻一刻と、校庭は避難の群れで一杯である。家財、夜具、なかにはたんすまで積んだ荷車、赤ん坊を乗せた乳母車、戸板に負傷者をのせて運んで来るもの。やがて黒煙が正門の方角に立ち始めた。火が市中から高工に移り始めたといふ人の声がする。そうすると、やがてはこの校庭も火の海に囲れる。私はすぐ、嘗(かつ)て遭遇した、過ぐる大正十二年の関東大震災の火の海を想出した。それは今でもハッキリと脳裏に描く事が出来る。
この広さではもう火に包まれたら一たまりもない。そろそろ此処から見切りをつけて、又他へ避難し始める人もある。義脚では、どこへ逃げようもない。若し周囲が火の海になったらこの校庭の一等真中に居やう。それで焼け死んだら、それまでだ、と覚悟を決めて、それでも誰れか知った顔はないかと、あたりを眺めてゐた。
ふと、向ふを見ると、人の群れてゐるところでは、いちいち何かきゝ乍らこちらに来る簡単服を血によごした婦人がある。近づいてみるとそれが妻であった。妻の話はこうである。松葉杖と食糧を家からとり出して、近道を通って元の防空壕にかけつけた時は、私はゐなかった。仕様なしに校内を探し廻った挙句、人々が皆な宇品方面へ避難して居るのを眺めて、私も、若しや、その人波と一緒に宇品方面へ行ったのではないかと想像して、正門から一たん電車通を通って御幸橋を渡って専売局の前まで来てみたが、又思ひ直して、逆行するトラックに事情をうったえて無理に乗せて貰らい、も一度高工校庭を探すつもりで帰って来たといふのである。
其の夜は、蚊帳を持ち出して校庭で野宿する事にした。火の手は、いゝ具合に高工へは飛び火を免れたらしく、それでも市中の赤い炎の行手を、時々気にして眺め乍ら不安な一夜を過した。その夜の仰向けに寝た儘、蚊帳を通して眺めた星空の飽くまで美しかった事と云ったら、私の生涯に嘗て一度も経験した事のない程のものであった。
それにしても母は、娘は、妹はどうしてゐるであらう。
私の長女、三千子は前年広島女学院の英文科を卒えて、その儘、母校の教鞭を執ってゐたが、暮れの三十一日に松本院長御夫妻の御媒妁で川越助といふ青年と結婚した。家は母なる未亡人と、別居中の長兄夫妻で、鉄砲町で旅館を経営してゐた。一家揃って熱心なクリスチャンであったが、川越は結婚後纔(わず)かに一週間を三千子と共に過しただけで、突如として南支ヘ出征してしまった。一人とり残された三千子は母に仕へると共に、家業を手伝い乍ら一週二日間女学院で生徒に教へた。そろそろ疎開が始って、街中を家財を積んだ荷車が、今日も東へ西へ往来する頃になると誰れも彼も焦り出した。川越でも可部へ部屋を借りて疎開する事になったが、そうなると、彼女の仕事は急に倍加された。私にもついでだから一緒に大事なものを一行李でも二行李でも疎開したらと奨めてくれる。私達がぐづぐづしてゐると、ある日、自分で南千田町までやって来て、「みんな、のんきネー」と云い乍ら、さっさと荷物をかたづけて、いつでも出せる様に準備をして呉れたりなどした。
娘はなかなかチャッカリ屋さんである。未だ幼い三ツ四ツの頃、彼女を連れて友人の家を訪問した時の話である。出された御茶菓子を自分で勝手に紙に包んで、持ち帰った経歴の持主である。主客共に大笑した事であった。嘗て私が東京で敗血症から右脚骨髄炎を起し駿河台の病院に於ける一年半ばかりの入院生活から、いよいよ退院して郷里広島へ帰らうといふ時、引越荷物の中から、私が赤坂の山王ホテルのリンクなどで愛用してゐたスケート靴を見付け出して、最早や要らなくなった此靴を、広島で売るよりは、利用度の高い東京で売った方がよいといふので、早速妻の妹と二人で神田まで売りに行った話は、私が全快後、入院当時身辺に起った多少興味ある挿話などを取り纏めて「駿河台の頃」と名づけ御礼の意味で先輩知友に呈した小著の中にも書いておいたが、当時彼女は、麻布の東洋英和女学校の低学年に通ってゐた、チンピラ娘に過ぎなかった。もっともこの話は、相当後々まで彼女から名誉毀損だとうらまれて、事ある毎に小さな抗議を受けたものであった。
八月五日は長女三千子にとって運命の岐(わか)れる日であった。この日婚家先、川越旅館の疎開騒ぎで大童(わらわ)の活躍をした三千子は数日来頻に疲労の色が顔にも現れる程だったので、二、三日宅で休養をとらせようぢゃないかといふので、妻が、三度も南千田町から鉄砲町へ足を運んで、すゝめたが遂にその機会がなかった。
そして、その儘、八月六日が来た。ピカッと来た時、三千子は確かに茶の間にゐたといふ事である。茶の間には煉瓦の壁があったので恐らく一瞬、その下敷になり、やがて火が廻って来て焼死したに違いない。一緒にゐた母は壊れた家の下敷になって、猶「みいちゃん…」と呼び続けたが、何の応へもなかったさうである。そして母は夢中で脱出した。茶の間には、三千子と日頃敬愛する女学院のピアノの先生、吉川女史が恰度遊びに来てゐて一緒だったさうである。
焼跡には、それらしいものは何も残ってゐなかった。私共は一握りの灰を紙に包んで持ち帰ったばかりである。三千子は二十三才であった。川越の母は脱出に成功して一旦助かったが、数日後可部で敗血症と仝じ様な症状を呈して亡くなった。皮膚に斑点が現れ、頭髪がズルズル抜け出し、やがて血を吐いて苦痛を訴へ乍ら死んで行った。
当日、川越旅館に宿泊してゐた、阿多島灯台の台長の奥さんは、赤ん坊と小学校へ通ってゐる子供と共に遭難したが、大きい方の子供は、如何にしても大きな梁の下敷になった儘、脱出出来ず、そのうち火の手が近くなって来るし、「母ちゃん、僕はいゝから行って…」といふ儘に、後ろ髪引かるゝ思ひでそこを立ち去ったが、子供は数分後に奇蹟的に一人で脱出して、阿多島に帰ったさうである。然し母も子も数日を生き永らへたゞけで、相ついで苦しみ乍らこの世を去った。
私の妹は広島の西部、観音町に住んでゐた。私の母は数日前から泊りがけで、いつもの様に家事の手伝ひに行ってゐた。八月六日は蒸し暑い日で、丁度勤労奉仕の当番に当ってゐたが、前日から頭痛を訴へていたので、無理矢理に母がすゝめて休ませる事にした。然し皮肉な運命は、朝になると隣りの奥さんが誘ひに来て、気のすゝまぬ儘一緒に出かけて行った。行先きは県庁前といふだけで、そのまゝ今にいたるも帰って来ない。勿論何の手がゝりもない。母は軽傷を負ったのみで助った。
当日帝人の勤労奉仕隊三十七名は、堺町の疎開作業に従事してゐたが、一人の例外もなく全滅した。たゞ一人の少女は、上衣や弁当の番人として、見張りをし乍ら物蔭に休んでゐたが、一たん助って自宅に帰り、数日後死亡した。私の同僚のO君も亦、この奉仕隊に加ったが、気丈なO君は、堺町から二哩(マイル)以上離れた牛田町の自宅まで、あらゆる困難と闘って辿りついたが、数日の後、矢張り奥さんにみとられて、この世を去った。
後記、私の記述が主として身辺に起った私事のみに限られた事は、私が行動不自由で、当時爆心地から約二哩(マイル)離れた帝人広島工場附近から一歩も出なかった為めである。猶この小文は、亡き娘三千子の霊に捧げるものである。
出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)五八六~六〇〇ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】
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