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原爆体験記録 
名柄 敏子(ながら としこ) 
性別 女性  被爆時年齢 34歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属 主婦 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
あの五年前の原子爆弾炸裂の一瞬より廃墟と化した広島市も今は昔の如き家々が建ち並び平和都市として世界にデビューしつゝある。今日あの修羅場を目のあたりに見た私は何だか夢であった様な錯覚に時々おそわれて仕方がない。然し矢張り近親の亡き人々を想ふ時、現実は現実である。私はこの記録を書き綴るに付きどうしてあの生ながらの地獄の惨状を表現してよいか浅学の私には到底書きおろせないが只私の眼に焼きついて離れないあの凄愴な場面をありのまゝに此の拙ない筆に書き綴って見たいと思ふ。

その朝も良く晴れ渡ったむし暑い朝だった。私の家は己斐駅前の芸備銀行の隣で貧弱な商店であった。戸を一枚丈明けて奥の部屋で主人と三才になる女児と私は朝食を取ってゐた。真夏の太陽は朝から目に沁(し)みる程であった。その前を家屋疎開作業に従事する人達が延々と続いてゐた。その頃は最早元気盛りの男子は殆んど狩り出されてゐて女の人が多いかった様に思ふ。皆んな頭巾にモンペ地下足袋と凛々しい姿であった。

朝食も終へ食後の一ときを過してゐる時突然本当に突然私の物干台を斜めにピカッと蒼白い閃光を放った瞬間私は目がくらんだ様であった。そして無意識に傍にゐた女児を抱きしめる間もなくドガーンの大音響と共にあたり一面真暗く感じたぎり暫くは意識してゐなかった。

ハッと気が付いた時は女児を抱いたまゝ廊下の横の便所の前戸に押しつけられてゐた。泥とも埃とも煙ともつかぬ只濛々と噴煙の立ち込める中を立ち上ろうともがいていた所幸ひに身体の自由は奪われてゐなかった。その瞬間吾が子に気付き顔をのぞき込むと女児は泣きもせず只無表情な顔に虚ろな目を開けてゐたが息はしてゐた。

助かったーと私は感じそれからはっきりと正気付いた。始めてその時己斐駅に落す積りの爆弾が自分の家にそれたのだと感じた。閃光を受けてから之迄わずか三十秒か一分位だったと思ふ。それからは只狂人の如く無我夢中で『お父ちゃん助けてー』を叫び乍ら表に出ようとしたが障子は全部骨迄木っ葉に飛散し中の道具類は一っぱい散乱しそれに梁がぽっこり折れて横たわりとても出られそうになく、私の家は表以外には出る所がなく、全く右往左往してゐる時主人が突然裏が明いていると叫ぶので、よく見れば意外にもそれは絶対に予期しなかった裏の窓の頑強な鉄格子がぽっかり開いてゐるではないか。私は又助かったーと思った。窓の下は一米程の溝だったので漸くの事幼児と私は主人に支へられ乍ら戸外に飛び出す事が出来た。そうして私達三人は幸運にも少しの怪我もなく助った。然し戸外に出て私は再びびっくりしてしまった。

今の今迄自分の家に丈爆弾が落ちたのみ思ひ込んでゐたのが何とそこには無惨な姿を見てしまった。目の前の己斐駅のプラットはぴしやんこに潰れその隣りの官舎は殆んど破壊されそこからちよろちよろと火が燃え始めてゐた。主人や駅員の方も二、三人防火につとめてゐられた。そこには皆裏窓から飛び出した近所の人々の姿、お婆さんが腕に深い傷を負ってゐる人、足をくじいてゐる人、皆悲愴な面もちで又その顔はどれも申し合せた様に泥や埃を浴びて真黒であった。

扨(さ)てそこで何処に避難したらよいかと考へたが矢張り今迄決めてゐた之迄も一、二度待避した事のある己斐小学校より二百米位上にある主人の弟の宅に避難しようと駅の広場をはだしのまゝ歩き本通筋(私の店の表側)に出て見ると又新らしい修羅場を見た。その商店街の道路は全く足のふみ入れ場もない程の硝子と木切れの破片雨戸の散乱に私は歩行を阻まれ乍らも幼児を必死に胸に抱きしめ半ば夢中に然かものろのろと歩き始めた。するとその頃から何かぽつりぽつりと降り始めた。それはどす黒いすゝの様な大粒の雨だった。誰か後の方で油脂焼夷弾だッと叫んでゐる者があった。だんだん学校の方に歩いて行くにつれ私の前後には人々が一っぱいぞろぞろと歩いて来始めた。或る人はパンツ一枚アッパッパの破れかけ老婆のおこし一枚の姿。上半身血だらけの人。私はこの強烈なショックに恐怖も通り越し只茫然と見上げるばかりであった。今見た人々は皆己斐の人々ばかりで火傷の人々があるとは全然感じなかった。

私は小学校にたどりつきこゝも校舎が破壊されてゐるのに驚き瞬間私の脳裡には学校にゐる筈の六年生の男子と四年生の女子の事が始めて浮び子供のゐない校舎校庭を死に物狂ひで吾が子の名を叫び続けた。幸に山の横穴に女の子を見付けホットする間もなく兄の行方を探し始めた。気が付いて見れば講堂は焼け始め必死に消火は続けられ校庭にはパタリパタリ倒れた負傷者の群や右往左往する人々で一っぱいだ。学校のすぐ上の方では炎々と燃え続ける二、三軒の家を見つゝ一散に弟の家へと急いだ。来て見ると早や避難の人々で家も倉庫も一っぱいで弟の家も相当の被害を受け天井からもる雨に身の置き所もない。その頃から雨はうつす程降り始めてゐた。

幸に探してゐた男の子もこゝに来て居り兄の一家もこゝに集まりホット安堵の一息をついたが皆んな大なり小なり怪我を負ってゐた。早くからこの家に疎開してゐられた母(姑)は洗濯物を干しておられ二、三間吹き飛ばされたとの事だったが全然傷もなくみんな嬉こんだ。その母と一緒に疎開してゐた六才になる兄の女児は屋内で近所の子供達と遊んでゐて随分硝子の破片で怪我をしてゐた。私の子供達はあの時第二次集団疎開の出発の準備や訓示を聞く為め校庭に集合してゐた所B29の爆音に女子達はいち早く傍の防空壕に待避したが六年の男子達はその時『アッ落下傘だ落下傘だ』と見た瞬間ピカッとその閃光を斜線に受け半ズボンから下と両腕とあごの辺を少しとお臍の所をちよっぴりとに火傷を受けツルリと薄皮がはげ赤くなってゐた丈でその時はそれ程大した事もなく本当に之位で良かったと嬉び乍ら食用油をぬり天花粉をつけて休ませたが忽ち必要なものは寝具類だ。私達はびっしよりぬれたワンピースを着替へる間もなく降り止まぬ雨の中を我が家へと引き返した。然し一丁も下った頃から私はあまりにも変り果てた人の姿に只茫然自失之れが生ある人間の姿であろうか?私はまともに正視する事が出来なかった。

体中、ぶよぶよに焼けたゞれそれが雨にたゝかれ白くふくれ上がってゐる。わずかに身に纏ふものと云へば破れモンペ、ズロース一つパンツの破れひどひのは殆んど全裸のまゝの女学生中学生達が『助けてー助けてー』と叫び乍らどんどん上って来る。この学生達は主に一中の生徒や県女の生徒達が多かった。人、人、人、それらは皆んな二目と見られぬ程むごたらしい形相で上って来るが力尽きて通り筋の家々に皆は入り込んで所きらわず焼けたゞれた体で倒れ押し入れの中からお客布団と云わず毛布と言わずみんな勝手に引きづり出して纏ひ見る間にどの家も一っぱいになってしまった。そうして呻き声叫び声母を呼ぶ声は道行く人々の臓腑をえぐらずにはゐられなかった。家の人は皆驚きと怖さに他に引き上げてしまった。私はこの様な此の世乍らの生地獄も目のあたり見せつけられ只々恐怖の連続で半ば失心した様な情態であった。学校の所迄下った時はあの妖怪な人間の姿はぞくぞくとつめかけ長蛇の列を作ってゐた。

広島市の西部は危急の場合は己斐小学校が救護所になってゐたので、天満、観音、福島とあの方面の人々で一っぱいだった。私は途中幾度も幾度も救護所を尋ねられた。その内の或る十五、六の少年だった。全身焼けたゞれ特に口はまるで写真でよく見る印度人の如く外に大きくふくれ上り見るも無惨な姿であった。『おばさーん助けてー』とより添って来られ私は思わずゾーとして全身鳥肌になってしまった。少年は私に救ひを求めつゝ両手を延ばして来た。その手は何と皮膚がツルリとむげて指先にたらりと長く下ってゐるではないか、私は恐ろしさに声もなく思わず二、三歩下った。そして学校の救護所も到底駄目とは知りつゝも『あの学校にゐらしやいね』と教へた丈でそれ以上どうする術もなく只無我夢中で走ってしまった。今こうして沁々(しんしん)と過去を想ひ出す時薄情だった自分を責めあの亡き少年にあやまり度い気持ちで一っぱいだ。然しあの時は矢張りどうする事も出来なかったのだ。又或る女学生はズロース一枚のまゝパッタリ倒れ『お母ちやーんお母ちやーん』と最後の言葉を叫び乍ら雨にたゝかれてゐる姿に会ひ、何処からか飛んで来た布団をかけてやり乍ら『しっかりしてね』の言葉をかけてやる丈がその時の私には精一っぱいだった。又或る玄関口には全裸体の婦人が苦悶の果てあえない最後を遂げてゐられた。それは後に聞けば第一県女の先生だったらしい。何と云ふ御気毒な最後であろう。家には入り込み呻いてゐた人々も一、二日の中に皆んな骸と変って行った。

私達はあれから幾日も幾日も玄関の土間等に寝起きした。わずかの壊れない所雨のもらない所は二人の病人や沢山の子供達を休ませるのに満員なので、兄の子供はその後から頻りに下痢で苦しみ始め私の子の火傷は軽いと思ってゐたが翌日頃から膿んで来てびちやびちやになりそれに蝿は沢山患部に纏ひ又その臭みと云ったら実に何と云ったらよいか分らない。『お母ちやん痛い々々』にはほどほど私も困り抜いた。何と云っても総勢三家族十五、六人の食事等に追われ充分な看護もしてやれない。主人の兄は四、五日前より防衛召集で文理大の方に泊まり込み中あの爆弾にあい行方不明になってしまった。

七日頃から主人と姉は自転車に乗り市内のあらゆる救護所を探し又似の島、草津、戸坂と周辺もくまなく探したが遂に分らなかった。姉は後もあの余燼くすぶり妖気漂ふ廃墟の中を夫を求めてさまよった。

十日の朝近所の方の知らせで宇品の船舶練習所で死んでゐる事を聞き一家の中心を失った悲しみに一同悲歎にくれた。姉達がの引取りに行った時は残念にも今しがた焼き始めたとの事。最早亡き兄とは知りつゝもせめて死体なりとと!姉の悲しみを想ふ時胸はつまるばかり。特に母は非常に力を落し自分と代れば良いのにと歎かれた。その後から体具合が悪くなり血便が出始め、遂に八月廿五日に、廿六日には六才の女児と相つぎ原爆の尊い犠牲になってしまわれた。之を見ても如何に己斐地方も直射の面はひどかったかゞ分る。之で兄の一家は三人の犠牲者となってしまった。

私は毎日火傷の子を車に乗せては学校の宿直室の所に治療を受けに行った。そこにも、私の生きてゐる限りこの網膜を離れぬあの凄愴限りなき地獄絵巻が展開されてゐたのである。幾百人となく押しかけたあの患者に五人や七人の医者で何の役になるだろう。長蛇の列もいつか乱れ教室に廊下に溢れた人々の群は遂に校庭の木陰に迄一っぱいとなってその呻き声叫び声は只悲愴の一語に尽きる。私は隣組から割当てられたその人達の奉仕班にも働いた。鼻もちぎれんばかりのあの死臭漂ふ中をお粥お結びお茶を券と交換に配って歩いたがそれを嬉こんで食べる人は少なかった。

朝叫び昼に呻いてゐた人々は夕方には最早哀れにも骸となってゐて私達の胸をつまらせた。その修羅場の中で最も私の心に喰ひ込み今なお涙と共に忘れえぬ場面は廊下やあの木陰で何の恥らいもなき全裸半裸の中学生女学生達が瀕死の苦悶の中から『天皇陛下万歳お母ちやんさよーなら』を絶叫してゐる姿。又或る木陰には兄弟の学生が無惨な姿で横たわり最早弟は息が絶え様としてゐる傍の兄が必死で『一郎一郎なぜお前はお母さんが来る迄待たないんだ々々』と苦しい中をいたわってゐるのを見た時私は胸がつまりワットその場に泣き伏してしまった。私も子を持つ母でありこの姿この言葉をその親達が聞いたら!見られたらと想ふ時誰が泣かずにゐられよう。

校庭は幾筋も掘られ、氏名不明の者はどんどん焼かれて行った。死者は日毎に増すばかり焼き切れぬ者は何処からかトラックが来て丁度魚を引っかける様に吊り上げてはぽーんと投げる。まるで松の丸太でも積む様な世にも無惨な扱ひに私はもう目を蔽いたくなった。人の命もかく迄に軽んぜられるものかと泌々(しんしん)と哀れさを感じ心に深く合掌を繰り返すばかりだった。校庭には死体を焼く日が幾日も幾日も続いた。市の中心部は未だ未だ之れ以上だと聞いたが私はもうこれで沢山だ、之れ以上もう何にも見たくも聞き度くもないと思ひ一ヶ月ばかり市内の惨状は見なかった。

私の兄は二部隊に軍医で勤務中その朝用便を出て手を洗ふ瞬間だったので幸ひに火傷はなかったが少し負傷をして二日目頃私の所にやって来たので皆んな嬉こんだ。然しその後も残務や兵隊達の施療の疲れか五、六日頃にはすっかり元気がなく頭髪が少し抜けかけてゐた。兄は許可を得て静養の為め山深い山縣の姉の里に帰へって行った。姉がその地で女医をしてゐたので、姉はあらゆる注射等試みたが熱は四十度以上が十数日続き体中は針を押した様な小さな紫斑が出る。鼻血は出始めもう到底助からぬと父や親類も呼んだ所、或る日の新聞に何とか云ふ博士の説で血清注射が原爆患者には有効であることを読み早速それを試みた所、意外にもそれから熱は次第に下り始め出血も止り辛くも一命を取り止めた。今では普通人と少しも変らぬ元気さで博愛の道に精進してゐる。

私のすぐ上にある山に登れば市中の劫火は何時消ゆるともなく燃え続け丁度灯篭流しか提灯行列かの様に見えた。私はこの変り果てた景観を喪神した虚ろな目で何時迄も眺めるのであった。

こうして我々は敗戦の惨禍を嫌と云ふ程身を以て体験した。八月六日は尊い幾十万の精霊が平和日本の礎えとなられた事を想起し心から泌々と新たなる黙祈を捧げると共に真の世界平和を願って止まない次第である。もっと委(くわ)しくもっと書き度い事が山々あるが残念乍ら枚数に制限がありこゝで筆を止めやう。誠に表現が拙なく意のまゝに書けないのが残念だがこの飾りのない真実の記録を読んで頂けるならこんな幸せはない。

終り。
 
被爆当時住所 己斐中本町□□□□□□□
職業       酒、醤油、茶、販売業
年齢       三十四才。妻。

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)三二~四六ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和25年(1950年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま朗読しています。
個人名等の読み方について、可能な限り調査し、特定しました。不明なものについては、追悼平和祈念館で判断しています。
また、朗読する際に読み替えを行っている箇所があります。】

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