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原爆体験記 
前田 典生(まえだ のりお) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1950年 
被爆場所 東練兵場(広島市尾長町[現:広島市東区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二十一年と云へば大東亜戦争も追いつめられたと云った感じだった。八月六日も朝早くからB29は襲って来た。今その時を顧みると虫が知らせたと良く云ふが自分も前日学徒動員の仕事で踏抜きをした足が痛く今日は休もうかと思っていた。しかし広島一中の教員だった父は「それくらいの事で」と云ってどうしても休ませなかった。警戒警報も丁度解除になったのでしぶしぶ藁草履をはいて出かけた。今では考へられない満員電車でほんとに車体のどこにでもぶらさがって行く状態で自分も真中辺にぶらさがって行った。五日は県庁で疎開の仕事をし六日も引続き同じ仕事をする筈だったが都合で変更され東練兵場でいもの手入れをするのだった。此の日の暑さは格別で朝から焼けつく様であった。とても日向には居られなかった。丁度機関車を隠す壕があったのでそこに蔭をもとめて入った。そして雑談している中に集合時間の八時は過ぎた。「集合」と云ふ教官の命令のもとにもえるような八月の太陽の下に立った時は目がくらむ様であった。途中から一緒だった友達と共にぶらぶらと教官の方へ集っていると突然聞きなれたかん高い金属性の爆音が聞えた。教官の所にはたくさん集っていたがみんなそのままの姿勢で空を仰いだ。その当時誰でもこの爆音は不気味に聞え国民こぞって恐れていた、しかし未だ一度も空襲を受けた事のない広島市民は自分もその一人だったのだが、青空を見上げて機体を探した。雨宮君は見つけて自分に教えて呉れたのだがどうしても見当らない。今でこそ落下傘だったと分っていたのだがその時は不思議に思へた。三ケのものを空中に見つけた。そうだ馬鹿のように紺碧の大空を仰いでいたのだ。その時B29のづうづうしいばかりのあの巨体を見つけた。その瞬間全然記憶がないが兎に角ぶったおれていた。あわてて防空訓練で知ってゐた眼と耳をおさえた。ふと目を開けて見ると眼前は真黄色である。あの広い東練兵場が見渡す限り真黄に見えた。その中を一人二人と次々と逃げ始めた。その時自分は、始めて身近に焼夷弾が落ちたのだと知った。頭の髪がジリジリと音をたてて焼けている。服もズボンも左側だけが焼けていた。あわてて逃げだした。雨宮君と共にあてどもなく走った。逃げ乍ら火をたたき消した。その間数分だったか否数秒であったかも知れない。走り乍ら前方を見ると家々の屋根は吹飛んで家は傾きくずれかかっていた。爆弾が落ちたのだなと直感した。兎に角一応元の壕まで帰って落着いてみると顔も手もひりひりとして皮がむけぶらりとたれ下っている。首などはもう全然表皮がついていない。非常に痛むので少しでも軽くしようとして口もとに手を当ててふうふうと吹いていた。その内に突拍子もない人の声に自分達はびっくりして壕から出て見ると何と美くしい偉大なる雲のページヱント、何とも形容のつかない美くしいそして荘厳なる丁度入道雲の頭の如くむくむくとした原子の塊りしかしその時は何とも知らずただ美くしい雄大なる一大奇形を唖然と見つめていた。その雲はだんだんと大きくなり大空高く広がっていった。緑、赤、黄、青あらゆる色彩が輝いてゐた。ふと我にかへると又火傷の痛さをおぼえた。その時教官も自分の大傷と手のほどこし様のないこの現状に自由行動を取るよう命令した。自分は大州、雨宮両君と共に行動する事にしたが先づ吹っ飛んだ帽子と弁当を探しに行った。風呂敷は焼けて見分がつかぬがどうやら自分自分の持物を探し求める事は出来た。いよいよ次にとるべき処置がわからないが何処ともなく歩き始めた。先づ荒神橋まで来てみた。処がもう広島市内は煙が一面たち込めてむせぶようだった。とても市内へ入って行く事は出来ない。そこで牛田町へ廻る事にした。丁度その頃市内からは家屋の下敷きや硝子の破片で傷を受けた人々が逃げて来始めた。後で聞いたのであるが家の中にいた人は一面が真黒くなったといふ。その為だったのだらうすべての人が顔中真黒でその中に血が流れているのだ。実に悲壮な姿を先づ見た。ぼろぼろにやぶれたシャツを着た姿は子供の云ふ幽霊を連想させるものだった。その時の自分の顔はどんなだったかしらないけれど。それから引返して踏切りの所まで来た時に多くのトラックがもう沢山のけが人をのせて運んで居るのに出逢った。ここで大州君とはぐれてしまった。彼はそこから宇品へ逃げたと後で聞いた。いよいよ牛田へと思って行くうちに牛田方面から逃げて来たといふ人に出逢った、その人は牛田へ行く道もそして牛田ももう焼け始めたと云ふ。仕方なく今度は尾長町へ行く事にした。尾長国民学校が救急所と聞いたので。その途中若い女の人で顔中火傷で表皮がなくなっている人がたよりになって呉れと近づいた。小学校に着いて驚いた。自分達のように軽傷者は殆んどいない。全身血まみれの人全身火傷でズルズルになってゐる人達ばかりほんとうにフンドシ一つで手を上にあげて立っている人もいた。火傷で表皮がぶら下り殆どむけて手を下す事が出来ない。それは悲痛等の言葉は通り越して感慨無量であった。その中に学校から程遠くない所に火の手があがった。又雨宮君と他所の救護所へ行く事にした。例の女の人には何時の間にかはぐれてしまった。尾長の家々は皆んな開け放されたまま人は逃げて居た。屋根はくずれかかり家は倒れかかり座板ははね上り天井は穴だらけそしてタンスは開けっぱなしである。貴重品でも持って逃げたものと思はれる。鶏は家の中を走り廻り無残な状態である。隣組の牛乳があったので友達とそれを火傷の部分にぶっかけた。そんな事をしながら二葉山のふもとまで来た。そこで尾長の天満宮へ登った。そこは友達の家だったので昼すぎまで其処にいたのだが何とその時の感じは筆舌に表はせるものではない。先程まで軍都広島と誇った大都市も一面火の海、広島駅も炎々と焼けて空は黒煙で覆はれてゐる。駅の横の広場に置かれてあったドラム缶に火がついてものすごい音響と共に爆発する。そして火が真横に飛ぶ。黒煙は尚もくもくと上る。真に空は黒一色にぬられた如く陽光をさへぎるようであった。その頃西部では黒い雨が降ったといふ。不思議な事だがこの煙や塵が加ったものと思ふ。しかし自分達は少しばかり望みをもっていた。それは宇品の方面が焼けていない事だった。そこで自分達は宇品を目的に行く事に決心した。胸はむかむかして勿論物を食べる元気など無い、しかし食べなければ弱るだろうと云って弁当を無理矢理に少し食べて出かけた。その頃はもう警備隊が出動していて橋を渡らせて呉れなかった。そこで宇品行きの汽車の鉄橋を渡って比治山の東側へ出た。相変らず火傷はズキンズキンと痛む。鉄道を伝って遂に大河まで来た。そこから比治山を廻って医大の所へ出た。処がもうその辺からは火の海に包まれていた。只驚くと云ふ他はない。爆弾が落ちて数時間しか経っていないのに広島市内はほんとに灰塵と化していた。いや尚も南風によってどんどん焼けている。何一つ残っているものはない。遠くに日赤病院、市役所といった洋建築物がにょきっと立っているだけだ。空は赤く映り自分達はその中に入って行く事を躊躇した。その時広島二中の先輩が来て「ついて来い」と云って歩き出した。恐る恐るついて歩きはじめたが煙がとてもはげしくむせび泣くようだった。着ていた服を頭からかぶり目の前だけをあけて歩いた。しかし南風は西に向って自分達の火傷のそばを熱風がたたく。火傷は益々痛むばかりでとても苦しい。若し一人だったら引返していただらう。道には電柱が焼け倒れて電線が渦をまいてころがっている。勿論乗物には乗れず道行く人は皆苦しそうに歩いている。少し行くと道端には馬が倒れ人が倒れている。馬は後足で苦しそうに道路をけっている。人は全身火傷で虫の息である。中には水槽の中へ入ってもだへている者もいる。又水を欲して大きな声で叫んで居る。目で見られない様な姿だ。少し行って文理大の裏まで来てほっとした。小さい川がある。この川からは熱風でなく涼風が吹いて居る。そこで一休みしてほっとした。しかし又熱風の中を歩かなければならない。その辺からは道端に倒れている人の数が非常に多い。苦しまぎれに叫んでいる人も水を求める人も最後の息だ。しかし自分達はどうにか鷹野橋まで来た。この間の長い事と云ったらない。やっとの思ひだった。此の辺りから南側は焼けていない。だが道端の死人が目立って多くなった。重傷者も多い、殊に橋の根もとに来たら重傷者や死んだ人がごろごろと重り合ってころがっている。橋の上は足の踏場もない位である。橋の上では熱風が来ないからである。

帽子をかぶっていた人は鉄冑をかぶっているかの如くそこだけが残ってあとは真赤である。赤チンキでもぬったのかと思はれる程全身真赤なのだ。一皮むけたからなのだらう。それらの人は懸命に通る人々を見つめて知人を探していた。「自分は何処の誰であるが貴方は誰々だらう」と云っては話しかけている。こちらからは全々見当がつかぬ程焼けて居るのだ。又水を求める人も多い。自分は水筒を持っていたので見る人毎に哀願された。しかし断っても空だと証明するまではあきらめて呉れない。終にはかくして歩いた。こんな重傷者が何人居たであらうか。数限りなく橋の上と言わず橋のたもとと云はず力尽き果てて其の場で苦しくもがいていた。この頃三菱に勤務して居る人達が大分居た。その人達は江波、己斐町以西は大丈夫だと云っていた。自分は雨宮君と共に安堵の胸をなでをろして喜んだ。家は心配がなくなったからだ。と同時に熱風にさらわれ乍ら苦しい中をがまんして来た気が一度にゆるんで先輩からはおくれがちになった。先輩はついて来る様にはげましては歩いた。そして多くの死人や重傷者を目の当りに見乍ら橋を渡ってようやく舟入町まで帰って来た。そこで先輩は江波へ行くからと云って別れた。その時自分達はぐったりとなってしまった。

恐らく先輩がいなかったらこの苦難の道を此処まで逃げ帰る事は出来なかったであらう。観音橋を渡って二中の処まで来た時はこの上もない嬉しさで一杯だった。しかし自分の学校は見えない。中へと思って裏へ廻ってみると校舎は焼けてすっかり無くなっている。仕方なく又歩き始めたけれど足は棒の様になり傷は容赦なく痛んだ。己斐町まで帰った時家の近所の人に逢った。急いで家の様子を聞くと無事だと聞いて先づ安心した。この人は弟が帰って来ないので探しに行くと云って別れた。自分は思はず涙が出た。そして今朝元気良く出掛けて行った父の事を案じ乍ら雨宮君と別れて我家にたどり着いた。喜びのあまりあふれ出る涙をどうする事も出来ない。家の中は殺風景でがらんとして居た。父は座敷に寝て居る。しかしどうにか帰って来た自分を見て非常に喜んで呉れた。父は堺町で火傷をおったのだ。自分よりも、もっともっとひどかった。自分も疲れ果ててぐったりとなり父と並んで横になった。三日して父は病院へ入院しなければならなかった。その時自分に「兵隊になって立派に国の為に働いて呉れ」と云ひ残して行った。父は八月十三日遂に亡くなった。かくの如く亡くなって行ったものは総て国の為に尊い犠牲となって呉れたのである。

自分の傷はその頃やや楽になって居た。何しろ一時は顔中が膿で覆はれていたのだ。しかし父の事を果す事は出来なかった。十五日の重大放送で遂に無条件降伏をしてしまったのだ。せめて父が後二日程生きていて呉れていたらと思ふ。実にあわれな最後だった。かくして私達は戦いに敗れ父を亡くし祖母と二人になったけれど永久の平和を切に切に祈っている次第である



昭和二十五年六月三十日

原爆当時
住所  広島市古田町古江□□□□□
氏名  前田典生
     十五才
職業  広島第二中学校二年生在学中

現在
住所  仝右
氏名  仝右
     十九才
職業  無職(病気)

出典 『原爆体験記募集原稿 NO2』 広島市 平成二七年(二〇一五年)四七~六〇ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十五年(一九五〇年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
 

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