広島市崇徳中学校一年 前田正弘
ああ、思出せばぞっとする、昭和二十年八月六日、その時僕は小学校の二年生であった。そのころ中学校へ行っていたお兄さんは動員で工場に働き、上のお姉さんは女学校へ、下の五年生であったお姉さんはいなかに疎開していた。僕らの学校は兵舎になっており、空襲もたびたびあったので、授業もあちこちに分散して、やっていた。そこで僕等は近所にある光隆寺という寺で毎日勉強していた。
八月六日の朝も空襲警報が発令され解除になったのでお寺に行った。その時空を見ると、白い玉のような物が見えていたかと思うと、急にピカッと光り、僕等は爆風で飛ばされ、気がついて見ると、建物や垣はたおれ、電線は切れ、あたりはほこりで薄暗くなった。僕の片方の下駄はなくなり、服は肩の方がぼろぼろに破れていた。向うの広い道路には血まみれの人や服のやぶれた人が沢山逃げていた。僕も家に帰ろうと思ったが帰ることが出来なかった。警防団の人が「こっちこっち」と言われたのでついて道路に出ると、「自動車に乗れ」と言われたので急いで乗った。行く途中あちこちの家が燃えていた。その時頭が痛むので頭をさすって見ると、髪がじりじりになって焼けていた。新庄橋まで来ると、橋の向うの家が道路を防ぐように燃えていたので川に入って向うに渡る。よそのお姉さんが「まあ、かわいそうに、あの家にいって薬をつけてもらいなさい。」と優しく言ってくださった。そこへ行くと油のような薬を頭につけてくださった。「おい、また飛行機が来たぞ」といって鐘をたたかれた。空はにはかにかきくもりごろごろなるので、おそろしさのあまり、あちこちと、逃げまわって、よその防空壕に入いっていた。解除になったので、そこを去って長束の方へと歩いた。だが僕は家が心配になったので今来た道を引返えしていた。
すると、その途中なんと運の良いことだろう。こんなに大そうどうの最中に丁度、動員から逃げ帰って来ていたお兄さんに出合った。僕はやけどをして頭が大きくはれていたので、お兄さんは僕とは気がつかなかったらしく、僕が「お兄ちゃん」と呼んでも「正弘か」と問いかえされた。その時僕はうれしくてうれしくてたまらなかった。そこからはすぐ背負ってもらって逃げたが、けがをしているせいか頭が痛かった。古市の駅前の所で警防団のおじさんに一袋の乾パンをもらったがたべたくなかった。そうして気分がわるいので胸がむかむかして吐きそうになったので、しばらく草原に横になっていた。お兄さんは近くの川に行ってハンケチをぬらして僕の頭を冷してくれ、また背負ってもらって、安の学校に行くと、そこにはやけどやけがをした沢山の人々がおられ、「水をくれ、水をくれー。お父さん。お母さん。」などと無意識に叫んでいる人や、「うーむうーむ」とうなっている人もいた。僕も兄さんに出合わなかったらあんなにいっているかと思うと、ああ僕は運がよかったんだ。神か仏が僕を兄さんに引き会わせて下さったのだろうと思った。そこで僕はやけどの水ぶくれを切ってもらい薬をつけてもらってから、大きなむすびをもらったが、全く欲しくなかった。それから村の人たちに案内してもらって、それぞれ農家に泊った。僕は兄さんに背負ってもらい、安の学校で出合った兄さんの友達と三人で、一番上の家に泊った。その晩、僕は熱が出てうわごとや水をちょうだいと言ったそうだ。
あくる日、僕は昨日の朝から何も食べていないので腹はペしゃんこになり、顔は大きくはれあがって眼は開かなかった。その家は丁度薬屋だったので、熱さまし等の薬をもらったり、お兄さんは裏の小川の所でタオルをしぼっては頭を冷してくれた。三日目の朝、お兄さんの友達が「君の家のおじさん達に出合ったよ。」と言って帰ってこられたのではっと思うと、次にお父さん、お母さん、おばあさんや妹が上って来た。お父さんやお母さん達は、僕等が生きていたので泣いて喜ばれた。僕等も何と言ってよいやら、ただ嬉しさで一ぱいでした。
みんな元気でしたが、おばあさんが首のところをガラスの破片で傷をしておられた。僕も顔全体がはれあがっているので眼が思うように開かず、みんながかすかに見えるだけであったが、僕は頭の痛みも忘れて起き上り、空襲にあった時から今までの事を、ずっとお母さん達に話した。お母さんは「まあ、それはよかったね。もう横になって少し休みなさい。あまり無理をするといけないから」と言われたので寝たが、夕方になって熱が出て苦しんだ。
お母さん等は一応山本村の親類へ避難しておられたが、僕らの町の者は安村へ避難することになっていたので、ひょっとすると、僕達が安にいるかもしれないと思って尋ねて来られたのだそうだ。然し上のお姉さんはその日に勤労奉仕に行ったきり行方不明なので、お父さんは毎日夜おそく迄市内にお姉さんを探しに行っておられた。お母さん達はみんな下の方の農家に泊ることになっていたが、お兄さんは夜もろくろく眠っていないので、お母さんだけが僕達と一緒に泊って介抱して下さった。翌日の夕方、僕達はその家に厚くお礼をいって山を降り、下のお父さん達の泊っておられる家に行った。そこには近所のおばあさんが一人なので、お母さん達と一緒に避難して来ておられたが、そのおばあさんの女の子も行方不明なので、お父さんと市内へ探しに行っておられた。あくる日も同じく、そしてその晩おそく、お父さんは「お姉さんがいた。お姉さんに会ったよ」といって帰って来られたのでみんな「何処に」と言って飛び起きて見たが、お父さんは小さな箱を持って立っておられた。力なく「姉さんは死んでいたよ」と言われた。僕達はみんな静かに合掌してお姉さんの冥福を祈った。
お姉さんは鯛尾という処に収容されていた。後になって解ったのですが、ある兵隊さん(島根県の人)がめんどうをみて下さっていたのです。
近所の親類に伴村の方へ避難しておられると言うので、あくる日出発して伴へ行った。僕はお父さんに背負ってもらい、お兄さんはリックサックを、お母さんは布団を一枚背負って、おばあさんは妹と一緒に、伴に着いた頃はもう薄暗かった。その晩そこに泊めてもらい、明日の午後山本村へ行くため山を越そうとしたが、途中日が暮れてしまったので、リックサックからろうそくを出して火をともして歩いたが、ろうそくもなくなり、日はとっぷりと暮れて道がわからなくなったので、僕達は山でその晩は寝た。蚊がいて夜中は寒いくらいだった。そうして朝早くから山本村に向かって歩いた。山本の親類に着いて山で寝た事を話すと、「よく蛇やむかでが出なかったね」といわれたので、そういえばそうだなと思った。それから僕の頭の火傷はずぶずぶに化膿して蠅がたかって、仕様がなかった。
その頃も空襲警報が度々発令されていたが、八月十五日遂に終戦となった。僕は戦争に負けたことがくやしくてならなかった。必ず勝つと思っていたのに、家を焼かれ、お姉さんを失ったと思うと情けなかった。それから二ヶ月ばかり山本村にいて、後焼跡に出て、三滝の病院と親類から木をもらって小さなバラックの家を建った。その時、お姉さんのめんどうを見てくださった、兵隊さんが、島根県の方からわざわざお姉さんの遺髪を持って来てくださり、家を建てるのをてつだってくださった。今でも親類の人のように気軽い気持で来て下さるので、家の者はみんな感謝しています。僕は戦争というものは絶対にするものでないと強く感じた。二度と広島のような悲惨な状態をくりかえさないように心から祈っています。
出典 『原爆体験記募集原稿 NO1』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二七四~二八二ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
|