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原爆体験記 
小川 春藏(おがわ はるぞう) 
性別 男性  被爆時年齢 32歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1950年 
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 東洋工業(株)兵器部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二十年八月六日午前八時十五分

我等が郷土広島は一瞬の間に死の街と化した。地上の、あらゆる物総て打壊され焼き尽され幾万とも知れぬ、同胞は無惨にも戦争の現実に、生きる権利を剥奪されたのだ。自分は、かつて徴用工員として市外向洋の東洋工業兵器部に勤務して居た。あの瞬間微傷だにもせず東部郊外の難民の右往左往する中を脱出し市の南部を迂回して未だ人影なき酸鼻目をそむけるさながら地獄絵図の中を行く如き、惨憺たる被害地の中を右に左に何千とも数知れぬ、爆死者を眺め、材木町の我が家を求めて帰つて来た。神仏の加護を願ふのが無理か、奇蹟を頼むのが間違いか、今は一塊の焼土と化した、我が家の辺りを呆然と眺め乍ら戦争の恐しさをつくづくと感じないではいられなかつた。今朝家を出る迄は、まさかこんな事になろうとは夢想だにもしなかつた。歳老いた母は所用にて昨日田舎へ行き、妻逸枝が一人家を守つて居た。

足下から見渡す限り無惨な焼死体が散乱してゐる。昨夜まで警報毎に退避して戦争話の華を咲かして居た、隣人が、学業を捨てゝシヤベルを握つた勤労学徒、近郊農村より勤労奉仕の農民達、点々累々、無惨な黒焦死体となつて八月の太陽に晒らされて居る。其の間を男女の判別もつかない程焼けたゞれた、身体を僅かに腰の辺りをかくす程度のボロ切れに包まれた、怪物?がうろついて居る。怪物としか思はれない其の姿だ。顔は真黒焦、同じ両手を胸の辺りに支へて僅かに開いた両眼で自分等を見つけて「水を頂戴」と哀願して居る。これでは親兄弟が一寸と見たゞけでは、判別はつかないであらう。彼等は、自分の家に帰る事がわからないのであらうか、いつこう帰らうとしない。或る者は腰を地に下ろして何か考へて居るのか救助を待つのか、将又(はたまた)死の手を待つか動こうとしない。自分の立つて居る処は、緊急疎開の跡にて焼ける物は無かつたから身体を横にする事も出来た。地面は散水した如く、しつとりと水を含んでゐる。後で聞いた話によると、その直後、大粒の雨が降つたそうである。四囲は目の届く限り焼野ケ原だ、瓦と壁土の間から紅い炎がめらめらと吹き出しているばかり。自分等は、此の火炎にぐるりと囲まれて居る。戦争とはこんなものであらうか。指導者達よ、是を何んと見る。此の哀れな学徒達の姿を。彼等は、ひたすら勝つ為めに、春秋に富める、十有余年の生命を只皇国護持の一念に専心報国の誠を尽して居たのだ。そして酬はれたものは、此の悲惨な姿なのだ。近所の幼児達は二、三人手をつなぎ合つたまゝ土壁の蔭に半分埋まつて死んで居る。姉らしき子は、弟を己が身を持つてかばうようにして、うつぶして死んで居る。近隣の人達は、市中はなれた勤務先から、近郊の疎開先から一人二人と帰つて来る。我が子を親を兄弟を探し求める声が辺りに多くなつて来た。

無惨な我が子を探し当てたか焼死体を抱き号泣して居る母親、一個々々死体をのぞき見乍ら安堵やら、不安やらつきまぜた表情にて行き過ぎて行く。太陽が己斐の山に沈む頃、その声は最高調に達す。自分等は、辺りに焼けづに散乱している救急袋を拾い集め、中をのぞけば薬品類塩の利いた、いり豆蜜柑の缶詰等、汽車電車の定期券は、人目のつく所へ並べ置き、弁当を探し出し誰かゞ拾つて来た鍋で雑炊をたき申し訳けないが、おいしく頂戴した。とつぷり暮れた夜空には、此の惨事を知るや知らずや銀砂を蒔いた如く星は輝き、南から北へ銀河は、いつもと変わらぬ、姿を見せて居る。今夜は流石に蚊は一匹も居ない。遠くの方で何か破裂するらしく「ぽんぽん」と爆音が聞へて来る。何時頃であらうか遠方でサイレンが鳴つてゐる。空襲警報だ。今では遠い国の事の様に感じられる。助けを求める声、探す声は陰惨に夜風を振るはしている。夜更けと共にそれ等の声も段々と少くなつて行く。

淋しさはひしひしと胸をしめつけて来る。心身共に疲れて居れど眠れそうにない。周囲の人達は思い思いに板等を拾つて来て横になる。寝むつて居るのか考へて居るのか話し声一つしない。そのうちどこからかいびき声が聞へて来る。軍属の人らしい。薄着の体に夜更けの風がそゞろ寒い。木切れを拾つて来て焚火する。

逸枝は何処に行つたのであらう。此の状態では、生命は絶対にない。せめて骨なりと拾ふ迄で頑張ろう。あちこちの火炎の中に無気味な青い炎がめらめらと燃へている。あの炎の下で多くの人が白骨と化しているのであろう。今朝からの事が次々に思出される。初めて焼死体を見た時、路上の水槽の中で全裸の女学生の折り重なり両手を上げ救を求めた其のまゝの姿、井戸の底、防空壕の中の死体、若い婦人に殺して呉れと呼びかけられた時、等々現実に見た人でなければ真実とは思はれないであらう。

戦争とはこんなものか絶対に勝たなければならない。皇国の勝利を見ずして死んで行つた人達になんで顔向けが出来ようぞ。而し戦況は次第に最悪の場合に立ち至つてゐる事が我々にも薄々と感じられる。竹槍で戦争が出来るであらうか。精神力で化学に打ち勝つ事が出来様か。かつて町内の或る敗戦論者が言つた如く敗けるのではないかしら。我々は其の人を国賊と蔭口を言つて居たが、此の冷厳なる現実に直面して益々其の感を深くした。

こんな事を思つている中に短い夏の夜は、東の方からしらじらと明けて来た。

七日の朝は昨夕と変りないまゝに明けて来た。夢ではない。やつぱり廃墟の中に座つて居る。四方を見渡せば焼野ケ原の中にコンクリート建築物が灰色にくすぼつて建つている。何も無い処に煙突がぽつんぽつんと壊れもせずに取り残されている。幹だけになつた庭木が淋しそうに立つている。未だ盛んに地上からは炎が吹き上げている。忘れられていた助けを求むる声探す声が段々と耳につき初めた。昨夜の中に救助されたかそれとも息絶へたか。負傷者の数は大分少くなつた様だ。辺りには昨日と同じ事が繰り返されている。それを見る度に、昨日は出なかつた涙が今日はよく出て仕方がない。

親兄弟の再会が涙の中にかすんで見へる。

死線を越へて恐怖と混乱と炬火の中から逃れて来た人達だ。我が家の跡へは近寄れそうにない。近所をぶらぶら歩いて見る。新大橋の河畔は、学徒達の死体で埋り凄惨其の極なり。新橋は大破してその河畔にも大勢の負傷者が死体の間に腰を下ろしてじつと河面を見つめている。やつぱり家へ帰ろうとはしない。実に不思議でならない。疎開先より近所の人達が様子を見に帰つて来る。それ等の人達に弁当や、乾パンや煙草を貰ふ。遠くからサイレンが聞へて来る、見上げれば晴れ渡つた青空に、敵B二九、一機が銀翼を輝かせて南へ飛んで行く。人々は「BだBだ」と言つて小さくなつて物蔭に身をひそめる。自分は恐しいとも何んとも感じないのでそのまゝ座つて見ている。「どかん」と一つ大きなのが落ちてみたらさぞ胸のわだかまりもほぐれはしないかとも思つてみたりする。こんな焼野原へ爆弾を落した所で仕方がない。亜米利加の産業戦士が我々と同じ様に汗と油で造くつたに違いない爆弾だ、持てる国、亜米利加でもこんな無駄な事はするものか、大声で笑つて見たくなる。

今日も一日空しく暮れんとす。今夜はもう食べる物がない、町内の人達と想談して己斐の方に一夜の宿を求めて全員十人余りで行く事にする。行く道々の惨状は目もあてられない。西の歓楽境、寿座附近は酸鼻その極なり。

天満町、福島町と電車道伝いに西へ行く。焼け残つた電車の中にも生ける姿そのまゝに腰をかけて息絶へている人もある。鉄橋の枕木はレールの下だけ焼けている。時折醒(さむ)い風が身を包む。己斐は幸ひにして火災より救はれている。

派出所前で罹災証明書と大きな握り飯を二つ貰ふ、乞食の様に路端に腰を下ろしてかぶりつく。己斐駅には機関車は煙りを出して居れど人一人として見へない。山手の家にて一宿一飯のもてなしを受け、破れ屋根より星を眺め乍らまんじりともせず八日の朝を迎へた。今日も灼熱の太陽はじりじりと肌を射す。なつかしき我が家の跡へ帰る。昨夕と変らぬ屍の街だ。他の人達は各々我が家の焼け跡へ散つて行く。

自分も拾つて来たスコツプを手に焼跡へたつ。一掘毎に火が吹き出して来る。ズツク靴の底が熱い、小さい置時計が転り出る、焼けたゞれてはいるけれど大体の形はなしてゐる。長針短針もそのまゝに丁度八時三十分辺りを指している。我が家は此の時刻頃灰燼に帰したのであらう。あちこちと掘る中に遂に白骨を発見す。何んの印もなけれど正しく逸枝の遺骨に相違はあるまい。涙と汗が白骨の上に音を立てゝ落ちて行く。一つ一つ拾ふ度に指先は、熱い。瀬戸物の食器に一杯拾い上げ弁当風呂敷に包む。今迄の緊張と昂奮が一時に足下から崩れ落ちる。疲労は体内を走り巡る。今は何もする元気もなし。呆然と人の動きを見ているばかり。そうだ親兄弟の待つ田舎へ帰らう。さらば今は無き我が家よ、思出の町よさようなら。三日間共に暮した人達に別れを告げ遺骨を肩に、廃墟の中を相生橋に出て護国神社の大鳥居を今は何んの感激もなく左に眺め、紙屋町に至る。此の辺りは被害最も惨烈を極む。広島城、大本営跡つは者共が夢の跡、今はさえぎる物とて無し。歓楽の巷、新天地繁華街金座通りF百貨店、映画の殿堂、噫々(ああ)昔の夢よ今何処。京橋川の鉄橋は、たゝき折られた格好だ。的場に出て段原へ行く。比治山の下電車道を堺にして東はかろうじて焼け残る。太陽は、大分西へ傾いた様だ。一夜の宿を求めてS氏の家へ行く。皆んな元気な顔で迎へて下さる。奥さんは、逸枝の遺骨を仏前に供へお経を上げて下さる。此の辺りは比治山の蔭にて或る程度被害僅少の模様なり。やがて暗黒の夜は空襲の恐怖におびへる人達を、包んで行く。思へば軍都として盛へ、そして軍都として亡び去つた広島、此の廃墟の中から再び広島は生れて行くだらうか。

あの瓦礫の中より生活の可能は見出されようか、此の戦争の続く限り広島は、永久に草木も無い砂漠として忘れられて行くだろう。そして日本のあらゆる都市は、此の運命にさらされて行くのだ。我々は何処に行つて生きて行くのだろう、我々の生きて行く大地は、此の地球上には無いのかも知れない、満州事変、支那事変、太平洋戦争と無謀なる戦争の為に。

明日は此の逸枝の骨を故里の土へ埋めてやろう、これが亡き妻へのせめてもの慰めであらう。

終り

原爆当時、(東洋工業に居た)
住所 広島市材木町□□□
職業 微用(ちょうよう)工員

現在
住所        広島市小町 □□
職業        百貨店店員
氏名        小川春藏
生年月日  明治四十五年四月□□□□生(三十八年)

出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)一六五~一七五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

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