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トマト 
美農 綾子(みの あやこ) 
性別 女性  被爆時年齢 25歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1966年 
被爆場所 広島市(楠木町)[現:広島市西区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
きようの食事はトマトであつた。ひんやりとした感じが意外に食慾をそそつた。今はもうどうしたのか果物さえも食慾をそそらない。入院して半年になる。随分と生命を粗末にしてきたものだと、今になつて思う。
 
冷たいトマトを口に含んだ時、私はありありと姉のことを思い起した。原爆落下後一週間ぶりに私と兄は、姉の行方をつきとめた。紙屋町の精養軒というレストランに収容されているということがわかつたのだ。急いで握り飯を作り、姉に着せるためのふとんと着物も用意した。私たちが疎開している兄嫁の里に、ひどく傷ついた姉を連れて帰ることはおそらくむりであろうと思い、私は姉と共に収容所に寝泊りする覚悟であつた。姉と生死を共にするつもりだつた。
 
自転車に積めるだけの物を積んで、手にも持つて、兄と私は疎開先の可部を出た。横川まで来ると、もう広島の街は一望に見渡せた。電車の軌道はひん曲り、電線は入り乱れていた。西空に沈みかかつた真紅な夕日が、けんらんと、尊大に、宇宙にはめ込まれるようにあつた。総てのものがそのミカン色に染められていた。めざす精養軒に来た時は、すでに八時を過ぎていた。
 
係の衛生兵が「三村ヒデヨさん」と呼んだ。かすかではあるが、確かに返事があつた。これがこの世の声とも思えず、声のする方向に二人はにじり寄つた。むしろの上に幾人かの人が様々な形でまるでボロ布のように横たわつていた。その中の一人に確かに姉はいた。それは「ハイ」と返事をしたからわかつたけれども、とても姉とは思えない様相であつた。姉の着ていたグリーンのワンピースは殆んど黒色に変つていて、所々破れ、血糊が付いていた。ローソクの灯影で見る姉の両腕はズルズルで、ガサガサしていた。顔もはつきりした区別はない。
 
赤くうれ過ぎて、しかも熱気であつくなつた小さなトマトを姉は狂気のようにむさぼり食べた。動かしてみて、初めてそれが口とわかるような焼けただれた口だつた。トマトを握つてみて、初めてそれが指とわかるような血と埃にまみれた指だつた。
 
姉は、持参した握り飯は殆どノドを通らないらしい。熱が高い。頭も変になつているらしく、理屈に合わないことばかり口走る。あの時、姉が連れて出ていた二人の子供のことを口にしないのが不思議だ。とにかく、なだめて静かに眠らせることだ。兄と私は、荒むしろの上に姉を中にはさんで横になつた。蚊が物すごい。が、姉はちつともかゆくないという。
 
少しとろりとしたようだが、何かの物音に私は眼をみひらいた。姉の様子がどうもおかしい。息が苦しそうで、脈もとぎれ勝ちである。衛生兵をよんだ。方々でも臨終の近い人があるらしく、病人のうめき声や、肉親をはげます泣き声が、しきりにあちこちでする。衛生兵は来るとローソクの灯で強心剤らしいものを打つてくれた。姉は、何か言うつもりでただ口をもぐもぐさせるのだが、内容は全然わからない。中で一つわかつたことがある。子供のことだつた。「お母ちやんの手を離さないのよ、ほら、しつかり持つて、しつかり持つて……」―そのうち、傷めつけられたやけどの手を顔のあたりまで持ち上げて、しきりに何かをさぐつている様子だ。私は、はつとした。その姉の手を、兄と私はしつかりと握りしめた。姉が息をひきとつたのは、それから間もなくだつた。
 
私は、姉の他に母、伯父、伯母、甥も原爆で亡くした。母と甥の骨は家の焼け跡から出てきた。ボロボロに白く焼けた母と甥の骨を、用意してきた罐に一つ一つ拾いながら、兄と私は誰はばかることなく涙をぼろぼろ流して、声をあげて泣いていた。道を歩きながらも涙はつきなかつた。姉や母の骨を田舎にある墓地に持つて行つたのは、八月十五日だつた。
 
終戦の詔勅を、私たちは山の中の墓地できいた。勿論、下山して知つたのだが、今、その時の気持を思い出すのは無理なような気がする。日本は敗れた。そうして、肉親は多く失い、家は焼かれ、家財はなくなつて終つた。この世というものがどんな形で変化してゆくのか、私たちはどの様に生きればいいのか、想像することも出来なかつた。
 
私は、市内楠木町の軍需工場の中で原爆に遭つた。多少の打ち傷はあつたが、屋内にいたのでケロイドはない。
 
戦後三年間、私には無我夢中で働き続ける運命が待ち受けていた。死んだ姉の子が一人生き残つて、学童集団疎開地に居るのだ。それを連れもどして育てなければいけない。兄は失業して、原爆症の妻と三人の子もちである。私もすでに数え年二十五才。婚期はむしろ過ぎている年頃である。しかし結局、私はこの甥を育てることにした。もし姉があんな死に方をしていなければ、或は私は甥を育てる気にはならなかつたかも知れない。
 
どん底生活の三年が過ぎ、私も病み、その後一応は人並に結婚もしたけれど、健康が勝れず、一年足らずの結婚生活から長い独身生活に移らざるを得なかつた。生活の手段は大してうまくもない洋裁稼業である。仕事の方は「風がもてくる落葉かな」といつた程度のささやかなものであつたが、病気勝ちな躰にムチ打つて、何とかたべてきた。
 
記憶を辿つてみると、六、七年も前になるだろうか。右乳に小さなしこりを感じた時、さすがに私も平静ではおれなかつた。乳癌。三十才半ばの私は、今自分の乳房がなくなる位なら、死んだ方がましだという気持と、そんなことは忘れてしまいたい気持とが、心の片すみにあつた。その秘かな悩みは、私を何かわけのわからない衝動にいつもかりたてていた、といえるだろう。
 
今年一月五日、私は弱つた、痛む体を兄に支えられて市民病院に運んだ。診察した医師は「よくがまんしたものだね」と嘆息して言つた。乳癌は大分進行しているらしく、その上、癌は骨に入つて肩と足を痛め、肺を曇らせ、声も枯れさせて終つた。入院して初めて手当らしい手当を受けることの出来た私は、動かぬ体のまま何とか半年生きのびた。どうしてこんな馬鹿なことをしたのか、といわれても、私は簡単には答えられない。私は、戦後二十年間を私なりによく生きてきたとさえ思つている。後、いつまである生命か、私にはわからない。
 
今夜も食後にはトマトを食べるだろう。冷たく、程よい塩気を含んだ紅色のトマトは、食慾のない私の口にもおいしく感じるだろう。私が育てた甥は、今年もう二十九才。妻子をもうけ、彼は唯一の義務のように、年二回のボーナス時には僅かでも送金を怠らない。私はまだ彼に、トマトだけをおいしそうに食べて死んだ彼の母の臨終の模様を語らずにいる。彼はそぶりにも出さないが、あの時のことを聞きたいと思つているだろうか……。
 

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