国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME朗読音声を選ぶ/朗読音声を聞く

朗読音声を聞く

再生ボタンをクリックして朗読をお聞きください。
原爆体験記 
岡村 三夫(おかむら みつお) 
性別 男性  被爆時年齢 9歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市東雲町[現:広島市南区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 比治山国民学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時の住所…市内東雲町□□□□□
原住所…   広島市千田二丁目□□□□□
学校名…   広島市立翠町中学校 三ノ七
 
昭和二十年八月六日午前八時十五分(時間は後でわかった)ピカッとする光線が、どこからともなく、眼前を光った。それから一分、いや五秒もしないうちに、ゴーッと轟く地轟を聞いた。僕は夢中で走った。どこがどこだか、わからなかった。それは僕の走っているところの、まわりの物が、家等が倒れたからだ。その為、まわりや先方が、暗くなった。それから、二分位した時、まわりが、だんだんと、明るくなった時の、光景。その光景はまるで地獄の様であった。僕は少しして、はっきりと、自分の身に気が付いた時、チカチカとする痛みを感じた。それは後に判明したのであるが、身体のうちで、日光の直射されていた所は、やけどしていたのである。その頃、僕は国民学校(今の小学校)の四年生で、満九才であった。誰でも、大抵の人は疎開していたが、僕はある理由により疎開をしていなかった。僕の通学していた学校は、名称を、比治山国民学校(今の比治山小学校)といゝ、疎開していない人は、町別に分かれて、お寺とか、広い家とかを貸りて、そこを学校とし、そこに先生が、二、三人位づゝ居られたのであるが、僕達の住む東雲町は、それが実施されていないで、学校が近いから、学校に通学していた。そして先生が少い点もあるかも知れないけれども、生徒を一度に、集めると、危険性がある為であろう。半分づゝに分けて、勉強をしていた。こんな風であるから、勉強も進みもせず、防空演習等で日々を、送っていた。

僕は丁度その日、休日の方で、一度は川に行って泳ごうかと思い見に行ったが、かん潮でしたので、家に帰り勉強もすんだので、家の前の通路上で遊んでいた。空はカラリと晴れ、家の裏にある工場の煙突からは、煙が、ユラリ、ユラリと、昇っていた。風はあまりなく、静かな午前であった。その頃、僕の家の家族は、母、兄、僕、妹の四人であった。その日母は、妹を連れて、的場町の小児科医に行っていた。又兄は、大洲町にあった軽金属の工場に勤労奉仕に行っていた。丁度、家の者が皆、外出している所に、原子爆弾が落ちたので、僕が、四年生の身であるから、迷うのも、当然であろう。……

そのうちに、あたりが、段々と、明るくなったので、恐しいので、家に入ろうとして、玄関の戸を開けようとしたが、戸が開かない為、玄関の前の、セメントがぬってある所に、坐って、母や兄の帰りを待っていた。その時、自分の身に気が付き、わきの下や、横腹が、チリチリとするので、近所のおばさんに問うと、それは家に入ろうとしてなったのだ。それは、スヽカブレというものだと教えて、くれた。こうゆう風にして、書いて居ると、とても長時間の様に、考えられるだろう。しかし、これは一瞬と云っても、良い程の、短時間である。その内に、母が帰って来た。

母は顔が血だらけで、妹も同然に、全身血だらけで、あった。母が話した所によると、……妹と待合室で、順番を待っていた所に、原子爆弾が、落ちたのだそうである。そして、ガラガラという、物凄い音と共に、柱や、板等が、落ちてきたので、立ったらあぶないと思い、坐って居り、一段落ついたので、立ち上り、心をいくら冷静にしようと思っても、ひどくいら立つばかりで、あったので、なるべく用心をしながら、上に上にと、柱等を足台にしながら、昇った。妹をつき上げて、自分が昇る。この様に同じ事を、くり返しながら昇った。しかし、母は自分達より他に昇って来る人がないのに気が付いた。この人達は、大抵、柱等におしつけられて、即死したのであろう。と後に語った。母が語った話のあらましである。

その内に兄が、帰って来た。兄は幸にも、けが一つ、やけど一つせずに、無事帰って来たのである。僕は母に、近所の人が、スヽカブレだと云った所を、見せた。母は直に、(その時はもう水ぷくれが出ていた)やけどということに気が付いて、戸をこじ開け、家の中に入り、幸にもめげていない、油の入ったビンと、塩とを持って来て、僕につけて、くれたが、又、ひどくなった様な気がした。それから母は、妹の傷を、オキシドールが土中に、埋めてあったので、つけ赤チンをつけた。素人の手ではこれだけの事しか出来なかった。又、薬も無かった。

これだけの事をしている内に昼となった。昼には、むすびの配給があった。このむすびは、呉の方面より、持って来たという事である。非常に感謝して、食べた。又、非常に、うまかった。午後になって、やけどの為か、眠気がさして、きたので、畑の中で寝た。僕が起きたのが、午後四時半頃で、起きた時には、僕のまわりは、タンスや、ふとん、炊事道具等で、囲れていた。それは僕達の家に、火が移ったならば、いけないので、屋外のこの畑に出したのである。起きると、僕は、のどが、乾いて、カラカラであった。水をくれと兄に頼んだが、兄はあまり飲むと、いけないと云って、少しだけくれた。しかし、まだ飲みたいので、今度は、坐っている母(足をくじき、坐っていた)に頼んだ。すると母は、死ぬるかも知れない身だから、水位満足にやってくれと兄に頼んだので、兄は又、ポンプの所に行き、水をくんで来てくれた。

空を見上げると、寝ている所から見て、西から、南に、かけて、空が真赤になって、いました。そのうちに、あたりが、段々と暗くなるに、つれて、空は、ますます、真赤になって、きました。そのうちに僕は、又、寝たのでしょう。

起きた時にはもう朝で、昨日の事等、すっかり忘れた、様に、空は昨日の朝と、同様に、カラリと晴れた、お天気です。十時頃でしたでしょうか、日本の軍医が、来たというので、僕は痛いのを、がまんして、行って、薬をつけて、もらいました。又、一寸として、むすびの配給があり、僕は、腹がすいていたので、三つ食べました。

その後毎日の様に何事もなく、日々を、過して居りましたが、あれは何日でしたでしょうか、あの岩国の空しゅうです。僕はその後、誰からともなく、杉の葉の丸焼きが、よく効くと、いう事を、聞いたので、ずっと、つけているうちに、段々と直り、空しゅうの時は、大部分、直って居りました。大人の人達は、恐怖におのゝく、眼を、空に向けて、居りました。又其の後、敵機だという飛行機が広島の上空を飛んでいるのを、見受けました。

原爆の日より数えて、九日目、僕達は、危ないと、いうので、田舎え、トラックを頼み、疎開しました。行く途中、僕達は、東雲町より、ずっとトラックで走り、鷹の橋の方を、通って行きましたが、大抵、親や子か、親類の人達でしょう、死体を、焼いているのに、会いました。その横を通ると、とても臭く思った事を、今でも、おぼえて居ります。又、途中で、電線が、じゃまになり、幾度も止ったりして、横川の方に来た時、まだ、あの辺は、電柱等がブスブスと、焼けていました。

田舎に着き、翌日の十五日、僕達は思ってもいなかった、降服という事を聞きました。僕は後に残念に思った事は、田舎にはラジオが無くて、天皇陛下の、御放送を、聞かれなかった事です。

田舎から、もう安心と、広島に再び帰って来たのが、十八日か十九日だったと、おぼえて居ります。帰った、翌日から、広島市内には、うす黒色の、雨が降り始めました。直に、兄が屋根の上に、上って、屋根を直しました。しかし、素人が、した事ですから、雨が、もり、昼はまだ良いのですが、夜になると、もちろん、電灯はともりません。ろうそくも無く、真暗の中で雨が、もるのですから、たまりません。僕達は、雨傘をさしたり、ござを、かぶったりして、夜の明けるのを待ちました。そして、この様な大雨が、ぶっ通し、七日か八日、続きました。

東雲町は、土地が割に高いので、大水、水害は、ありませんでした。けれども、今、住んでいる千田町では、たゝみの上に、一尺位も水が上り、水害で、持ち出して焼けなかったものも、全部、水びたしに、なったそうです。このたゝみの上、一尺というのは、男の手があり、早く建てた家の事で、大抵は、まだ、野宿だったそうです。

僕達は、東雲町の家が、こんな風で、住めませんから、似島に行く事になりました。似島では、なれない畠仕事等をして、暮しましたが、翌年(二十一年)の秋に、さつまいもが、出来た時には本当に、これ程嬉しく思った事は、ありません。昨年、「風の子」という映画が、ありましたが、あの時にも、さつまいもが、取れた場面が、ありましたが、僕もあれと同じ様に、飛び上って喜びました。

翌二十二年六月に、兄が復員致しました。そして、二十三年十一月三日に、今住んでいる、千田町に、帰ったので、あります。

此の間、中国新聞に、原爆で死んだ人の数が、二十四万七千人と、出ていました。この数を見ても、おわかりに、なられるでしょうが、戦争という事は、こんな恐しいのです。これに、こりて、戦争をやめ、世界中が平和であってくれと、僕は願って、居ります。この原子爆弾に体験した事は、僕の一生の、思い出の、一つとなるでしょう。いや、思い出の一つと、いうより、絶対に頭より、離れない思い出と、なるでしょう。僕の書いたこの、体験記が、平和の為に、いくらでも、尽力出来ましたら、僕は、何よりの幸です。日本は戦争放棄を、していますが、地球の終り迄、日本は戦争せず、何時迄も、平和であって、ほしいと思って、居ります。

終 
       
昭和二十五年六月十六日 書

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)四九三~五〇二ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの朗読音声を聞くことができます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針
日本語 英語 ハングル語 中国語 その他の言語