山陽高等学校
普通科三年
篠田 四郎
忘られもしない一生の思い出の日昭和廿年八月六日大東亜戦争最後の終止符を打った原子爆弾は水都広島の上空に日本降伏しろよと云はぬばかりに投下された。六日の朝七時三十分頃警戒警報が発令された。丁度上空を敵機が飛んでいた。当時は敵機の来襲にはなれていた様で別に私も気にせず通勤した。間もなく警報は解除となり八時朝会を終り仕事に着いた。あまりにも暑いので裸で仕事に着手した。(私の仕事は仕上で旋盤を作っていた)此の日は鉄板に穴をあける仕事で工員と二人でボール盤で仕事をしていた。始めて五分もたった頃だった。突然私達の目の前がピカッと何と云って表現してよいかわからない様な光が起った。私は電気の衝度かと思って立上ろうとした瞬間今度はドガんと云う大きな音と共に私は何か重いものに圧えつけられている様な感じがした。工場が倒壊したのだ。運悪く吾々の工場は直撃弾を受けたのだなと思った。目のあたりは何一つ見えない、唯助けて呉れという叫び声が聞えてくるばかりである。二分位も経ったろうか、あたりは薄明るくなって来た。丁度空想に描かれる地獄に落ちた様な気持がした。私も思わず助けてくれと云う声が出た。出口を探したが何処から出てよいのか、丁度ライオンや虎がおりに入れられている様に屋根が私達の上を圧えつけているのである。私は友達の名を呼び助けを求めた。そして友達の声を目あてに段々上に上がって行った。ようやくにして屋根の間から抜け出すことが出来た。抜け出すのは私が一番遅かったのか外では人員点呼をしていた。人が君の体はと注意してくれたので気が附いて見ると体は血まみれになっていた。裸で仕事をしていたので体中傷だらけで首筋も切っていた。掌は鉄板を持っていたので裂けていた。不幸中の幸か重傷者は出たが、当時は死者は見受けられなかった。点呼を終りそれぞれ避難所に向った。途中皮膚ははげてふくれあがっている人、裸で走っている人、誰が誰だかわからない様なあわれな姿である。正に生き地獄である。
この中で自分が生きているのが不思議な気がした。比治山に行き手当を受けようと思ったが、君の様な傷はまだ軽いと相手にしてくれなかった。周囲を見ると、あちこちに重傷患者がごろごろしていた。頭に指の入る様な穴が数箇あいている人もいた。私と一緒にしていた工員も一箇穴があいていた。私は友達のシャツを裂いてもらいそれを首に巻き手当をし、壕に一時避難した。B29が又々頭上に現れて来た。サイレンも聞えない。唯人が待避待避と叫んでいるだけであった。山より家の方を眺めて見た。燃えている気配もなかったので安心して山を下りた。時刻は早や午後三時半になっていた。腹のすいたのも忘れて歩いた。電信隊の所で高工の生徒に出逢ったので千田町の方はどんなですかと尋ねると千田町は一番先きに焼けたという。今迄の心は急に暗くなり家のことが心配になって来た。御幸橋にさしかかると欄干が片側落ちて無くなっていた。橋の側には死体があり川にはふくれ上がった死体が浮んでいて何んとも言語に絶することが出来ない有様であった。電鉄まで来ると東千田町は見渡す限り焼け野原と化していた。唯茫然と立っていると町内会長さんに出逢った。家族の安否を尋ねると家の方は見かけなかったが東千田町の人は宇品方面に避難したと教えて下さった。丁度そこへ親戚の叔父が通りかかったので嬉しさのあまり飛びつき唯泣き続けるだけだった。家の様子はわからないと云われるので叔父と別れ私は淋しい心を胸に抱き宇品の友人の家へ行った。そこで友達のシャツを借りて着、御馳走になった。
ふと考えると姉が宇品の暁部隊にいることに気附き早速友達と二人で行った。元気でいるが今晩は向宇品の某氏の家に行っていると聞かされ安心して友達の家に引き揚げた。晩も空襲警報が発令され私達は布団を持って海岸の壕に待避した。人々は今晩は宇品が焼夷弾攻撃を受けるのだと云って騒いでいた。市中の方ではまだ燃え続けていた。海岸で一夜を明かし翌朝早速向宇品へ行き姉の来るのを待っていると向うの方から某氏と姉がやって来た。嬉しさのあまり走りより暫く二人は泣き伏して喜んだ。姉は仕事があるので別れ私は友達と二人で工場の連絡先翠町の専務宅に行き友達の安否を尋ねた。十名ばかり居たがその内一人は火傷で人事不省の様でした。他の一人は共済病院に運ばれていると聞きすぐ見舞に行った。共済病院の角まで負傷者で一ぱい、早や冷めたく死体となってゐる人も多くあった。壕の上には死体の山で晩になるとそれが焼かれた。私の父母や兄はどうしているのであろうか。もしかしたら、こんな中に入っているのではなかろうかと思って気が落着かなかった。工場の連絡先に帰り休養していると午後ひょっくり兄が尋ねて来てくれた。その時の喜びは口には出せない喜びに打たれた。父母は仁保に避難して元気でいると聞かされ早速友達と別れ兄と一緒に父母の避難先に行った。父母も喜んで飛んで出て下さった。姉の元気でいることも伝えここで二日ぶりで皆が逢ふことが出来た。其の晩は仁保の壕で一夜を明かし翌々日母の里である島に避難し島で終戦を迎えた。後で原子爆弾であったと聞き驚いた。
水都広島も此処に世界平和の礎えとなろうとしているのです。
終り
原爆体験場所
広島市皆実町三丁目
宮本航空機会社
瓦斯会社から北へ約一丁行った所
出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二八一~二八七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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