戦災当時
住所 広島市松川町□□□□
年令 十六才(数年)
学校名 広島女高師附属山中高等女学校 在学
現在
住所 佐伯郡廿日市町東桜尾
年令 二十一才(数年)
学校名 広島女子短期大学 在学
灼け付く様な暑い陽も漸く西に没し、夏草が欝蒼と茂り、木々の梢、葉陰から夕霧が立ち籠め、静かに暮れ行く山の黄昏。家を焼失してより、防空壕に眠る事二晩・・・・・・・・。毎夜此処に佇みて炎々と燃える火を・・・・・・・・・・、呪火を見下し、我家の廃墟を瞳め、昔日の思ひ出を物語るかの如く、ちょろちょろと赤い火が揺れている。
忘れもせぬ丁度二日前の午前八時過ぎであったらうか。砲弾の炸裂する大音響と共に防弾硝子の天井に赤と黄色の混じった光が映り「落ちた・・・・・、ワァ・・・・・、ガャ・・・・・・・」という声。
本能的に反射的に学友の居る処へと足が向く。「あ、真黒」早い速度で体が飛んで行く。石の上に落ちた。「痛い」上から煉瓦が落ちて来る。ニュース映画で見た空襲の場面と同じだ。
「どうか頭の上に何も落ちません様に」防空頭巾を身に付けていない事を今更後悔した。霧が晴れて行く様に、だんだんと視野が広まっていく。とても永い苦痛の時間であった。『待避』と兵隊さんが怒鳴っている。皆走って行く。私も皆の後を追った。呼吸が苦しく、足が震えて自由にならず、窒息しそうだ。誰かの肩に掴まってやっと防空壕に入った。友も工員も青い顔をしている。椅子に腰を下し、この椿事は何であるかと、想像を回らす。考えて見るとこの防空壕は、私が伏っていた処から僅か三○秒で来られたのに・・・・・・・。それを慌ててしまって、皆も同じ事に気付いたらしく思はず笑った。「学徒は休憩所に集合」と先生の声がする。恐れ乍ら好奇心も手伝って防空壕から出た。明るい処で皆の顔を見不安がとれた。
広島駅方面の者が青い顔をして五、六人遅刻して来た。彼女達は電車が停留所に着いたので降りようとした途端にこの椿事に会ったのだそうだ。メガネが吹飛んだ人、作業服と弁当の風呂敷包が爆風と共に消えた人。顔全体を火傷した人。或一部を火傷した人、救急袋の紐が焦げた人。皆夫々災難を蒙っている。私ももう一台遅い電車だったら、同じ運命として巻添えを食っていたであろう。
出席簿も硝子と同じく破れ、約半数の者は火傷や、硝子の破片で顔といはず手足から血を出している。私も爆風の恩典を蒙った。お陰で足の親指が痛い。歩行が困難だ。休憩所ではこの出来事で話が持ち切りだ。
負傷しなかったものは「救護隊のムスビをつくるから手伝って来れ」と伝令がとぶ。此処は広島の南に位する某部隊で、私達は学徒動員として勤務しているのだ。
早速緊急救護所が設けられ、隊内の負傷者、外部からの負傷者・・・・・・・、避難者。何一つ身につけないで泣き乍ら走って来る人、顔は横に膨れ、貧富の差も美醜の差もなく、唯、我我の為に救ひを求めて来る。血だらけの人、皮膚がつるりと剝げて乞食の様に手に足にぶら下り、帽子をかぶっていた人は、そこだけ毛髪が残り、河童小僧を連想させる珍風景。けれど本人は生への執着を断ち切り難く必死である。消防自動車は救急車と早変りし、市民救済に大童である。
専売局は焔の渦中に、僅か屋根を見せているだけだ。落ち付いて来るに従って自家が気になって来る。
朝出る時の我家・・・・・・・・・・、金もくせいの葉を透して新鮮な夏の朝日が玄関に射していた。玄関の横の八ツ手やザクロの木に反映して部屋は静かな清潔な心地よさを与えていた。母は勤労奉仕へ。兄は学校へ。私は動員へ。弟二人は留守番。中学一年の弟は学校が隔日制で今日は丁度休みだ。「僕行って参ります。」何だか眠そうな変な顔をして頷いた。救急袋を肩に、電車の停留所へと急いだ。家を出て一丁も行った頃、下の弟ヒヨ坊が停留所の方へさっさと行っていた。何しに行っているのだろう。「ヒヨ坊何処へ行くの。」「お宮へ行くん。」「何しに行くの」「お母ちゃん」「あら、お母ちゃんは今日勤労奉仕よ、お宮へ行っても駄目」「ううんお宮に行っちゃった」「私の云ふ事聞かないと空襲があるよ、ね、ヒヨ坊いい子でせう。帰るでせう」やっと説得した。つまらなそうな顔をして、ぽつぽつ帰っていた。あまえ子で末っ子の彼は母を独占している。そして五つになっても「赤ちゃん」と云ふ愛称を持っている。某神社の前が停留所だ。
この神社は氏神でもあるし、父が戦争にいっているので母はここ丸七年間雨の日も風の日も雪の日も武運長久の参拝を欠かした事がない。だから小さいヒヨ坊は今日もきっと母がお宮に行っているものと信じていたのだ。
停留所に着くと運よく電車が来てすぐ乗れた。前方に立って涼しい風を受け乍ら二つ停留所を過ぎた。建物疎開の整理作業。母はもう着いているだらうか。確かこの辺に居る筈だ。電車の中から群がる人を眺めた。母らしき人は見えない、勿論あの沢山の中の一人であったらう。そうして目的地に着いたのだった。
家族の顔が一人一人浮び「どうか無事であります様、否、無事に違いない」早く帰ってこの足の痛い事、爆風に飛ばされた事、総て誇張して充分に甘えてやらう。けれど順々に入って来るニュースによると、市中は火の海で交通は遮断され阿鼻叫喚の大混乱を呈し我家も燃えているらしく、悲壮だ。帰らうにも道がなく、夕方迄一応待つ事となった。
この様な大椿事を捲き起しておき乍ら、米機は未だ飽き足らず我々の頭上に再三現はれ、恐怖のどん底へとおびやかす。恐怖と焦燥の長い時間も過ぎ帰宅が許可された。帰宅に際し中隊長はおっしゃった。「家が焼け、家族と会えない時はすぐ帰っていらっしゃい。食事も部屋も心配要りません。勿論家族の方と一緒でも結構です」と親切にいって下さった。
焼けただれた蒸し暑い中を、夫々グループを組んで行く。ズックを通して体に伝はる熱は身をも焼き尽くしそうだ。路傍の電柱は倒れ、燻っている電柱、今にも倒れそうな・・・・・・・・電柱や家、人はうつ伏し、橋は落ちその袂には二、三十人の負傷者や、火傷をした人が寝ころんでいる。既に死亡した人。その上にはムシロがかけてある。父を母を尋ねる子供。我が子を呼ぶ父、母。夫を、妻を兄・・・・・・・・・・、祖父母、孫を狂える人の如く声を枯らして絶叫している。電線は絡り、電車のレールは異様な光を放ち一層凄い感じを与える。
若し罹災に会った場合の集合地として家族で決めた神社の所に来た。友とも別れ、我家の方を向いて感無量である。今朝電車に乗る時、見た鳥居も、玉垣も、駒犬も変りはないが、本殿は無く、唯、残っているものは燃えかけの電柱一本。果して今日誰がこの様な事を連想したであらう。恐らくあるまい。ふと境内を見ると癩患の行倒れの様に重なり合っている。息のある人、杜絶え人。此処附処に五、六人づつ倒れている。水、水と呻いている人。将に阿鼻叫喚の世界、地獄の阿修羅の如く。
「古村さん」「あ、小川さん」「貴女のお母様この上にいらしたわ」「そう有難うそして貴女は何処へ行くの」「私の母が今死にそうで共済病院へ行っている・・・・・・・・・・・・・。」「さようなら」「さようなら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」幼友達と別れて間もなく「咲子」と云って兄が来た。「お母様は」「救護所にいって今帰ったところだ、この上に皆居る・・・・・。」「一寸行って来る」兄は泣きそうな顔に疲れを充分見せて声は震えていた。豆炭が赤く青く燃えている傍を通って一息に山の防空壕へ行った。
母は戸口にうつ伏していた。私の想像は裏切られ、路傍に横っていた人と同じ様に母も弟もなっている。余りの事なので声も出ず涙だけ溢れ来る。大きい弟は体中皮が剝げ、手の指に足に皮膚が下り、足から汁が出て、軍足はべたべただ、鼻の右の方と胸には内出血の跡が窺はれる。余程ひどく打ったのであらう。母は顔がはれ、一見しただけでは誰かわからなかった。ヒヨ坊は頭にほう帯をし、血が滲んでいる。足も骨折したらしく「痛い、痛い」と泣いている。母も弟も水、水と水を欲する。間もなく兄が暁部隊からブドウ酒を貰って来た。弟に与えたが一口も飲まず唯水水という。「僕、水を飲んだら駄目なんだ」と前置きをしておいて、時々水筒の蓋で少しづつ与える。余り呻きもしないが思ひ出した様に水を要求する。
死を意味する様な赤紫の妙な雲が空一杯に拡がり、防空壕にも不安な心細い夜は訪れた。
私達の持ち物は家から持って出た救急袋二つと、毛布一枚、手当たり次第にモスの着物と夏ズボン一着、そして知人からもらった大きな布団一枚、それ等のものを母と弟に分けて掛け、早く夜が明ければよいと祈った。この様に簡単に家族が集まる事が出来たのは不幸中の幸であった。痛かった足も忘れ、この様な痛さ等存在を認められない。この防空壕も次から次と人が集まって今では十二、三人位いる。誰も彼も暗い洞窟の中で水、水という。夜も大分耽けた頃、突然僕がお便所へ行き度いという。けれど体中づるづるで持つ所もない。兄と二人でやっと支え、外へ連れて出た。とても苦しそうだ。気の精であってお便所はしない。これをきっかけとして四、五度ひっきりなしにお便所という。何れも気の精か、お便所はしない。その中に大変大人しくなった。兄は真剱な面持ちで見守っている。「僕、偉いね」と三人で慰めるが、本人には一向通じないらしい。少し経って「お兄ちゃん英語を教えてね」という、変な時に勉強の注文だなと思ひ乍らも、兄は「よし、よし」と言っている。弟は幼年技受験の為に、猛勉強していたのだ。又「南洋へ行ってもいい・・・・・・・・・」「おじさん」と途切れ途切れにいって静かに眠った様である。寒さの為に目が冴え、冷気は遠慮なく身を刺す運命の有為転変。ひたすら儚い運命を憎んだ。僕の足に手が触った「冷たい」ある予感が来た。「死」背筋を水が走る。「お兄ちゃん」兄も或予感を感じてか「僕僕」と呼ぶ。兄の声は悲痛であった。体は未だ温いが魂は恐らくもうこの世を去ってしまったのであらう。いとも安らかに英雄の死の如く永遠にこの世を去ってしまったのだ。断末魔の苦しみを充分面に現はして死んで行く人に比し、その顔、姿は尊く美しく平和の天使そのものの様である。
お便所と訴えたのも、死の近づくのを知って寂しさの余り私達を身近かに引き寄せる手段だったかも知れない。本家の伯父も中心地で即死したらしく「おじさん」といった言葉が理解出来る。そして「南洋へ行ってもいい」と尋ねたのは「戦地の父の処へ行ったのであらう」凡そ生きとし生けるものが、その生命を絶たれる事程悲惨な事はあるまい。爆弾投下より三日も経つ今日未だ火は衰えず、バラ色の火焔は一面に広がり燃えている。「一億一丸火の玉」と叫ばれた様に、今こそ市民がこぞって火の玉となっているのであらう。
此処に立ちてこの呪火を今は聖火として見下ろす事が出来る。音もなく静かに耽けゆく夜・・・・・・・・、今宵又眠り行く多くの不幸な人々。
私はひたすらこの聖火に冥福を祈った。
出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)二七二~二八三ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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