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原爆体験記 
前田 鈴江(まえだ すずえ) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市水主町[現:広島市中区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 三菱重工業(株)広島造船所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
元住所 広島市中水主町□□□
            事務員 二十三才 佐々木 鈴江
現住所 広島県安佐郡可部町上原 □□□
            無職   二十七才 前田 鈴江

敗戦の日より既に五年過ぎた今日でも、あの忘れようとしても忘れる事の出来ない原爆の想い出―。

あの日父は朝早く中島町方面の建物疎開に出て行き、私は勤務先三菱広島造船所を腹痛の為休んで居り、母も少し身体具合が悪いので一処に病院に行くよう相談して、私は水を呑む為台所に行きかけ、母は玄関を掃いて居りました。するとパツと閃光がありはつとした瞬間身体の上へぐらぐらつと家がくづれて来ました。

「鈴江鈴江」と呼ぶ声に驚いてあたりを見廻すと、壁土、天井等で身体は挟まれて居りましたが、意外に呼吸は苦しくなく、木と木との隙間から見れば、今迄上天気だつた空が、どんよりと曇つて居る様に見えました。

「お母さん」と呼びましたが返事もなく唯付近の下敷になつている人達の助けを求めて泣き叫ぶ声が聞えて来るのみで心細くなつて参りました。併(しか)し父もすぐ帰つて来て呉れるだろう、又警防団の人達も助けに来て下さるだらうと、今で思へば頼りにもならない事を考へて居りました。

すると母が「真暗らで何も見えない。それに押へ付けられて居て少しも身体を動かす事も出来ないから私は死んでもよいけどおまえだけは助けてやりたい」と申しましたが、私は「死んでも一処なら心残りはないけどお父さんもこんな目に逢つて居らつしやるかも知れないね」と話しました。併しいくらもがいても出られそうにもなく段々心細くなつて参りましたので、「お父さん助けて下さい」と力一ぱい声を張上げました。

しばらくすると上の方で足音が聞えたので、「十九組の佐々木鈴江と母が下敷きになつて居りますから助けて下さい」と言ひますと、「下に居る人はどうにもならない。もう火が廻つて居るから」と言いながら逃げて行かれました。このまま死ぬなんてくやしい、どうにかならないものかと思つて一寸身体を動かして見ると不思議に何も身体を押え付けて居るものはなく、寝たまゝ足の方から出られました。

「お母さん出られたわ。助けてあげるから」と言ひましたが、出て見ると家は全部ぺつしやんこになつておるので屹驚(びっくり)しました。私の家は丁度四ツ角でしたので、四方から火と煙に包まれて居る様でした。

「お母さん何処」と叫んでも二階建の下敷となつているので、どの辺に吹き飛されて居るか見当も付かず、誰か呼んでこようと思つて土手の方へ走り出ましたが、そこにはやつと這い出した怪我人が川につかつたり、苦しそうにうめいて転げて居る人ばかりでした。これはいけない早く母を救ひ出さねばと思つて引返して、瓦を一枚づつはがして見たけれども火の手は益々強くなる一方でした。向側の家の前でも学生が「お母さんお母さん」と泣きながら叫んで居られましたが、あきらめられたのか川の方へ行かれるので、私は「お願ひです。助けて下さい。母がこの下に居るのですから」と申しましたが、「火はすぐ移りますよ。あなたも早く逃げなくてわ」と申されましたが、生き埋めになつた母をどうして置いて逃げられませう。

幾度か「お母さん何処」と呼んでようやくかすかに「此処よ」と聞えて来るのみで、何ともなすすべはありません。私も下敷になつた時打つたのか左肩が痛みだして来ました。もう火は近くに迫つて来て熱くなり自分一人ではどうする事も出来なくなり、どうしようか、母を置いて何の幸福があるか、否生きたいと心の内で迷いました。でも今から思ふと何んと罪深い私でしたでしよう。

「お母さんすぐ助けに来てあげるから待つてゝね」と言いながら心の中では「許してお母さんさようなら」と手を合して、一歩又一歩放心した様に土手の方へ歩きました。激しく悲しむ気力もなくし明治橋に出て両岸が盛んに燃えるのを見ながら住吉神社の方へ歩いて行きますと、罹災者の群は一ぱいで直接光線にあたつた方は火ぶくれの様にはれ上がり、眼はくつゝきそうになり、口もはれ、裸同然の姿は男女の区別も分らない程でした。生き地獄とはこの事だらうと思ひました。

避難者の群と一処に火のない方へと逃げ、川に副つて江波町の方へと歩いて行きましたが又飛行機の爆音が聞えて来たので、附近のこわれかけた事務所へ入りました。瞬間私は嘔吐を催し黄色な水のようなものを吐き出しました。苦しくなつて倒れて居ると、一処に居た人達は親切に椅子を並べ、しづく程出る水道の水を手に受けて来て呑ませて下さいました。しばらく休んで居りましたが、此処も安全な場所でないので又逃げて行かねばなりません。陽はかんかんと照りつけ十歩も行かない内に、又倒れてしまいました。

「皆さん行つて下さい私は後から行きますから」と言つて這うようにして私は、側のくずれかけた工場の軒下にころがつて居りますと、そこに一頭の馬が光線にあつたのか、体の半分程皮膚がむげて狂ひ廻つて居りました。荷物を持つた人、怪我人を連れた人、誰も言葉もなくぞろぞろと歩いて行きます。その顔は恐怖と失望にさまよつた形相でした。

日は段々と暮れかけ、火は益々強く拡つて向側の刑務所より北は、全く火の海となつてしまいました。その内に私も肩の傷はづきづきと痛み出し、消息の分からない父、置いて逃げた母、今頃はどうしていらつしやるかと思ふと始めて涙が出ました。

何時頃か見当も付きません、何処から来たかカラスが二、三羽かあかあと輪をかいて飛んで居りました。

その晩は一睡もせず翌朝陽が出ない内に江波の造船所へたどり着きました。負傷者は後から後からとたくさん此の収容所へ来られましたが、原因が分らないので治療としても唯傷の上にヨ―チンをぬつたり余程重態の人に注射をする位の手当しかしてもらえません。

私も二、三日会社に居りましたが、田舎の叔父の所に連絡がつき迎えに来てもらつたので、田舎へ行きました。所が母は骨となつて持つて帰られて居りましたので、既に母はあきらめるより外はありませんでした。しかし父の行方が不明なので不安の中に二十日たつても一ケ月たつても帰つて来ません。

私も身体が少しよくなりかけたので乗り物もない五、六里もある道を歩いて、父を探しに広島に出て草津町の知合の家に泊り、毎日市内の収容所を歩き廻りました。街は焼けくずれ己斐町から比治山まで何の障害もなく一目で見渡せる有様で、又非常に臭くて気分が悪くなりそうでした。

父の行方も分らない内に私も原爆症の徴候が表れ又倒れてしまいましたが、その頃は元気であつた人が次から次へと毎日死んで行かれるので、私もすでにあきらめて居り、別に特別な手当もしないのにとうとう一命は、とりとめる事が出来ました。母は死に、父は行方不明なので私は希望も何もなく、それからは他人の幸福を羨みながら来る日も来る日も泣いてばかり居りました。

そのうち縁あつて現在の主人と結婚し、今は一児もあつて幸福に過して居りますが、戦争は怖しいと心から叫ぶ一人です。近頃は何んとなく世界中が不安な気配がただよつているようですが、何んとかして喰い止める事は出来ないものかと、いつも心から願つて居ります。あの戦争中の暗い不安な生活、そして両親に別れてからの迷、二度と味いたくありません。世界中の者が恐ろしい戦争を避け平和を叫び祈りたいものです。これで私の原爆体験記は終りですが、何かの役に立てれば幸と存じます。
                          
終り

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)五九三~六〇〇ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

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