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廣島原子爆弾 恐怖の想出 
新保 英夫(しんぽ ひでお) 
性別 男性  被爆時年齢 43歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
爆心地より   一三〇〇米突

当時の住所   広島市鉄砲町□□電車通り□□□□□

当時の家族   新保英夫    四三才
     妻       八代子   三四才
     二女      比佐子      五才
     三男      守         二才

疎開家族 長男 新保幸利    一三才
         次男      忠孝       一一才
         長女      美代子       八才 

八月六日の思出

今朝は五時半頃から隣組の方々と一所に家屋疎開の跡片付け作業に行った。ここは自宅から五十米はなれた電車道の西側で、裏は陸軍兵器倉庫に接した十二三軒の、家屋である。疎聞作業は軍隊が来て家の主柱の中程を、ノコギリで切り、ロープを掛けて引倒すのである。瓦も其のままだから先づ瓦の整理から手をつけた。朝とは言へ真夏の事で暑さは厳しい。二時間位して一休みした。其の間に足らぬ道具を取りに帰る人、汗を流しに帰る人等、俺の妻八代子も作業に来て居たが、背の子供に乳を飲ますため家に帰った。俺は尚多く残って居る瓦を何処へ片付けるべきかと、考え乍ら屋根の棟から二三歩下へ歩いた時であった。

ピカッと白黄色の強力な光線チェーと言ふ強音(この音はトタン板を多数重ねた中を一枚引抜く様な音)で吹飛ばされた。

それからは何も判らぬ瞬間だった。トオトオ爆弾を投下された、と思ひ乍ら平素から訓練した通り、指先で目鼻耳をおさえて地面に伏せて居た。背中へ石コロや木切等が降って来る。一寸頭を上げて見る。黒煙の中に居る様で真暗だ。実に静かな一時(ヒトトキ)であった。又頭を上げて見た。地面から三尺位が見え出した。俺は電車線路迄六米程吹飛ばされてゐた。身体を働かして見る。何処も怪我は無い様だ。急に子供の泣き声がする。ソーダ俺の子、比佐子も側で遊んで居たのだ。夢中で声の方えかけ出した。子供も俺の前を通った。すぐ横抱きにする。顔は埃(ホコリ)だらけで口と鼻から出血して居る。うす暗い中を我が家の方へ歩いた。

広い電車通りも電柱は倒れ、電線や電車の架線は地上にみだれ落ちてゐる。東側の家々は皆壁土をふるゐ落された様で見る影も無い。大部分が半倒(タオレ)である。人々は無言で右往左往して居る。我が家迄帰る。半倒だ。中へは入れぬ。隣の山田の主人が貯水槽から裸で出て来てヤラレタと言って居る。俺は大声で「オーイ八代子」と妻を呼んだが何も返事がない。致方なく三四十米南へ廻り、縮景園へ入り裏へ廻った。ここは平日(ふだん)から非常口としてゐた。

「オーイ八代子」と呼んだが又返事が無い。子供を抱いたまま家の中へ入ろうとすると、妻も血だらけの守(マモル)を横抱きにして出て来た。比佐子も守も俺達二人の顔を見合せて泣きもせず、恐れおののいて居る。俺は現在四人家族全部が揃ってよかったと思った。妻に薬はどうしたかと尋ねた処(トコロ)、妻は知らぬと云ふ。致方無く救急薬袋を取りに、家の中に行った。

防空用具や救急薬の置場所も、壁が落ちて何も見へぬ。奥の八畳の間も天井が落ちて、タンスにささえられて居る。タンスもフタが開き中の物も埃(ホコリ)だらけだ。何処かに薬は無いかと探したが見当らぬ。致方無く裏に出た。

其処には今迄一所に作業して居た人々が、五六人集まって、早く何処かへ避難しようと相談して居れた。隣の山田信夫君の長女は横ばらを大打撲傷だ。まだ三才位の子供で助かればよいがと思った。兎角(トニカク)俺は薬がほしい。

近くに有った防空壕へ入って見た。有った有った非常持出用の薬箱が。昨夜の空襲警報の時、俺が持出した物だ。俺の子供等や近所の人々にもアカチンをぬったり、ホータイしたり、又多坂氏の三才の子供も主人の背中で死期がせまった様な重傷だ。これにもカンフルを一本注射した。

新保サーン。近所の人が呼んで居る。行って見ればA君の妻君が、全壊家屋の下敷となり、顔だけ出して助けを求めて居る。柱をはづして何とか身体を出そうとすると小さな声で、妾は死んでもよいから下の子供を助けて呉れと云ふ。見れば大柱の下に二才の男児が胸部を押へられ死んで居る。其も知らずに自分はよいから子供を助けて呉れと。何んと貴い母性愛だろう。三人で協力して母親だけでも出そうとしたが、仲々柱が重くて動かない。誰かに力を借ろうと表通りに出た。

多くの人が北の方へ行く、これ等の人々に援助を求める事は出来ぬ事に気が付いた。その通る人は皆重傷者だ。「逓信病院はこちらに行くのですか」と尋ねる人々で、それが皆裸同様で、ボロボロ衣(ぎ)を着けて、全身大火傷者と、血みどろの重傷者だ。頭髪も三寸位が焼残りて、乱立って居る。腕も火傷のために中間に差上げたまま動かぬらしい。見ても恐しい姿である。これ等の人々が、家屋は倒れ、大樹も電柱も倒れた場面を背景に、電線や架線が乱落ちた道路を、病院へ病院へと救を求めて、行く有様は、此の世の中の地獄絵図だと思った。

俺は致方無く引返した。A君の妻君も、引出す事が出来そうなので、一先づ我が家の裏へ帰る。二人の子供は泣もせず妻に抱き着いてゐる。妻も背中は血だらけで着物もズタズタに破れて居る。

近所の人々も、又次に焼夷弾でも投下されたら危険だから、早く安全な所に行こうと云われる。南三百米位の所には火の手が上がった。これでは此処等も火災はまぬがれぬ。早く縮景園裏の堤防へ行こうと話を定めた。園内は爆風のために大樹が倒れて至る所で妨害して居る。

来て見ると俺等がよいと思ふ所は人も善い所と見へ数百人が避難して居る。居所を定めたら又俺は引返し、家具を持出す予定だったが、これでは引返す事も出来ない。

比佐子は火傷が痛むらしく苦しがる。持合せのアカチンを塗り呼吸も苦しいらしいのでカンフルを打った。其以上は何んの手もほどこし様が無い。増々人は多くなる。軍人も重い火傷して多く避難して来た。川辺りに居た人は後からおされて川中へ押出された人もある。川上でも此処と同じ事が有ったらしく、多くの人が流れて来る。

ここから三百米位川上に常盤橋があり、又百米位上に、山陽線の鉄橋がある。この鉄橋の東詰で、貨物列車が爆風のため脱線し、機関車から火を吹いて居る。常盤橋西詰の消防詰所も、自動車庫から火の手が上った。

川向ふの二葉の里、大須賀町方面も各所から火の手が上ってどんどん広がって居る。

午後二時頃と思ふ。ブルンブルンとB29が上空を飛んで来た。その時である。

川向ふの三樹園付近の家は全焼して、其の火勢が川原で大きな火の柱となり、火の竜巻となった。火柱は三、四十米も燃上り、付近のあらゆる物を、空中に巻揚げ火と成って燃揚る。川原に避難して休んで居ると思った人も、実は死んだ人で、これ等も竜巻に吸込まれ火達磨となって燃揚て居るのも見た。其の竜巻のため付近は、大旋風が起り、川も大浪が立って居る。我々も皆竜巻の方へ吸込れる様に引付けられた。中には川中へ引込まれた人もあった。其の内に大粒の雨が降って来た。真夏の空はカンカン照って居るので雨では無い。人々はB29がガソリンを撒いたとさわぎ出した。自分は水面を見た。ガソリンなら油が浮く筈だが油は浮かぬ。俺は思ひ付いた。竜巻きのため川水を吸揚げ其れが降るのだと。俺は其の事を大声で一同に聞える様にさけんだが、間も無く粒雨もやみ、竜巻も消えた。

縮景園内の林もパチパチ燃えて居たが其れも消えたので、我が家はどうなって居るか行って見る事を川見氏と相談した。前に増して避難者は混雑して居る。大半は重火傷者である。早死者も相当ある。其の中を分けて歩いた。天下の名園(浅野泉邸)も石とうろうは倒れ、大老樹も皆焼こげ倒れたのも、数多い。

此処らも火の旋風が通ったのか、短かい草迄焼けて居た。家の裏に着いた。案の通り何処も灰燼と化して居る。西向ふの兵器支廠内の各倉庫も又巾十五米、長サ九○米、二階建の煉瓦造り倉庫も倒れ、ズット西の方迄見える。八丁堀方面も皆焼けて、福屋百貨店が、黒くくすぶって残って居る。

人影も少ない森(シン)とした暑い電車通りを、唯一人全身裸で、腰部にボロ衣を巻き、引ずりながら、苦しげに歩いて居る。「オーイ」「兄貴 」と俺を呼ぶ。弟である。全身火傷で、はれ上り一目では弟と判らぬ。「安夫かしっかりせよ、家族はどうした」と尋ねると「判らん」と答へバッタリ倒れた。俺もスグ其の場へ行きたい。しかし前は家の焼跡でまだ火があり行く事が出来ぬ。

「シッカリせいよ今注射を持って来るから」と急いで引返した。妻の処の救急薬袋を持って百米位遠廻りして、電車通りに出た。

弟(四○才)は電車道に倒れて居た。ひどい火傷だ。皮ふはむげて、ぶら下って居る。「安夫シッカリせいよ死なしはせんぞ」と泣乍らカンフルを注射した。弟はウンウンと苦げに息もたえだえだ。一寸休んで弟の腕を俺の肩にして歩こうとした。腕からも、身体からも水気が流れて、俺の身体もネットリ流れる。其処へ隣の山田信男君が、通りかかり、「安夫君かい、ヒドイねえ」と驚き、手伝ってもらい二人で、堤防へ連れて帰った。其の途中で弟の家族五名は如何にしたろうかと考へ乍ら、歩いて居ると、道辺りの石に腰を掛けて居る子供が居る。深い防空頭巾をのぞき込んで見れば、弟の長男勝之だ(八才)。

思わず「勝之かヨカッタヨカッタ伯父サンに着いて来いよ」と片手で手を引いてやった。「伯父サン其れは誰ネー」と問ふ。
「コレハ、御前の御父サンデ」と言ふと
「僕の御父サンネー」余りの変り様に子供でも判らぬらしい。今迄歩いて居たのに、急にこれも倒れた。「苦しいよオ」頭巾を脱して見ると顔の半面と片身ごろが火傷だ。弟と一所に堤防の避難場所に休ませた。妻も二人を見て「ヒドイ事やられて可愛想に」と泣いてる。近所の人々もかけ付けて可愛想な事をしたと見舞って呉れた。

夕方近くなった。方々の火災も焼尽したのか火勢も衰へた。元気な人々は思ひ思ひに避難して去った。後に残ったのは重傷者と其家族である。寝て居ると思った人も、死んで居る人が多い。重傷者が水を水をと飲み水を求めて居る。俺は家を出る時一升ビンに清水を入れたのを持って出て居たので、子供等にも飲ませ、又ほしがる人にも上げた。其の空ビンに川水を詰て自分ものみ水を求める人々にも、次々と飲ませて廻った。自分の子供等が水を呉れと泣いて居るが、仲々子供の所へ行く迄に四五回水を川に詰めに行かねば行かれぬ程人々に水を飲ました。火傷者には水は禁物と聞いて居たが、どうせ助からぬ人には、末期の水と思って飲ませた。川の水ぎはでは、重傷者が水を飲みに腹ばいで行き、流れに顔を突込んで多数死んで居た。

永い夏もトップリ暮れた。四方を見渡せば、尚各所に火の手は燃え上り、暗い夜空を照らして居る。俺は思った。今日程の大事変があり、多数の死者もあろう。此の世に神が仏があるならば何か変った現象でも現れはせぬかと、夜の大空を仰(あほ)いだが、天にも地にも、何んの変りも無く、唯燃え上る、焔をうらめしく眺めた。

夏とは言へ夜半になると実に寒い。身に着けて居る物も簡単な、夏着で大破れが、大部分、裸も多いので、一曽寒さは身にしみ、あちらからも、こちらからも寒さを訴へる。一様に小さな泣声で。死の寸前でもあろう。かすかに母を呼ぶ声、妻の名を呼ぶ人、夫を呼ぶ人等、実にあわれな情景である。

弟安夫も寒さと身体の痛さを訴へるが、如何共出来ず、実に寒い苦しい、いぢらしい夜であった。

夜更けても水の配給は続いた。家族にも、知らぬ人にも、末期の水を。川の中の屍を押のけて水をくむ。俺も無論飲んだ。

八月七日の想出

灰燼と化した広島市を、真夏の太陽は無心に照つけて居る。避難者は少なく、なったが、死骸はズイ分増して居る。軍人の重火傷者が多いのが特に目に付く。時間がたつに連れて火傷(ヤケド)の跡がハッキリする。誰も傷跡が痛むらしい。昨日の朝から、何も喰わないが大してほしくも無い。唯水ばかりだ。近所の人が東練兵場でニギリメシを貰って来て呉れたが誰も喰わぬ。俺も一口で後はほしく無い。

十才位以下の子供は負傷と日光の直射のため、一様に脳症を起して居る。俺の子比佐子も、弟の長男勝之も、身体はハレ上り脳症を起して、何かタハ言を言って居る。これでは二人の子供も、弟安夫も、駄目だろうと思た。

午后二時勝之が死んだ。三時頃岡山から初めて我々の所に医療団が来た。早速俺は診察を乞た。医療団の所迄は、二○米位あるのでタンカで弟を運んだ。身体を動かした弟は大変苦しがる。医師の処には三十名位の重傷者がゐたが、次から次と息を引取って居る。弟の診察の順が来た。医師は弟を見て、
「コレハ大変だネー可愛想に」と首を片向け心臓部に直接注射した。しばらくして弟は目を開き、力無げに俺を見上げたが何も語らぬ。

俺は「苦しいか医師が来られたからスグ楽になるで」と言ったが、弟は又目をつむり、ピリピリとケイレンした。此が弟の最後であった。妻もかけ着け近所の人も来て呉れた。先に死んだ勝之を、安夫との所に一所に並べて「オ父サント一所に善い所へ参れよ」と悲しい別れをした。

二時間位前、妻は縮景園の表門の処に、軍の救護班が来たとの事で、背中の傷を診て貰いに行って、帰っての話

看護兵は「伯母サン傷はガラスでひどくやられましたネー」、妻は「兵器廠の処ですがあれの至近弾でやられました」「伯母サン、軍の方でも色々調べて居るのですが、今迄何処へも、爆弾が落ちた跡が無いのです。其れで新型爆弾一発で、広島全市をやられたと云ふ事になって居るのです。今調査中ですがネ」

こんな話を聞いて帰って初めて原子爆弾と云ふ事を知った。

近所の人々も焼跡の、我家の裏の広場へ行かれた。俺達も二人子供を連れて、行った。焼残りの食器や釜鍋等で夕食を仕度して、昨朝から三十五六時間目に温かい食事をして、大変うまかった。

夕方である。多数の屍体の中に、婦人らしいのが転がって居る。四五才の子供が近くで遊んで居る。母の死も知らず寝てでも居位(ゐるくらい)に思って居るらしい。可愛想な事である。俺の子供も傷が無ければ一時(ひととき)でも、引取ってやるのに死の寸前の子供が居ては何とも出来ぬ。通り合せた人に其の事を話すと、「これは幟町の××さんだ」と云ふので其れに子供を頼んだ。

又今晩も野宿で、土の上に寝るのだ。子供二人を中に、妻と四人が寝ころんだ。

脳症を起した比佐子が、ハッキリした言葉で、「オ母チャンオ母チャン」と手さぐりで母を探す。妻は「オ母サンもオ父サンもココに居るよ」と云ってやる。比佐子は「オ母チャン比佐子ハネ目ガミエンノヨ」と妻も俺も比佐子の両手を二人で握り、「ミンナココデネンネシヨウヨ。守チャンも居ルヨ」と言って聞かすと、安心して寝たと思ったら其れが最後であった。子は親を、親は子を探して、唯一人で淋しく死んだ数多い人の事を想へば両親が付いて死なした事をせめての慰めであった。

夜更けて俺は起上り、四方八方を眺めた。

広島全市の焼跡には幾万余の、死骸がある。うらみを飲んで死んだ人、何も知らず瞬間に死んだ人、これ等の霊魂(れいこん)があれば今こそ出そうな物だと。しかし何も、見る事は出来なかった。

八月八日以後の想出

縮景園の生活も、野宿の事で永く続ける事が出来ず、親籍を次から次と流浪の旅を続けた。

妻も背のガラス傷がまだ治らぬのに子供を背負って歩いた。俺は何処へ行っても家に落着くと熱が出て働けぬ。余り焼跡を留守にする事は残務整理上都合が悪ので時々帰り、残務を整理した。

九月初め山口県の末弟の処へ長女を疎開さして居るので、其処へも行って帰った。

余り暑いので裸になった処、近所の人が俺の身体を見て、「新保サンも斑点が出て居る。爆性だ。其れで多くの人々が死んで居るのに」と云ふ。

その日が土曜で病院が引けて居た。二日目の月曜日に病院に行った。五六十名の患者の順を待ち間に、俺は倒れた。顔がチカチカする。気分が悪い。順が来て診察してもらふ。

医師は「君は手オクレだ」死の宣告である。二日毎に自己血清が行れた。バラックに居ても、熱は高し息は苦しい。頭と胸を冷す。妻にやった事の無い注射を無理に打たせた。下熱剤のエルスチンであったが、其れも効いたのか熱が下って楽になり、九月二十日頃医師も驚く全快ぶりであった。

其の後食糧関係が悪るく、一時は大豆ばかり十日間位の配給で、三男守と疎開帰りの二男忠孝は大腸炎、妻はBの不足で歩く事が出来ず、三人の内誰から死ぬのかと心配したが守が医師の手厚い看護も無なしく十月二十日に死んだ。其守の死骸も身内で処置するので、近所の人々に手伝って貰らい、親の手で涙乍ら火葬した。

七十年も人類が住めぬと、発表された広島を早く遠ざかりたいと、八キロはなれた矢口に一時的の疎開をと思って来たが、あらゆる面で広島市へ帰る事が今日迄出来ず、恋しい広島の空を眺めて暮して居る。

(終)

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)七八~九六ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
 

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