| 時は西暦一九四五年八月六日。
 窓外は実に良く晴れ渡り、紺碧の深い空と遠近に見える緑樹とが相合して、気持ちの良い真夏の朝の一時であった。こゝ中央電話局の交換休憩室では、後数分して天変地異が起らうと、誰が思ったであらうか。僅かな休憩を利用して、盛んに溌刺たる乙女の学徒の一団が、相寄り、楽しい夏のプランを樹てゝいた。
 
 「ねえ、猛烈暑いけえ今度のお休みに何処かえお泳(よ)ぎに行こうやあ。」
 
 「えゝ考ね。皆んな行こうや行こうや」
 
 「一体何処へ行く?」
 
 「行くと云っても余り遠くぢやあね」
 
 「何処か近い所で、えゝ所ないかいねー」
 
 「まあ、もう交替の時間じゃあけ、又、後から集って定めようや」
 
 「えゝえ、ぢやあそうせうね、さよならさよなら」
 
 後会えるのを楽しみに、各自が各々のブレストを身に付ける為、廊下に出、何時もの通り、ブレストを胸につけてから、廊下の窓から気持ち良い空を眺めた瞬間、
 
 「あっあれを!」
 
 隣にいたIさんに叫んだ。青空から百触光よりも、遥かに明るい電球ような物が、輝きながらずんずん目前に、落下して来るではないか。
 
 「あれえっ」
 
 と、叫んだ途端、「ピカッ」と光った、と、思うまに辺りは真暗闇と化し、続いて「ドン」と、無気味な物凄い音がしたかと思うと、異様なガス臭い匂が漂って来、息も詰るばかりに苦しくなって来、発声せうにも、舌先から咽喉に何か詰り、ざらざらした様な変な感じがし、「お母さん」と叫べど声が出ない。気分がじりじりする。夢を見ていたのではないかしらと、我が身を捻って見ると痛い。一体どうした事かと不思議でならない。起きようともがくけど起きられない。脊の上に何か覆い被さっている。遠近から「ガラガラ」「ザアッ、ザアッー」と、建物の倒潰する音、それに交って母を呼ぶ声が、泣き叫ぶ声が、悲壮な救を求める声、天地を怨む声、宛(さなが)ら此の世での阿鼻地獄であった。私も母の名を呼んで見ると、声が出たので嬉しくなりIさんを呼んで見ると、
 
 「Nさん痛いっ。助けてぇー。何か上にあるので起きられんの」
 
 「私もよ。痛い。誰か除けてくれんかしら」
 
 「死にそうな。痛いお母さんー」と泣き叫ぶIさん。何と云って、慰めて良いやら、自分も悲しくなって来たが、何事までもこうしていては駄目だと、死物狂いで動き続けて、やっと、抜け出られるようになり、身体に触って見ると、何が附いたのかユニフォームが、ベショベショ、顔を撫でて見ると、ヌルヌルする。真暗闇なのでさっぱり分らない。突然向うの方で、
 
 「皆んな、勝つまで頑張るのよー」
 
 あゝ、あの声は、主任の脇田先生の御声、この叫びが、どんなに私達を奮起(ふるいた)たせた事であらう。
 
 「倒れちゃあ、駄目よ、頑張って、頑張るのよ」
 
 腹を絞る様な叫び、それに応えて人々は力づき屋外へ逃れ出した。その途上、行き着く先で倒れた人や物に躓(つまづ)いた。それを躊躇していたらば、我が身は愚か後に続く人命は免れ得ないのであった。あゝ、今想えば、あの時の残虐行為が目にちらつき胸が悼む。苦しかったであらう、鬼だと怨まれたり、罵りもせられたであらう。あの人達の、友達の上を踏み躙(にじ)って―。その人達は私達の尊い犠牲者となって、果なくも其処で永遠の眠りに、つかれたのであった。
 
 漸くの思いで窓から屋外へ飛出して仰天した。私達の処だけ被害を蒙ったのだと思い込んでいた矢先なので、余りにも周囲の変り果てた姿には唖然とした。一瞬にして好天気がどんより曇った薄暗い夕暮に褐色を交ぜ合した様な、曽てなかった景色と変り、青木ものは皆枯れ果てゝ黒焦となり、突立ち、電柱・電線ありとあらゆるものが地に横たわり、恰(あたか)も夕闇迫る枯木林に立入った感であった。四方に目をやると、何れにも焔が燃え上り、恐しい火の手が遠近に、燃え広がっている。めらめらと燃える火、逃げまどう人々。自分もこうしていては危いと悟り生命の続く限り、逃げようと、気を取り直し、只一筋比治山へ比治山へと向った。途中倒れた家の傍に五・六才の女児が坐り、その脇に十ばかりの兄が女児の肩に手をかけて、
 
 「こらM子、死んぢやあいけん、死ぬんじやあーないぞ、M子、死んだんかーM子」
 
 と泣きながら励していた。早く逃げないと、すぐ火が襲って来るのに、其処を動こうともしないで、亡くなった妹を呼び返している。その辺りにも多くの人が横たわっていた。自分一人が逃げのびるのに精一杯なので、その子供を救ける人もない。後を振り向くと物凄い火がどんどん襲って来る。やっとの事で鶴見橋の根元まで辿り着くと遠近から避難して来る人で一杯だ。その何れの人々も全裸となり半裸となり、衣服を纏った人と云へばボロボロとなった物を、どす黒い汚れた傷を受けた顔、顔、後から来る人も皆同様だ。誰も彼も上ずいた声で名を呼び合ったり、泣いたりしていた。一段と高くなっている川べりの土手から市中を眺めると、一面は火の海と化し、物凄い熱で燃え上がる火と重苦しい物音は人々の心臓を掴み火を見ている人々は泣くにも泣かれず、恐怖に怯えてポカンとしているのが多かった。それにも拘らず一方ではどんどん逃げて来る人の数が増し、人々のざわめきは静まる所ではなかった。
 
 局のM部長さんが私を探し廻って来られ、「貴女の傷が一番ひどいわ。早く何とかしなければ」
 
 と云って人から分けて貰って来たと云はれる煙草を血止めに付けて下さった。そこで私は初めて傷のひどい事を知った。途中、友達が、
 
 「Nさん傷がひどいから無理をしてわ」
 
 と、声を掛けられる度に「まあ自分こそ」と思っていたのだ。誰も彼も血まぐれになっていたから、―顔へ手をやるとヌルッと血塊(けっかい)がつき、太陽に照らされて血の為に、顔が痛い程つゝ張る。
 
 こゝまで逃げられたと安心したせいか、節々が痛んで来る。―とうとう火も身近に迫って来此処も危険と云う事になり、対岸の比治山へ皆んな避難しだした。が、たった一つの頼みである鶴見橋が燃え出した。その上、川は満潮である。皆んなの顔が動揺し始めた。ぐづぐづしては居られない。皆我こそと川へ飛び込んで逃げ出した。傷がひどいから川へ入ったらいけないと周囲の人が止められるけれど、今はもう躊躇出来ない。脇田先生に手を持って戴いて泳ぐ事になった。以前あれ程、水には恐れなかった私が、途中まで行くと、息切れがし、手足は硬直し苦しくなる一方である。こんなに苦しい目に会うのだったら一そ死んだ方がとうつらうつらしていると、先生がその度に励まして下さった。お陰で、川中まで行く事が出来、そこで船の人に助けて貰い、比治山の救護所へ連れて行って貰った。
 
 「すぐ、こゝえお友達を連れて来るからこゝで暫くの間、待っていて頂戴ね。」と云はれたあの優しかった先生の云葉が最後とならうとは、……比治山へ着いた頃から何故か眼がはっきりしなくなって来たが、さすがの広い比治山の大道路を埋尽くしている人々の姿は朧げながら見えた。
 
 「早ようして呉れェー死ぬるぢゃあないか」
 
 「何をぼやぼやしとるんだ、兵隊は居らんのか」
 
 「おいおどりやあ、後から来やあがって、先にして貰う云う法があるかい」
 
 「兵隊さん早よう治してえー、水を頂戴ー」
 
 喧々囂々(けんけんごうごう)たる悲壮な様、どこもかしこも、この世の地獄さながらであった。日はがんがんと照り身は焼けつきそうであった。―
 
 それから幾時経ったであらうか。私は気が遠くなって眠っていたのであった。
 
 顔の方が引締まる覚えを感じ触って見ると、顔面全体に繃帯の巻いてある事を知った。そして居る所も異なってる事に気付いた。
 
 静かに辺りを探ると、うんうんと唸る声、それに交えて、
 
 「水を飲ませてー、死にそうなー」
 
 「家へ連れて帰ってぇー」
 
 「馬鹿ッ、今時連れて帰れるかー」
 
 「うわんうわん、お母さんお母さん」
 
 又も悲しい哀れな地獄の様である。繃帯がしてある為、私は皆目何が何やら知る事が出来ない。呆(ぼん)やりと横たわっていると誰かゞ突く。
 
 「一寸、うち目が見えんの、飲ませてぇや」
 
 「まあ可愛想にね、私も見えんの」
 
 私の言葉を聞いて絶望したか、低い声で泣き出してしまった。
 
 「一寸、何処で怪我をしたん?」
 
 「うち女子商の一年で、鶴見橋の所でね、建物疎開の作業をしとった所を、こよに怪我をしたん。あゝ苦しい、水を誰か頂戴」
 
 と云ったかと思うと、又泣きじゃくる。
 
 「お母ちゃん水を頂戴よー、お母ちゃんの馬鹿」
 
 と罵る。私も誘はれて悲しくなって気、その儘わからなくなってしまった。―
 
 ふと、図太い男の人の声で気がついた。何かに乗せられている事を知った。車が揺れる度に傷に響いて痛む。
 
 「馬鹿、痛いぢゃあないか、この傷がわからんのかー」
 
 「済みませんー」
 
 「済みませんで済むかー、気を付けえー」
 
 「痛いよー、痛いよーお母さんー」
 
 「やかましい、痛いなあ、皆んなじや我慢せい」
 
 人情も同情心もあったものではない。皆んな恐しさの為に小さく縮んでいる。傷の為に気分が焦燥にかられてこんなに殺人的になるのであらう。その上、太陽がきつく反射するので益々傷が、はしるからでもあらう。
 
 昏々と眠り、目が覚めて辺りを探って見ると何処か落着いた処に寝かされている事に気付いた。厚い藁蒲団に寝かされている。
 
 「あゝ気が付いたね、良く眠っていたね、もう安心して治療して貰って早く良くなるんだね。こゝは、金輪島。君の傷は浅いんだから早く良くなってお父さん、お母さのん所へ帰るんだね」
 
 と優しく慰めて下さった。
 
 「兵隊さんはね、暁部隊の兵隊さんだ。今まで兵隊さんは広島へ行って救護に行って帰って来た処、ひどい事をしたもんだねえー」
 
 「あっそうそ、お腹が空いてひもじいだろうね、好きなものであるもんがあったら持って来たげるから云いなさいね」
 
 と、一週間の滞在中、何から何まで私の我儘を聞いて下さったり、至れり尽せりの事をして下さった。時には、
 
 「これ兵隊達の配給だけど、兵隊さんは良いから、さあお上り」
 
 と、大好きな青葡萄や水蜜桃を傷ついた私に皆食べさせて下さった。あの味は終生忘れる事が出来ない。隙さえあれば、兵隊さんは故郷の静岡の事や又、良く聖書を読んで聞かせて下さった。
 
 待てど暮せど、家からは一方に迎えに来てくれそにない。その上、まだ空襲は続けられ、毎日毎日恐怖の日々を送った。あゝ、あれから六日遂に待望の日は訪れた。周りの人も次々に亡くなられ、静かになった部屋で一人思に耽けっている時に最愛の父がとうとう。―
 
 「妙ちゃん、お父ちゃんぢやあ、分る?」
 
 「お父ちゃん……」
 
 「随分待ったらう。お父ちゃんも毎日あちこちを探して漸く昨日分って急いで来たんぢゃ」
 
 「お父ちゃん……有難う、惠美ちゃんは」
 
 「あゝ惠美ちゃんか、あれは全身火傷をして己斐の学校で七日に……とうとう…死んだ…。」
 
 「あゝ、惠美ちゃんが……可愛想に…」
 
 再会の喜びも束の間、妹の惠美ちゃんが亡くなったと―、暫くの間、父も私も泣いた。
 
 惠美ちゃんは生きてると信じていたのに、三晩続けて見た夢、それはうそだったのか。
 
 無傷で家に帰った惠美ちゃんが、何をぼやぼやしとるの、早よう姉ちゃん帰っておいでといった夢は。
 
 惠美ちゃんは土橋の勤労作業で全身火傷をして己斐の学校に収容されて七日の夕方、父や母の、そして私の呼び呼び果敢無(はかな)くも十四才の花をしぼめたのであった。
 
 姉思いだった惠美ちゃん、幼い時からの憧れていた一県女に入学して喜んだのも束の間、戦争秋にして授業はおろか、作業に、空襲に、好きな勉強をする事が出来なかったのが残念だったらう。惠美ちゃんも、私も皆な戦争の為に女学生時代の夢を味はう事もなく一生めちゃめちゃに壊されてしまった。けどこの尊い多くの犠牲者によって平和が築れて行くのだったらこの上なく嬉しくてなりません。世界平和の礎の尊い犠牲者によって七十五年の不毛説のげん惑から脱け出た広島は世界平和として文化都市として一日一日と復興への歩み重ねて起ち上っています。
 
 それに引換えお隣の朝鮮では日夜烈しい戦争が行はれており、それが第三次大戦の因になるのではないかと案じられて居ります。
 
 どうして戦争の恐しい事が判らないのでせうか。世界の皆さん、体験した私達の叫びをお聴き下さい。戦争とは悲しいものです、この恐しさは到底筆に書き尽されるものではありません。
 
 世界の一人一人が手に手をとって明るい世界平和国家を築いて行こうではございませんか。もうすぐ満六年を迎えます。それを機に、益々平和の道を切拓いて参りませう!
 
 完
 
 現住所     佐伯郡観音村字佐方丘ノ下
 被爆当時  広島市中町 広島中央電話局の二階
 進徳女子高等学校(当時女学校)からの学徒動員
 十六才
 職業        ナシ
 氏名        中前妙子
 生年月日  昭和五年七月□□□
 被害         顔面裂傷 左眼失明 手足 かすり傷等
 
 出典 『原爆体験記募集原稿 NO3』 広島市 平成二七年(二〇一五年)三八八~四〇二ページ
 【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
 個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
 また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】
   
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