国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME朗読音声を選ぶ/朗読音声を聞く

朗読音声を聞く

再生ボタンをクリックして朗読をお聞きください。
原子爆弾遭難体験記 
天野 允夫(あまの みつお) 
性別 男性  被爆時年齢 8歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市南千田町[現:広島市中区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
二年五組 天野 允夫

僕の家は、グランドの前で、右五十メートルのへんに、電針棒がある、ぼうくうごうは、左の電針棒の斜め前の右によった、所にある。三年の二学期ごろ、その日父は、座敷で足の水虫を、なをしていた長兄は勤労ほうしに行っていた、次男は机の下のほうでごそごそしていた。僕はその日からだが、だるいので、いつも友達の家に、さそいに行くのに、今日は友達からさそはれた、玄関に入てもらった。たいぎい、早いんだといってぐづぐづしていた、行かうと思て柱に、よりすがった時、左の電針棒のへんから黄色い色のした光が一瞬にグランドを、をそった、ので、心臓がさかだちした、ごとく、びっくりした。裏に、逃ようと一寸首をまわしたそのとたん風が吹いて来た。と、思たら、なにかが頭の上から落ちて来たので、「ないた」、それからなにが、なにかわからなくなった。一瞬の出来事である、だれか、僕をだいたのでびっくりした。全世界の終かと思たが終りでわなかった。だいて、いるのは父である、道は、「電線」「かわら」「とたん」板ぎれ、そのほかいろいろな物がころげていた。電気会社のへんは燃ている。約百メートル右の所、父はすぐに、バケツに水を入れ、ちいさい、火が家の外に燃えているのをけしに、行った。僕は頭が痛いから頭に、手をやると血がつく、すると裏の、せいざい所から帰て来て手当してくれた、水道水はでない、ポンプの水で口をゆすぎ、顔も洗った。水が飲みたくて、しょうがなかった。水をのめば頭の出血が、ひどく出るから、とまとでがまんをした。世界のあらゆる化け物を集めたように、やけど、めくら、かたわや、血だるまの人が、焼けない、この南千田に集まて来た。あれよあれよと見ているうちに時間わすぎ、ゆうがたごろになって長兄は勤労ほうしに行ていたが、今は父にだかれて帰て来た。顔、足、手など、まんじゅうのごとく、やけどである、白い薬をぬり家はたおれなかったと、いっても、戸口は皆こわれ、どこからでも、はいれる。畳があると、いう事だけである、その夜僕は頭やしゃつに血がべとりと、くついて、ねむれなかった。僕も早く家を出ていたのなら兄と、をなじようになっているのだが、兄が家の犠牲になってくれたのだと思うと、涙が目ににじみ出てきた。気をまぎらすために空をみると、空は火の海のごとく、赤く悪の「した」のごとく地球の上の人類の、せんそうをのみほそうとしている。これで、悪がのき、平和がくるであろう。終


被爆当時の住所
広島市南千田町□□□□□□
年令満八才(小学校三年)
職業    〃  〃生徒

現在の住所
広島市南千田町□□□□□□
職業 翠町中学校二年生

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)四五二~四五四ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの朗読音声を聞くことができます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針
日本語 英語 ハングル語 中国語 その他の言語