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平和への前奏記 
堀江 奎子(ほりえ けいこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
広島市立己斐小学校 教員
堀江 奎子
(二十才)
広島市己斐上町□□□□□
(被爆当時も右に同じ)

当時断片的にノートに書きつけた日記を少しまとめてみたものです。体験記になるかどうか・・・・・・・ひたすらに世界平和を祈りつつペンをとりました。
      

八月五日

呉工廠へ動員中の兄が夕方突然帰って来た。少し体の調子が悪いのだそうな。出張、会議で最近早く帰った事のない父も今夜はどうした風の吹きまわしか夕食前に帰宅されたので、久しぶりに一家揃って賑かな食事をする。父と兄の間に最近の戦況が話題となる。食後父のつくられた中国増産運動の歌を中心に一家団欒。母も交わって昔の歌を合唱したりした。平和な家庭。戦争はどこにあるかと云うような・・・・・・。

八月六日

何から書いたらよいかしら・・・・・・

今朝昨夜の延長で一同賑かに父を玄関におくった。警報が出たとき屋上に上って空を見るのにまぶしいからと台湾時代のサングラスを抽出しの奥からひっぱり出してかけた父に、「映画俳優の様ですよ」と笑う母。「お父様、もう一度こっちむいてみて」と云う私に「バカ云うな。見世物ぢゃあるまいし」とたのしそうに笑い乍ら、四人の子が手をふって見送る中を、何時もの様に自転車で出られた。それから一時間たった頃だったろうか。私は百米先の大伯母の家にお使いをたのまれ、弟と共に家を出た。三軒先の曲り角を曲ると左側が山になっていて、二十人位の兵隊さんが腰を下ろし、汗をふいている。他に人通りもないので何となく恥づかしいなと思い乍らその前を通りかけた途端に何か黄褐色の光がひらめいた。

「まあ兵隊さんのいぢわる。懐中電燈でいたずらした」そうだ。確に頭のどこかでそんなことを考えたのをおぼえている。しかし次の一瞬には私は弟を身体の下に入れて伏せた。目の前が真暗になり、頭の上に砂か小石がバラバラおちてくる。「やったな、壕に入れ」そんな兵隊さんの云葉が耳に入ってハッとした私は、弟を抱える様にして五米先の横穴壕にとびこんだ。暫く息をひそめるがそれきり静かなのでそっと外に出る。

大急ぎで家にひき返してみて驚ろいた。これが私の家?二分前迄の吾が家はまるで面影を変え、その前に額から血を出した兄が立っている。裸足でとび出して来た母に、「お母様」と云ったきり呆然。裏に廻ってみると二百米位西の家から火が見える。「まぐれだまが落ちたのね。こんな所に」と云い乍ら手のつけようのない家を見廻した。硝子と云う硝子は皆破れて家の中も庭もその破片だらけ。お玄関の天井がおち、お座敷の壁はお腹をつき出し、六畳の真中の畳がはね上って襖が倒れ、その上に畳が下りている。お台所はお醤油の洪水。変な爆風だなあと思っていると妹が山の青空教室から帰って来た。一同兎も角無事を喜ぶ。

己斐にまぐれだまのおちたことがきこえたら何とか父から連絡がありそうなものに等と云い乍ら家の中を見廻していると、下の畠の中の道から怪我人が登って来た。頭、腕、背中、足、みんな血だらけ。あまりお気の毒なのでよびとめて応急手当をして上げていると、後から後からくる人が救護所と間違えて行列を作る。家中の繃帯を使いつくして、今度は浴衣をさき乍ら、話を聞いていると爆弾のおちたのは己斐ではないとのこと。「市内は全部火の海ですぜ」と云う中年の男の人の云葉にびっくりする。急に父のことが気になり出した。庭に集って来る人の数はだんだん増して怪我の程度がひどくなる。様子をみにいった兄が己斐の小学校に救護所が出来ていると云って帰ったので殆どの人に学校へ行って頂く。怪我のひどい人が十二、三人残って縁側やお座敷の硝子をかたよせ横になった。中には大竹の婦人会から家屋疎開の手伝いに来たのだと云う三十すぎの人もいる。顔がヒリヒリするとて暑いのに防空頭巾をすっぽりかぶって来られたので油をぬって上げた。一人の男の人は寒気がするとかでブルブルふるえて居られるので物干竿に干してあった父の着物をきせて上げる。再び外から帰って来た兄が一寸手を借してくれと云うのでついて出る。小学校迄行った私はそこで先刻の吾が家の変化以上の驚ろきを感じねばならなかった。まさに人、人、人。そしてその人たちの誰一人として完全な人はないのだ。服を完全に着ている人もなかった。火傷にむけた皮が丁度手袋をぬぎかけたように手の先に下っている。あまりに悲惨な様子に声も出ずだまって兄についていくと道端にころがっている大八車に黒ブルマー一枚の老女がのって苦しんでいる。兄に目で合図されて私はその車の後を押した。学校に引き返して三十分程待ったが、お医者さんのまわりに集る人々の数は増すばかりで事にならない。「仕方がない。家にいこう」と兄がいった。「おばあさん。しっかりしてね。もうすぐ楽にして上げるから」「ありがとうあります。ご親切に。いきなり目の前から火が出ましてのう。いとうて、いとうて」こんな対話をしている中に家についた。母もとび出して来て三人でお座敷に上げ妹の布団にねかす。その上を痛い痛いとのたうちまわる度に白いシーツを血が染める。水、水火傷の為であろう。ねている人は皆そう訴えた。兄は先刻学校に行ったとき、自分の後輩である一中の生徒が沢山いたと云うので自分のシャツやズボンの小さくなったのを持って学校にいき、一部の生徒を家に連れて帰った。三年生とかでまだ子供みたいな生徒さん。帽子をかぶっていた所だけ髪が残り、後は一面火傷である。横にして上げ、おかゆに梅干しをそえて食べさせて上げる。側の母に「小母さん助かるでせうか、助かるでせうか。」とうわごとの様に云いつづけるのを悲痛な顔で見ていた兄が急に父の様子をみに行ってくると云いだした。心配する母や私に「なあに」と笑い乍ら長靴をはいて出ていく。ときすでに三時半。相変らず水を求める人たちに水を運んだり、いきなり曇って降って来た真黒い雨がザーザーともるのにあわてているうち、夕方になった。立ったまま梅干の入ったおにぎりを食べる。

暗くなりかけた頃兄が帰って来た。父のいる大手町二丁目中国海軍軍需監督部の前迄いくと呉から応援にかけつけた水兵さんの手で、すでに日赤に運ばれていらしたとかでそれから燃えさかる市中を熱いところは走って日赤迄いったのだそうな。父は日赤の院庭に畳を一枚ひき、毛布にくるまって下着一枚でねてらしたとか。二階からとびおりて足がところどころ打身、顔面頭部上腕に大きな傷があるがいたって元気、みんなによろしくとの事にまず一安心。リュックに浴衣、食糧等をつめて兄は再び夜の町を日赤に向う。こうもり傘を杖に懐中電燈をもって・・・・・・。暗くなり、あたりが静かになると学校にうめく人々の声「お母さん」「水」「いたい」等がきこえる。気の毒な方たち。家にいる人々の一部は自家に帰り一部はそのままねている。何となく不気味な夜が更ける。

八月七日

昨日兄とつれて来たおばあさんはお昼すぎにとうとう息をひきとられた。近所の方に担架でお寺に運んで頂く。昨夜一晩で学校にも沢山死なれた人が出たそうだ。兄が帰って来る。お父様に異常なし。交代すると云う母に、今お母さんが町に出たら気絶すると云って又兄が病院に向う。午後学校の運動場に死体を集めて火葬が始まった。どこの誰とも分らぬ人々を間に合わぬままに山とつんでは火をつけられるのだ。何と云う悲劇。夜にいたるもその煙は止まぬ。

八月八日

一日中待ったが兄が帰られぬ。イライラしているとお使いの方が見えた。「岩国の海軍病院にお運びしました。御子息も一緒です。奥さんたちにお出でて下さいとのことです」さあ大変。妹と弟は大伯母の家に預ける。家の中は名前も知らぬ一昨日からの避難者の方にお願いして大急ぎで身仕度を調え、母と共に己斐駅に向う。ここで女学校の下級生に会った。同級生、下級生の悲報をきく。脚気で休んでいた私は命拾いをした訳だ。ついこの間迄共に働らき共に笑ったお友だちの一人一人の顔を悲しく思い出していると、上りの汽車がついて兄が下りて来た。「どうしたの?」「お父さんとっても元気。奎ちゃん迄いく必要ないよ」「でも折角支度したんですもの。じゃ今夜一晩お見舞いして明日帰って来るわ」。やっと来た汽車にのりこんだのが八時すぎ。五日市、廿日市の当り迄真暗の中に所々死体をやく煙が見える。病院についた。父の部屋。お隣にもう一人若い大尉の方が休んで居られ、その枕元に血のついた軍服と剣がある。「お父様如何?私も来ましたよ」「あ、そうか」いつもの通りの父の声にホっとする。私たちが来たのでいらして下さった外科部長の中佐の方が偶然にも戦艦陸奥で父と一緒だった方。何となく力強く嬉しくなる。部屋を出られる時隣のベットをのぞかれてびっくり。「おっ死んでるんぢゃあないか?」燈下管制の下、かけつけた看護婦さんの懐中電燈に照されたその方の瞳孔はすでに大きくなっていた。次々の事件に胸ふさぎ、只々その方の御魂の安からんことを祈りつつ、死体安置室に運ばれるベッドをお送りする。妹や弟のことずけを伝えようと思ったが、まどろんでいらっしゃるらしいお父様の様子に明日にしなさいと母に云われて横になる。

八月九日

目がさめてみたら父の様子がすっかり違う。熱が高く私達の云う云葉には全然返事をして下さらない。父の病室の前が診察室で騒がしい為二階に変えて下さった。間もなく警報が出る。岩国大空襲。父は重態で防空壕に運べないので母と共に毛布を頭からかぶり父のベッドにしがみついて硝子のビリビリするのをきいた。あつがって毛布をのけようとされる父。「お父様今空襲よ。じっとしてらしてね」と云い乍ら涙が出た。ドガーンドガーンと云う音にふるえつつも兄弟四人の中で私だけが両親と一緒に死ねるのなら幸福だと思った。しかし空からも病院の赤十字は見えたのか、病院の中には何事もなかった。己斐に帰るどころではない。

八月十日

四十度を出る熱が下らない。食事も駄目。お昼前からうわごとが始まった。「そこの印をとってくれ」「早く車を迎えによこせ」仕事の事ばっかり・・・・・・時々昔の思い出を口に出される。誰やらがこんな俳句を作った等とまるで現在と関係のないこと。氷を頼むが昨日の空襲のためにない。十分おき位に水をかえる。外科部長さんのおすすめで兄に来る様にと水兵さんに連絡をとって頂く。悲しい予感。

八月十一日

昨日の通りの容態。ふと「冷いビールが飲みたいなあ」と云われ、母と顔を見合わす。食事はやはり駄目で卵一つたべて下さらない。うわごとがつづく。部屋に持って来て頂いた新聞で広島の被害が何か新兵器だったらしい事を知る。そうだろう。そうでなければ、どうしてあんなに一辺に広島中がもえ出すものですか。診察の外科部長さんが血液を調べる様にと看護婦さんに云われる。三十四と云う白血球の数にそんなことはないと何度も数え直しを命ぜられたが何度やっても同じ数の答にとうとう自分で数えられる。本当だそうだ。「不思議だなあ。」「おかしいなあ。」と云われつつ、早速輸血を始めて下さった。三時頃一回。六時頃一回。少し元気になられた様だった。父と一緒に広島から運ばれた事務所の方達の血液を皆診られたら、やはり白血球が少いのだそうだ。何か毒素のある新兵器だろうと云う話。夕方兄がかけつけてくる。「お父さん又来ましたよ」と云う声に「そうか」と答えられた所をみるとお分りになったのか。母は兄の来た安心で、兄は疲れで休まれ私、一人おきて手拭いをかえる。病院の夜は静かでローソクの火のゆれるのが何となく淋しい。

八月十二日

お父様・・・・・・・お父様、昨夜十一時頃から、お父様の息はだんだん苦しそうになりました。目は大きく開かれ天井にむかってみつめられていました。ふと不吉な予感が胸をかすめ私はお母様を起しました。お母様の顔色が変りました。そしてそれから四時間。病院の皆様や私たちの必死の祈りと看護も空しく、私たちに一言の言葉も残さないで不帰の旅路にたたれました。昨日の夕方お母様の手をとってお父様のお友達だった結城さんの名をよび「結城さん、お互いに世話になりましたなあ。有久の大義に生きましょう」とその手を強くふって仰云ったのが最後になりましたのね。あの時お父様は御自分で御自分の命に気がついていらしたの?この三日間お父様の意識は時々はっきりしていた様でしたから。・・・・・お父様。己斐でお父様のお帰りを待っている坊やたちは何て云うでしょう。お父様・・・・・・・。

八月十三日

院長先生を始め病院の方々が参列して下さりお経を上げて頂いた。その後、看護婦さんと母と兄と私がお供して山の火葬場にいく。何と淋しいお見送り。これがお父様の御最期か、でもわがままは云えないのだ。己斐の小学校を思い出す。どこの誰とも分らぬまま冷たくなっていかれた人々を山とつんでの火葬。一昨日来た兄の話によれば死体はふえる一方であの日から毎日その煙が出ているそうな。これだけの手当をして頂かれたお父様は、そして私たちはまだ幸なのだ。感謝しなくては・・・・・・・・・・・。

八月十四日

早朝お骨拾いにいく。海軍省からの発表ある迄は勝手にお骨を家へ持って帰れぬのでお骨を病院に預けたまま帰広しようとすると警報が出た。岩国二度目の大空襲。父の遺骨を胸に防空壕へ出たり入ったりしている中に日が暮れる。今日も幸に病院は何事もなかったが、情報によれば岩国駅は全焼で汽車は不通になっているそうだ。己斐においている妹や弟。あのまま名も知らぬ怪我人の方たちに預けて来た家を気にしつつ今夜もここに泊る。

八月十五日

悪夢の連続。相変らず汽車が駄目なのでお昼前、自動車で大竹駅迄送って頂く。大竹駅で折返し運転の汽車を待ち乍ら悲壮なる日本の歴史の一頁を知ったのだ。戦争がすんだのだ。終戦。敗戦。日本は負けたのだ。日本が・・・・・・・。私たちの国が・・・・・年とった陸軍予備将校の方が駅の宿直室にかけこんで「だめだっ」とひっくり返り肩をふるわせて居られる。これが事実だろうか。そう云えばつい先刻、車の窓から見た光景。事務所らしい建物の中で、二十人位の男の人が直立不動の姿勢で首を垂れたまま部屋の一隅を向いていた。どうしたのかしらと思ったが・・・・・・・。

やっと来た汽車にのった私の頭の中でこの一週間の出来ごとがフイルムになってぐるぐる廻る。現実、現実。
あまりにも悲しい平和の訪れだった。この汽車のつく所には父の死も敗戦もしらぬであろう幼い子が二人私たちの帰りを待っている。

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)一五四~一六八ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】

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