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原爆体験記 
野村 英三(のむら えいぞう) 
性別 男性  被爆時年齢 47歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 燃料会館(広島市中島本町[現:広島市中区中島町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 広島県燃料配給統制組合 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●机上の三品
広島市中島本町、恰度(ちょうど)元安橋南詰に現在燃料会館がある。当時広島県燃料配給統制組合の本部であった。この建物は地上三階地下一階で鉄骨鉄筋コンクリート建の丈夫なもので爆心点から西南約百メートルに位置している。

組合は当時毎朝八時に全員を二階に集めて国民儀礼をするのが例であった。その朝も河合業務部長の音頭で済まし全出勤者三十七名は各階各自の机にかえって仕事前の一服をやっていた。さて仕事だと自分は机上を見た処、いつもの書類がまだ置いてない。いつも課長が地下室から持ってくるのを今朝に限って忘れていたのだった。そこで自分の隣の広瀬女事務員に取りに行って貰ふつもりでその方を見たら何か忙がしそうにしていたので自分は二階を下りて地下室へ行った。

下りる前に自分はめがねを外し財布をズボンのポケットから出しそしてズボンのバンドに巻いてある鎖を解いて懐中時計を出し机上にこの三点を揃えて地下室へ下りて行った。この品は勿論みな焼いてしまったが何故そんな事を為(し)たのかは五年後の今日何(ど)うしてもわからない。

●地下室
地下室は建物の三分の一位の広さで十坪余りの狭まいもので常に電灯が灯してある。書類が見当たらないのであちこち探して階段下の金庫の処へ来た。その時だった。ドーンという可なり大きな音が聞えた。とたんにパッと電灯が消え真暗になった仝時に頭に二、三ケ所、固い小石の切片のやうなものが当った。

痛い!と、手を頭にやってみたらねっとりしたものが流れている。血だ!何んだろう、何事が起ったのだ。暫くして分らないまゝ頭の外にどこか傷をしてはいないかと上半身、双腕、両足其他を調べてみたが別に異状はないらしい。室内は真暗がりで何にも見えぬ。

自分は階段の直ぐ下に立っていた。上らうと思って足を階段にかけた。そして二、三歩上りかけたがどうも変な具合だ。階段状態が無い。板切れや瓦や砂やごちゃごちゃに混った坂になっている感じだ。

柔らかな俵のやうなものが足の下にある。おかしい。両手でそっとさはってみた。半分位砂の中に埋もっている。あっ!人間だ、抱え起して声をかけたり色々してみたが、がっくりしていて最早事切れているやうだ、とたんに躰がふるえてきたやうだ。

奥の方から闇をついて、助けてくれーと男の声だ。その声が続いて聞えてくる。そして直ぐ泣声にかはった。オオーン、オオーン、と。自分は急いで登りつめたとたんに頭をごつんと打った。手でさはってみるとコンクリートの壁らしい。双手で押してみたがビクともしない。出られない!

あっしまった、直撃弾だ!この建物に当ったんだ。地上の建物が崩壊してこの地下室だけがわずかに残ったんだ、と感じるとたまらない気持になった。出られねばこゝでこのまま埋れてしまうのか、その時ゴーと云う水の音が聞えてきた。此の地下室には八吋(インチ)位の水道管が元安橋の裏側を通って入ってきている。あっ!水道管の破裂だ!何(ど)う為(し)やう。死は時間の問題だ。あゝ駄目かー、と思ったら四人の自分の子供達の顔がすうっと目の前を走馬灯の如く通り過ぎた。それから後は分らない。何処を何うして出たのか気がついたときは一階に立っていた。

●外路へ
一階の窓の一つに人がとまっているのが影絵のやうに黒く目にうつった。一階の模様は薄暗くてはっきりわからないが戸棚や机や椅子等がひっくりかえってごちゃごちゃになっているやうに感じられた。それらを分けるやうに窓下に行って「誰か」と云ったら「広瀬です」と云った。「おお広瀬か外は」と聞くと「道路です」と云う。「よし飛べるか」「はい飛べます」と云う。「飛べ僕も行く」と云って二人は外の路へ立った。

外は真黒い煙りで暗い。半月位の明るさだ。よくみると広瀬の顔から手から血が流れている。急いで元安橋の所へ来た。ふと橋上を見ると中央手前の辺にまる裸の男が上向けに倒れて双手双足を空に伸して震えている。そして左腋下のところに何か円い物が燃えている。橋の向側は黒煙で覆はれて焔がちらちら燃え立ちはじめて見える。橋を渡らずに現在の平和塔の方へ走って行った。此処は家屋疎開の跡で広場と一部菜園になっている。そして川に下りる石段の所に行って二人は腰を下した。

●竜巻と豪雨
腰を下すまでは自分は半分夢中であった。四囲を見渡すと地上も空も真黒い煙だ。その煙の中に今やっと逃れ出た組合の建物がぼんやり建っている。正面川向うの産業奨励館も立っている。左向うには商工会議所も見える。煙の下の方から燃えている焔はだんだん大きくなってきた。しかしまだ前記三つの建物は火はない。暫くすると組合の窓縁が燃えはじめた。どの窓も火がついた。そして火は内部へ這入った。それから少し間を置いて奨励館も仝じやうになった。間もなく商工会議所も窓から内部へと燃えだした。この辺りで最後に燃えたのが会議所で郵便局は一番最初に燃え出したやうに思ふ。この間に組合を逃れて来た者が自分と共に男四人女四人計八人となった。そしてみな石段に腰を下して一所にかたまっている。片眼がだんだん見えぬやうになったと云う女、気分が悪くなったと言ふ男、頭が痛むとつげる者皆それぞれに外部の負傷と内面の故障をもっている。

しかし苦しんで声を立てる者はいない。殆んど皆無音(だま)っている。火勢は次第に拡がり大きくなって躰は熱くなって来た。川の水は満潮からだんだん引潮になるので一段一段と吾々は石段を下りる。すじ向いの郵便局の黒煙りは竜巻のやうになって空中高く上る。時々その煙の竜巻は倒れかかって吾々の頭上に来る。その中からト夕ン板の焼けたのや板切の焦げたものやが身辺に降って来て危ない。落下物を見て身をかはさねばならぬ。かはすためには上方を見ねばならぬ。その目の中に煙が入いると痛さと泪(なみだ)でたまらないし一度吸うと咽喉がむせてかなはぬ。自分は腰の中古夕オルを外して一重にして顔に当ててみたら目も楽に又呼吸も幾らか凌ぎよくなった。降って来た焼ト夕ンを拾ってそれぞれに渡したので一同はそれで躰を覆い熱気と下降物の危険から大分たすかった。元安川の水の一部が盛り上ったと思ったらクルクルクルと円柱となって空高く舞い昇った。水の竜巻だ!その中から風下に水が落ちている。火勢熾烈だ。川向いの煙が火の粉と共に吾々に襲いかかった。ウワ!と一同石段を上って広場に逃げると、とたんに火の粉が又襲いかかって来る。止むなく元の石段の石垣の隅に一同小さく固まってしまった。躰を覆うト夕ンを川水に浸けては覆い浸けては覆いして凌いだ。先程から遠くや近くで石油缶が爆発したやうな音を十数発聞いた。時限爆弾ではないかとひやひやした。そのうちにポツリポツリと大粒の雨が落ち始めて次第に烈しくなって遂にドシャ降りになった。一同吾れがちに雨宿りの場所を求めて夫々に身をかくした。しかし殆んど皆がズブ濡れになってしまった。雨が止んだ頃には寒さのためにふるへだして歯の根も合はないで其処で又火の方に近づいて躰を温め二、三十分もしたらやっと人心地がついた。八月の盛夏、大火事の中心に居て寒さのために火に近寄ると云ふことは何と云ふ事だろう。それ程あの時の雨は身に応へたのである。さうかうする中に中心部は大分火勢が衰えて来た。相生橋に行ってみると周囲は猛烈な煙と火だ。紙屋町以東は煙で見えない。二部隊の方も煙だし西南方も仝じく煙と煙だ。

●脱出
脱出して救援隊に知らせて来て呉れないかと会計の宍戸君が云った。行手の模様が全然判らないこの火の中をくぐることは死を意味する。出るからには再び此処へは帰へられないことを覚悟しなければと云って、大型の焼ト夕ン板を一枚手にして再び相生橋上に立って何処の方面に救援を求めに行かうかと見渡した。さうだ己斐の方面に行ってみやう。左官町十日市土橋まで来る間に何度となく地上やら倒れた電柱の間やらに身を伏した。市電の鉄橋の枕木があちこち燃えている中を選んで飛び渡りやっと福島町に出た。此処は未だ煙も無ければ火事も無い。空は青天だ。振りかえって見ると火と煙の地獄だ。よくも出て来たものだと思った。己斐に着いた。こゝは負傷者ばかりで何処にも救援隊は居らぬ。それから草津に来たら始めて罹災者の手当をして居る兵士五、六名に会った。何んとか同僚を救って呉れと頼んだが求める方が無理だとは幾千人とも知れぬ負傷者を見ただけで分った。残った者の中、宍戸君、安芸支部長の二人は殆んど大きな負傷はしてないので心を残して自分は廿日市へ向った。廿日市に着いたのは午后二時半頃であった。

●爆弾症
九月一日の夜急に悪寒を感じ四十度前後の発熱は其後七、八日間続いた。此の間廿日市町では毎日毎日何人となく自分のやうな状態の者が死んで行った。咽喉は痛んで来るし出血斑紋は五、六ケ所も出る。歯茎がくさり悪性下痢は十日以上も続くし、体はクタクタに哀弱して行った。薬は無し医師は手当の方法が分らぬらしく親戚も家族も諦めて居たと云ふ。

兎(と)に角時が経つにつれて元気が回復し今日健康になっているが近頃爆弾症による盲目が出はじめていると聞く。

あの朝国民儀礼に参加した三十七名中の三十六名の霊よ安らかに眠れ。嗚呼―。

一九五〇年七月記
 
野村 英三(五二才)


出典 『原爆体験記募集原稿 NO1』 広島市 平成二七年(二〇一五年)六四~七五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

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